フィギュアスケート

同志社大学・前野百花、高橋大輔さんの家族や鈴木明子さんとの交流を通じて再出発

再出発を誓った同志社大学の前野百花(撮影・浅野有美)

フィギュアスケート女子で同志社大学2年の前野百花(ももか)は、高校1年で近畿ジュニア選手権を制するなど活躍していたが、心と身体のバランスを崩してしまい、「スケートを休憩」。しばらく競技から離れていたが、高橋大輔さんの家族や鈴木明子さんとの交流を通じて、再びリンクに戻る決断をした。再出発を誓った前野は、長光歌子コーチや笹原景一朗コーチの指導を受けながら、サポートしてくれた人たちへの感謝を胸に、全日本選手権出場に向けて練習に励んでいる。

片道2時間かけてリンクに通った日も

スケートリンクは大きな敷地を要することから、公共交通機関で通うには不便なところに造られていることが多い。また便利な場所に施設があったとしても、一般営業時間以外の早朝や深夜に練習することも多く、家族の協力があってこそスケートを続けることができるという選手が多い。しかし、家庭の都合で送り迎えができない状況でも、「スケートが好きだから」と、遠方のリンクに通う選手も少なからずいる。前野もその1人だ。

前野がスケートと出会ったのは、保育園に通っていた6歳の時。2つ年上の従兄弟(いとこ)とともに、家の近所にあった京都アクアリーナのスケート教室に通うことになったのがきっかけだ。スケートの魅力にハマり、選手を目指そうと思うことに時間はかからず、シーズンリンクである京都アクアリーナが閉まる時期には選手登録を済ませた。

リンクが閉館となる夏季シーズンは、従兄弟と電車で片道2時間かけて、大阪府柏原市にあったアクアピアスケートリンクまで通った。母親が書いてくれた交通経路のメモを頼りに、ほぼ毎日リンクに通うこととなった。

従兄弟が練習拠点を変えることになったこと、また1人で通うには心細い道のりもあることも相まって、前野も1年を通して同じ場所で練習できる環境を求めて拠点の変更を検討。小学校5年生の時に、関西大学のリンクで指導している長光歌子コーチに師事することになった。

本田武史コーチにジャンプを見てもらい、山井真美子コーチにスピンを含めたレベルチェックをしてもらうなどチーム体制の指導で、練習環境はとても充実したものになった。その成果はすぐに結果に表れ、その年の近畿ブロックではノービスBで優勝を果たした。

その後もできるジャンプが増え、技術が飛躍的に伸びていたが、ノービス最後の年に右足首を疲労骨折し、氷に乗れない日々が訪れた。成長期の時期であることから手術はできず、骨の成長を待つしかなかった。

今年1月のインカレ7・8級女子に出場し、「SAYURI」を披露した(撮影・浅野有美)

高橋大輔さんからビデオメッセージ

氷に乗れる日々を思い、リンクに併設されているスタジオやグラウンドなどでトレーニングをすべく、毎日関西大学のリンクへ通った。その努力の甲斐(かい)があり、復帰後はジャンプの感覚がすぐに戻り、3回転の連続ジャンプも軽々こなすほどになっていた。

しかしシーズンイン目前の夏、再び前回と同じ場所を骨折し、手術をしないと選手生命が絶たれると医師から宣告を受けた。調子も上がってきており、いよいよスタートラインに立てたと思っていた矢先の出来事で、当初は塞(ふさ)ぎ込んでしまった。しかし、長光コーチはなんとか前を向いてもらおうと励まし支え、それを聞きつけた当時のチームメイトだった元オリンピック日本代表の高橋大輔さんからビデオメッセージも届き、手術をし、リハビリに専念する決断をした。

リハビリはつらいものがあったが、秋ごろから徐々に氷に乗れるようになり、試合勘を取り戻すべく京都府の国体選手選考会に出場。フリーを滑り切る体力はまだ完全には戻っていなかったが、今できる精一杯(いっぱい)の力を出し切った。リハビリやトレーニングをコツコツと積み上げていたこともあり、ジャンプの感覚もすぐに取り戻していった。その後、国体本選への参加も決まり、京都府入賞の成績に大きく貢献した。

高校は家から近い京都光華女子高校に進学。新しい環境に胸を踊らせていたが、入学前に新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)し、その影響により全ての授業がオンラインでの実施となった。当初はオンライン授業に戸惑いはあったものの、次第にペースをつかみ、リンクで授業を受けるなど時間を有効に活用していった。

その年の近畿ジュニア選手権で優勝するなど競技成績も飛躍的に伸びていった。いよいよという時ではあったが、様々な環境の変化に心が徐々に追いつかなくなり、次第に練習への足が遠のいていくようになった。頭ではスケートに行きたいと思っていても身体は思うように動かず、心と身体のバランスが崩れていた。そして高校2年生の国体出場を最後に「スケートをやめる」と決意し、長光コーチに伝えた。だが、長光コーチからは「スケートを休憩する」ことを提案され、少しの間、スケートと距離を置くことにした。

2020年近畿選手権ジュニア女子で優勝した(代表撮影)

「スケートを休憩」 倉敷で過ごした大切な時間

高校3年生になり、登校する日も増えた。帰り道に友達とプリクラを撮ったりファストフード店に寄ったりなど、絵に描いたような高校生活を送った。スケート一筋だった前野にとっては様々なことが初めての体験で新鮮に感じた。しかし、次第にスケートが恋しくなっていることに気付いた。

1度はやめると決意したが、スケートの練習がないと手持ち無沙汰になり、どう過ごせば良いのかと思う日も増えた。考えた末にもう一度長光コーチに連絡をし、「またスケートをやりたい」と伝えると、「帰って来てくれると思っていた」と温かく迎えてくれた。

「知り合いがいないリンクの方がのびのび滑れると思う」と助言を受け、高橋さんの出身地である岡山県倉敷市のリンクに行くことになった。久しぶりのスケートはすごく楽しく滑ることができた。そのリンクで練習するジュニア選手の家族にもよくしてもらい、しばらく倉敷に滞在することになった。特に高橋さんの両親には陸上トレーニングを見てもらったり、ご飯を作ってもらったり、心から楽しいと思える日々が続いた。

そんな中、元オリンピック日本代表の鈴木明子さんが、ジュニア選手の振り付けのために倉敷のリンクを訪れた。かねてより鈴木さんのファンであった前野は、長光コーチを通じて鈴木さんと話す時間を設けてもらった。初対面だったにもかかわらず、前野は今のスケートに対する思いを鈴木さんに全て吐き出した。それを聞いた鈴木さんは優しく受け止めてくれ、さらに鈴木さん自身が経験し感じてきたことを丁寧に話してくれた。

前野の塞ぎ込んでいた気持ちは完全に晴れ、「再出発したい」と心を動かされた。後日、鈴木さんにフリーの振り付けもお願いをし、再出発への準備が始まった。

高橋大輔さんの家族や鈴木明子さんとの交流が前野の気持ちを変えた(撮影・浅野有美)

笹原景一朗コーチに師事、全日本を目指す

昨春、同志社大学へ進学しフィギュアスケート部へ入部。しばらくは自主練習がメインで、長光コーチのレッスンはスケーティングなどをメインに週に1回というペースで受けていたが、本格的なシーズンインを目前に笹原景一朗コーチのレッスンも受けるようになった。

笹原コーチのチームには同じ年代のスケーターが多く、前野自身の励みにもなると思い、長光コーチと相談し、笹原コーチにはジャンプなどエレメンツをメインで習うことに決めた。それから練習もさらに楽しくなり、以前のようなキレのあるジャンプに戻ってきた。

けがで夏の試合を棄権するアクシデントもあったものの、近畿選手権を通過し西日本選手権へ出場。惜しくも全日本選手権への出場は逃したが、徐々に調子が戻っている手応えはあった。年明けに行われたインカレでは前野が得意とするスピンやステップで高評価を得ており、1月末の国民スポーツ大会(旧国体)では京都府代表として出場し、入賞へと貢献。着実に結果を残してきている。

シーズン終了とともに新しいショートプログラムを作成することになった。曲は笹原コーチが「百花ちゃんのイメージがある」と持ってきてくれた「Warriors」だ。曲を聞いた当初は今までの前野のイメージからかけ離れており、本当に表現ができるのか不安があったが、今ではお気に入りの1曲となっている。3月に行われたエキシビションで初披露となったが、今までの可憐(かれん)な表現スタイルから一転、力強いクールな演技となっている。

5月5日にある「第57回四大学フィギュアスケート定期戦」が今年度の初試合となり、ジャッジにどういう評価をしてもらえるのかを楽しみに練習を積んできた。20歳を迎える2024−2025シーズンの目標は全日本選手権出場だ。一度は塞ぎ込んで離れたいと思っていたフィギュアスケートだが、「周りの手厚いサポートがあったからこそ、今もこうして滑ることができている」という感謝の気持ちを、結果で返していきたいと意気込んでいる。様々な思いを胸に、前野が全日本へ挑戦する姿を見られるのが今から楽しみだ。

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