大学アメフト

「起こったことすべてに意味がある」 アメフト部女子マネージャー、涙の1年の先に

大学入学から2年間、アメフト部のマネージャーとしてチームを支えてきた(右が本人、写真はすべて本人提供)

海外の留学先で病気になり、つらい一年を過ごしたアメフト部の女子マネージャーがいます。彼女は泣いてばかりの日々から、どうやって前を向いたのか。さまざまな思いを込めてつづった文章を、4years.に寄せてくれました。

フィールドのみんなが、まぶしかった

2019121日、かつて私がマネージャーをしていた成蹊大学は、シーズン最終節の東京学芸大学戦に35-0で勝った。関東大学リーグ2Aブロックの優勝と、1BIG8の青山学院大学との入れ替え戦出場が決まった。私は観客席にいた。部員のみんなの姿が輝いて見えた。まぶしくて、思わず目を背けたくなった。同じフィールドに立てなかったのが悔しかった。一緒に勝利を分かち合いたかった。集合写真に入りたかった。そのとき、強く思った。「もう1度ここに立ちたい、自分の本当にやりたいことは、きっとこれなんだ」と。アメフト部に戻ることを決めた。誰に何を言われようが、直感を大切に、自分自身を信じようと。 

昨年12月、ブロック優勝を決めた試合後の部員たち

その決心から遡(さかのぼ)ること約8カ月。去年の328日に、私は留学先のアメリカのオレゴン州へ旅立った。日本はまだ少し肌寒くて、桜が少し咲き始めたころだった。 

留学は約9カ月の予定だった。2年間通った成蹊大学を休学し、マネージャーとして所属していたアメフト部は休部。留学すると同期のみんなより卒業が1年遅れるから、決意するまでには時間がかかった。大学に入ったときから留学について考えてはいたが、アメフト部に入ってからは「無理だろうな」と思うようになった。でも時が経つにつれて、留学への思いは募った。自分自身変わりたい、成長したい、大人になりたい。もっと人と触れ合って、広い世界を知りたかった。視野を広げたかった。部活を理由に留学をあきらめたくはなかった。 

アナライジングスタッフとして活動

私は高校までバスケットボールやテニス、フィギュアスケートなどをやってきた。高校時代はバスケ部だったが、けがもあって途中からマネージャーになった。最初は大学で部活をやるつもりはあまりなかったが、高校の先輩が所属していたアメフト部から勧誘された。いくつかの部からマネージャーとして誘われたが、アメフト部の雰囲気のよさ、先輩たちのあたたかさに惹(ひ)かれて入部を決めた。マネージャーの中でも、対戦相手のプレーを調べてまとめるアナライジングスタッフとして活動してきた。 

留学前、アメフト部の同期たちがみんなで送り出してくれた(前列左から2人目が本人)

「行くなら、いましかない」。家族や友だちのサポートもあって、留学することを決めた。同時に、帰国したらアメフト部に戻るかどうか迷っていた。ずっと一緒にやってきたのに、自分だけが留学する。部に対する申し訳なさと罪悪感が心のどこかにあった。だからこそ、背中を押してくれた部員、とくに同期のためにも、この留学は絶対に充実させて頑張らなきゃという思いが胸にあった。だから留学前最後の練習の日、大きくてたくましい選手たちの前で、私はこう言った。「みんなに負けないくらい大きくなって、強くなって帰ってきます!」 

留学先のアメリカで、自信がなくなっていった

オレゴン州の小さな都市、ユージンに着いた。その日は小雨が降っていたが、空は明るく、きれいな虹が出ていた。まるで私を出迎えてくれたみたいで、うれしかった。この先何があるのだろう? 期待と不安が入り混じって、胸がいっぱいだった。 

周りに知り合いは誰もいない。まずは環境に慣れて、友だちをつくること。同時期に日本から留学に来ている学生は大勢いたため、徐々に知り合いは増えていった。それはうれしい反面、私は自分を周りと比べるようになっていってしまった。自分より英語力のある人がたくさんいる。寮の部屋で勉強をしている合間にインスタグラムをのぞくと、ほかの日本人留学生がホームステイ先の家族と楽しそうに過ごしているストーリーが目に留まる。「あれ? 同じ時期に来たはずなのに、なぜ違うんだろう。私がいけないのかな?」。どんどん自信を失っていった。そのころの私の口癖は「I am not good at speaking English」だった。日本にいる家族、友だちには心配をかけまいと、悩みも相談したいことも、自分の中に秘めていた。同時期に数人の友だちがオーストラリアやタイへ留学していた。彼女たちなら悩みを分かってくれそうな気はしたが、私の悩み相談で彼女たちの貴重な留学の時間を奪いたくなかった。 

日本ではアメフト部のみんなが頑張っている。チームのLINEで毎日送られてくる練習メニューや試合結果を見るたびに「私も頑張らないと……」という気持ちになった。でも、それ以上に部に対する罪悪感を抱いていた。みんなが練習している時間に寮でゆっくりしていたり、友だちと遊んでいたりすると、『自分だけこんな生活をしてていいの?』と思った。自分がいない間に新入部員は増える。部はどんどん変わっていく。なんだかプレッシャーに感じて、スマートフォンの画面越しでも耐えられなくなった。LINEは退会した。そして決めた。いま部活のことは忘れてこの留学生活に集中しよう、と。 

留学先で観戦したオレゴン大学アメフト部「ダックス」の試合

痩せると体重に表れる。それが心のよりどころ

負けないように頑張った。必死に英語を勉強した。それなのにテストの成績が悪いと、ひどく落ち込んだ。「なんでだろう? 何がいけないの?」と。そんなとき、私の心のよりどころは、体重だった。痩せると数字にきちんと表れる。今後の留学生活への不安から、私にとって自信をつけるツールが体重になった。 

留学して2カ月がたったとき、私は大学の日本人サークルの旅行に参加した。そこには同じ授業をとっている友だちも参加していた。その旅行中、私は、ある友だちが自分の悪口を言っているのを聞いてしまった。「見ててイラつく」。私はその瞬間、胸に矢が刺さったように痛く苦しかった。これまで私は、友だちとぶつかったり喧嘩(けんか)したりしたことがあまりなかった。だからかもしれない。奈落の底に突き落とされた気分だった。 

この人たちに嫌われたら私はここで過ごしていけないと思っていたため、一気に自信がなくなった。そして、もうノンストップになった。自信をつけるための体重はどんどん減っていった。「今日は大学と寮の行き来しかしてないからジムに行かなきゃ」「遅くに食事したらカロリーを消費できないから食べちゃダメ」。そんなことを思いながら、自分の中で食べていいと決めたものだけを食べていた。皮膚が乾燥し、頭垢(ふけ)が出始め、夜は寝られず、足は浮腫(むく)むといった症状が出ていた。いま思うと、これは完全にある病気の症状。摂食障害だ。 

摂食障害になり、帰国して入院

自分でも痩せた自覚はあった。マズい。自分で摂食障害について調べたこともあった。でも、元気だから自分は平気だろうと思っていた。これも症状の一つだ。帰国したら1度病院で診てもらおうかな、なんていうのんきな考えだった。タームが終わったあとの休暇期間中、私は旅行で親の知人宅を訪れていた。そこに親から電話がかかってきた。「一回日本に帰って来なさい。痩せすぎだ。病院に行こう」。私が以前に送った写真を見た両親が言った。私はいったん断った。「元気だから大丈夫。オレゴンに戻る」と。それでも結局、日本に戻ることにした。自分の体の異変に気づいていたため、「助かった」と安堵(あんど)の気持ちもあった。ベッドで何時間も泣き続けた。その夜、母が留学に出発する時にくれたお守りのブレスレットが切れた。まるで私の守護神が役目を果たし終えたかのようだった。 

2018年の秋のシーズン最終戦のあと、マネージャーのみんなと

帰国した翌日から私は入院した。告げられた病名は「神経性食思不振症」。それも重症。驚きというより、やっぱりそうだろうなという気持ちが大きかった。医師の次の言葉に衝撃が走った。「このままだったら、命も危なかったですよ」。この瞬間、「私の留学はここまで。戻れない」と悟った。 

両親に対する申し訳なさと、なぜ自分はこんな病気になったのだろうかという思い。私は毎日、一人で泣いた。2019年はこれまでの人生でいちばん泣いた年だったと思う。でも入院生活は私にとって、決してムダでも退屈な時間でもなかった。いままで学校、部活、バイトで自分自身のことなど考える時間もないくらいに忙しかった私にとって、とても有意義な時間だった。

人生1度きり、私にとって熱中できるものは?

まず、自分の性格を見つめられた。やるからにはやる、こうじゃなきゃだめという、完璧主義であること。これは摂食障害を発症しやすい人の典型的なタイプでもある。女性はスリムな人が美しいとされる風潮からだ。私は病院で気づいた。「こうじゃなきゃいけないことなんて、この世に一つもない」と。 

ずっと心に引っかかっていた部活のことも、4カ月の入院中ずっと考えていた。自分の命が危なかったかもしれないと聞いたとき、自分の体のことを考えて部活には戻らず、これからは自分のやりたいことを見つけて助けてくれた多くの方を大切にする生き方をしようと思った。部活があるからやりたいことができない、会いたい人に会えないのが嫌だった。しかも病気になって、こんなに簡単に人って死ぬかもしれなくなるんだと分かった。人生1度きり。明日誰か大切な人が死んでしまうかもしれない。そう考えると、後悔しない毎日を過ごそうって思った。何か熱中できることを見つけなくては、とずっと考えた。 

試合中はプレーが終わるたび、審判の方にボールを渡す役割をした(本人は中央左)

頭でなく心で感じた「このフィールドにいたかった」

だけど、自分の中でいくら考えても見つからなかった。そんなとき、アメフト部がブロック優勝を果たした姿を見た。「このフィールドにいたかった。みんなと抱き合って優勝を分かち合いたかった」。こんなふうに、頭でなく心で感じることは久しぶりだった。私が本当にやりたいことは部活なのかもしれない。部活をしているときはつらいこともいっぱいあった。やめたいと思ったことも数えきれない。だけどその分、学んだことも数えきれない。 

このチームは本当に恵まれている。選手たちを支えるスタッフやコーチがいて、試合になるとOBOGのみなさんや親御さんがスタンドに集まってくれる。数え切れない人たちに支えられている。この一年、部を離れてみて気づいたことは山のようにあった。部を離れなかったら、卒業するまで気づかなかったかもしれない。当たり前のことのように思っていたかもしれない。それは部活だけではない。私の命を救ってくれた両親がいること、いつもそばにいて助けてくれる友だちがいること、帰る家があること。何不自由なく生活できる環境で生活できていること。そして何より健康に生きていること。全部、当たり前じゃない。奇跡の集まりで幸せなことだと気づいた。 

留学は途中で終わってしまったが、日本に戻ってきて自分と向き合え、たくさんのことを考え直せた。病気になって後悔もいっぱいした。泣いた。でも、これまでずっと気づけなかったことをしっかり考えられた。だから私の留学は大成功。途中で留学先が日本の病室に変わったのは、きっと神様からの贈りものだ。 

人生は1度きり。病気になってそう考えるようになった。やりたいことをやらないで後悔するよりやって後悔した方が自分らしい。だからこそ私はアメフト部に戻ることを決めた。部活をできるのは人生でこの一年が最後。1年間のブランクがある。最上級生らしくないかもしれない。でも私にしかできないことがきっとあると信じている。 

留学から戻り、チームにも戻ることを決めて、アナライジングスタッフのみんなと

摂食障害は留学中に起こったが、原因がどこにあるかは分からない。もしかすると、留学前の生活に原因があったかもしれない。この病気には劇的に効く薬はない。焦らず、無理をせず自分のペースで治していくのがいちばんの特効薬なのだ。新型コロナウイルス感染拡大の影響で部活動が自粛になるまで、まずは週に一回、部活に参加していた。 

マネージャーを支えるマネージャーになる

今年のチームのスローガンは「be one」。私の抱えている状況を理解し、それでもチームの一員として受け入れてくれたチームのみんなへの思いは「感謝」というひとことなんかでは言い表せない。マネージャーという仕事が縁の下の力持ちであるなら、私はそんなマネージャーたちを支える存在になりたい。「everything happens for a reason(起こったことすべてに意味がある)」。私の好きな言葉だ。病気になったのはきっと、意味のあること。成蹊大学アメフト部に入ったことにも意味がある。 

先の見えない日々が続いているが、秋のシーズンは試合があると信じて、選手もスタッフも、いまやれることを積み上げていくだけだと思う。今年こそ念願の1BIG8昇格を果たして、みんなと一緒に泣いて笑って引退したい。アメフト部に戻ると決めた私にとって、これ以上の幸せはない。

だから、次の涙はその瞬間までとっておきます。(文・成蹊大学アメリカンフットボール部 杉崎萌)