バレー

連載: プロが語る4years.

特集:東京オリンピック・パラリンピック

柳田将洋とともに春高制覇、2年目に本当の戦い方を痛感 堺ブレイザーズ・関田誠大1

「日本一」を目指し、関田は小学生の時から強豪チームを選んできた(写真提供・堺ブレイザーズ)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するセッターの関田誠大(27)です。2016年に中央大学卒業後、Vリーグのパナソニック・パンサーズに進み、18年より堺ブレイザーズで戦っています。4回連載の初回はバレーとの出会い、柳田将洋(現・サントリーサンバーズ)に誘われて進んだ東洋高校(東京)時代についてです。

中高一貫校を飛び出し、「春高」のスターに 柳田将洋1

目標は常に日本一

バレーを始めた頃と今、どれだけ時間が過ぎようと関田の根底にある思いは変わらない。
「強いヤツを倒したいんです。負けず嫌いなんですかね」

経歴を見れば、小学校、中学校、高校、大学。全てのカテゴリーで日本一。むしろ自身が“強いヤツ”だったのではないか。

「どうせ厳しくやるなら、強いチームで勝ちたい。勝てないチームを俺が勝たせる、じゃなくて、強いチームで日本一になりたくて。厳しくて勝てなかったらきついですから(笑)」

バレー生活の始まりは小学生の時。当時はバレーだけでなくスイミングスクールにも通っていたが、4年生になる前に「どちらかを選択しなさい」と両親に言われ、バレーを選んだ。

ポジションは限定せず、最初はレシーバー、5年生でセッター、6年生はアタッカー。全て経験した。小学生バレーの強豪、東金町ビーバーズの練習は週6日。何度も全国制覇し、選手が変わろうと目標は常に日本一。勝つための練習はとにかく厳しく、たたき込まれるうちにバレーの技術は高まるが楽しくはない。振り返れば「あんなにやる必要があったのかな、と今は思う」と苦笑いを浮かべるが、目標だった全国制覇も成し遂げ、中学は駿台学園へ進学した。

“マサ”から誘われて東洋高校へ

東金町ビーバーズが小学生年代の強豪であるように、全国大会で数多くのタイトルを制した駿台学園は中学の強豪。練習の厳しさもさることながら、一番戸惑ったのは、小学生の頃は例え年齢が異なろうと友達感覚で接してきた間柄に、「先輩」「後輩」の壁が存在するようになったことだと振り返る。

駿台学園に上がったばかりの頃は、上下関係に戸惑った(写真は本人提供)

「名前にさん付けしなきゃいけなくなったり、常に敬語を使えと言われることにギャップを感じました。練習が厳しくても勝てるならそれはそれでいいんです。でも、夏場は坊主にしなきゃいけなくて、3年になった頃、同級生と『もう坊主にしなくていいんじゃない?』と話し合っていたんですけど、最終的にはコーチから『伝統だから』と押し切られた。その時はさすがに、『マジか』と思いました(笑)」

基本を重んじ、基礎練習を繰り返す日々の中、最も好きだったのはレシーブで、中学2年生の時はリベロも務めたほど。中学3年生からはセッターになり、小学校に続いて中学校でも全国制覇。当然、高校も強いチームに入り、日本一になりたい。多くの学校から誘いを受ける中、関田が選んだのは東洋高校。

「もともとそのまま上(駿台学園高)に上がる気はなくて、東洋か東亜(学園高)、どっちにしようかと思っていた時にマサ(柳田将洋)から誘われたんです。『東洋来ない?』って。結局、それが決め手になりました」

1歳上の柳田とは母同士が知り合いだった縁もあり、小学生の頃からつながりがあった。さん付けではなく今も“マサ”と呼ぶ間柄で、関田いわく「僕に後輩感がないだけ」らしいが、主将やエースと肩書がつく中でも淡々と、自分のやるべきことをやる柳田は関田にとっても居心地のいい仲間であり、セッターとエースとしてコートに立っても余計な言葉はいらなかった。

チームは柳田(写真)の攻撃力で春高を制覇したが、2年目にはさらにチーム力を高める必要性を感じた(撮影・朝日新聞社)

「僕はただ好きなようにやらせてもらいました。他の強豪校と違って、うちは全国の色々なチームと練習試合をする機会が少なかったし、プレッシャーもなかった。勝てればいい、と思っていたし、好きなように上げれば打って、決めてくれる。(1年生の時の春高優勝も)マサのおかげです」

春高は「チームとして戦わないと勝てない大会」

全国制覇を成し遂げた1年目は春高の開催が3月だったため、出場選手は1、2年生のみ。一度勢いに乗ればそのまま一気に勝ち上がることもでき、事実、最初の春高は柳田の攻撃力を武器に東洋が優勝した。だが、翌年から春高は3月から1月に開催時期を変更。3年生の出場も可能になり、新チームがスタートしてほどなく予選が始まる前年までとは異なり、1年に渡って練習を重ねた成果を発揮する舞台へ。同じ春高ではあったが、明らかな変化があったと関田は言う。

「完成度が全然違いました。マサの攻撃にしても、3月(開催の1年目の春高)の時は通った攻撃も簡単には決まらない。優勝した時は、正直に言うとマサ一本でも勝てると思っていたんです。だけど(2年目の)1月になって、ここで勝つためにはマサだけじゃなく他の選手を機能させて組織、チームとして戦わないと勝てない大会なんだ、と実感しました」

大会前から優勝候補として注目を浴びる中、順当に勝ち上がった東洋だったが、準決勝で鎮西高に1-3で惜敗。前年の春高では決勝で勝利した相手のリベンジを食らう形となり、3位に終わった。

3年生が卒業した3月、最上級生として迎える新年度に向け、関田は主将に就任。日本一になるために足りなかったものを埋めるべく、新たな心持で臨もうとスタートを切った矢先、東日本大震災で東京も計画停電や体育館の使用制限が重なり、毎日の練習は1時間程度。練習メニューの作成も関田に委ねられていたため、限られた時間で何に取り組み、並行してどうチームをつくっていくべきか。

主将となった高校最後の1年は悔しい思いをすることの方が多かった(写真提供・堺ブレイザーズ)

「結局、最後の年は結果も出せなかったし、めちゃくちゃ難しかったです。でも、だからこそ余計に『大学では絶対優勝したい』と思った。だから、中大を選びました」

全国制覇を成し遂げた高校までとは違う、新たなステージへと歩み出した。

プロが語る4years.

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