亜細亜大・髙橋朱穂選手 3種目で大学記録を樹立したエースが振り返る4years.

今回の「M高史の陸上まるかじり」は亜細亜大学の髙橋朱穂選手(4年、本庄第一)のお話です。亜細亜大学女子陸上競技部は髙橋選手が入学された2021年に富士山女子駅伝で初出場を果たし、そこから4年連続で出場。2022年には全日本大学女子駅伝で22年ぶりの復活を果たしました。エースとしてチームを牽引(けんいん)してきた髙橋選手の4years.を振り返っていただきました。
高校の先輩がいたことで「安心できる」と亜細亜大学へ
髙橋選手は埼玉県出身。小学校までは水泳をやっていたり、持久走大会で1位を取ったりしたそうですが、中学は「兄の影響でバドミントン部に入ろうと思っていたんです。ただ、バドミントン部は部員の人数が多すぎまして……」。お母様から「個人種目の方が向いているんじゃない?」と勧められたことがきっかけで、陸上競技を始めました。
「最初は部でも一番遅いくらい目立たなかったのですが、先輩や監督に恵まれました」。中学2年生の時に個人では関東大会に出場し、駅伝では東日本女子駅伝や都道府県駅伝にも出られました。
高校は本庄第一高校へ。「長い距離を走るようになりまして、ロードは強くなった感覚がありました。ただ、周りの中学の友達が伸びているのに、自分が伸び悩んだり、思うようにいかなかった時には焦りがあったりしました」。高校時代、3000mのベストは9分37秒15でした。
当時から全日本大学女子駅伝や富士山女子駅伝を見ていたことが主な理由となり、大学でも競技を続けたいと考えていました。「高校の2学年先輩の広瀬はるかさんがいる亜細亜大学なら、安心できる」と思われたことが、進学の決め手です。

亜細亜大学女子陸上競技部は、短大時代に関東大学女子駅伝優勝や全日本大学女子駅伝6位などの実績がありましたが、2001年に休部。2018年から4年制のチームとして再びスタートを切り、髙橋選手が入学した2021年にちょうど4学年がそろったところでした。
「メリハリがあってすごくいいなという印象でした。私たちの代で4学年がそろったことで一致団結して『絶対に富士山に出場する』と。必死な先輩たちの姿や、気持ちを高める雰囲気がとてもプラスになりました」
初めての寮生活は、慣れない毎日だったそうで「最初は家に帰りたいと思っていました。それでも、はるかさんたちがいたので、少しでも心配事があれば『先輩〜!』と言って、助けてもらって乗り越えました(笑)」
髙橋選手が入学して1年目、チームは念願の富士山女子駅伝初出場を果たしました。「本当に絶対に出ようという先輩たちの取り組みを見てきました。ダウンジョグを長くやって、ベクトルを合わせていった感じでした。(初出場時は)ドラマの主人公になった感じでした。やっぱり努力するといけるんだなと、とても感動しましたね。ただ、走ってみると、全国との差を感じて『自分ってまだまだ』と思い知りました。まだこのラインではダメなんだと痛感しましたね」

持久力がつき、突っ込んでも耐えられるスタイルに
2年生の時は、亜細亜大学として全日本大学女子駅伝に22年ぶりの出場を果たしました。
「思っていたよりもうまくいって、走っていて楽しかったです。練習から先輩たちと切磋琢磨(せっさたくま)して、記録も出るようになってきました。高校までは前半から突っ込んで後半に大失速していたのが、大学では持久力もついてきて、突っ込んでも多少耐えられるようになってきました。『このスタイルでもいいんだな』とだんだん自分の走り方が安定してきたのが、2年生の時でした」
この時、全日本大学女子駅伝出場をかけたアディショナル枠の残り1枠は、熾烈(しれつ)を極めました。5000mの上位6人によるタイム差で、次点の神戸学院大学とは0秒49差。1人あたりで換算すると0秒08差という大接戦で、初の切符をつかみました。エントリーの前日まで、両大学が別々の記録会に出場していた末の大接戦。あまりの僅差(きんさ)に、速報記録を聞いて計算していても、勝っているのか負けているのか、わからない状態だったそうです。
「感情のジェットコースター状態でした。出場を決めて、『自分たちもあの仙台の舞台に立てるんだ』という気持ちになりました。(仙台は)緊張感がありつつも、私としては好きなコースで走りやすく、キツさよりも楽しいという気持ちの方が強かったです」と振り返ります。

3年目は「あまり記録が良くなくて、チームに迷惑をかけてしまったのかなと思った時期もありました。どんなに頑張っても上がらない時は上がらないですし、不安に駆られて、『自分がもっと走れていたら』と思う時もありました」。
そんな時、どうやって乗り越えたのかを伺ったところ「とにかく無心に走りました。悔しいと思った時に走らなきゃダメだと。周りは『大丈夫だよ、仕方ないよ』と言ってくれましたが。なんでダメだったんだろうと、自分の中で考えながら練習して、変えていきました」。周囲の優しさに感謝しつつ、黙々と練習に打ち込むことで乗り越えていきました。
全日本の落選から成長し、富士山女子駅伝で最高順位更新
最終学年では、3年連続で出場していた全日本大学女子駅伝の出場権を逃しました。「出られることが当たり前というか、『走っていればいける、土壇場になれば記録も出る』という甘えがチームの中にあったんだと思います」。ここからチームは変わっていったそうです。
「もうちょっとプラスで何かをしようとする選手が増えました。ジョグへの意識も変わりました。(全日本に)出られなかったダメージもありましたが、逆に成長する機会になりました」
昨年末の富士山女子駅伝では10位となり、それまで16位だった過去最高順位を大きく更新しました。
「4年目の富士山はすごく緊張していましたが『どうせ最後なんだから楽しんできなよ』と監督に言われて、その言葉で『後半大失速してもいいや』と序盤から前にいる人を抜かして行こうと思っていました」。エースが集まる5区で区間8位の力走を見せ、18位でもらった襷(たすき)を12位まで上げて、チームの最高順位更新に大きく貢献しました。

髙橋選手は大学4年間で5000m(16分01秒74)、10000m(33分19秒22)、ハーフマラソン(1時間11分52秒)の3種目で亜細亜大学記録を樹立しました。「トラックをぐるぐる回るのが苦手なんです(笑)。長い距離が好きですし、景色が色々変わるロードの方が好きです。また、私の場合はロードの方がゾーンに入りやすくて、だからこそ走れるのかなと思います」
長い距離とロードが好きということで「マラソンに向いているのでは?」とお話したところ「色んな方にそう言っていただけます。いずれはやりたいと思っていますが、まずはハーフをちゃんと走れるようになってからですね。段階を踏んでからマラソンに挑戦したいと思います」と謙虚に答えられました。
実業団では人に影響を与えられる選手に
取材では、岡田晃監督への感謝も口にされました。「私は大ざっぱなのに心配性なところもあって、ポイント練習の前にシューズを決められなかった時期があったんです。3、4足ぐらいグラウンドに持って行って、監督に『どれがいいですか?』って。監督は優しく笑いながら『また始まった(笑)。じゃ、今日はこれがいいんじゃない?』とちゃんと話を聞いてくださりました。本当に迷惑をかけていたんですけど、はちゃめちゃな私を受け入れてくれました。走り終わった後、部員一人ひとりと話をしてくれるので、こんなに寄り添ってくれる監督はなかなかいないんじゃないかと思います」

髙橋選手は卒業後、実業団でも競技を続けます。「もっと長い距離をちゃんと走れるようになりたいです。友達でもある大塚製薬の小林香菜さんが走っている姿に感動したので、自分もそうやって人に影響を与えられる選手になりたいです。まずは一つひとつの大会を大切にして、応援してくださる方に良い報告ができるような記録を出していけたらいいなと思っています」
明るく真面目に積み重ねてきた姿勢は、きっと後輩の皆さんにも伝わっていることでしょう。社会人でも現状打破!

