アメフト

特集:駆け抜けた4years.2025

9年ぶりの日本一を支えた序列最下位の4年生タイトエンド 立命館大学・海老根充

「山本杯」を受けた立命館大学のTE海老根充。過去の受賞者には高橋健太郎の名も(撮影・篠原大輔)

昨年12月15日、アメリカンフットボールの大学日本一を決める第79回甲子園ボウル(全日本大学選手権決勝)が兵庫・阪神甲子園球場であり、立命館大学パンサーズが法政大学オレンジを45-35で下し、9年ぶり9度目の日本一に輝いた。35番をつけたTE(タイトエンド)の海老根充(えびね・みちる、4年、立命館守山)はチーム内で最も下の「4軍」の選手。日の当たる舞台にほとんど立つことなく4年間を終えた。

パンサーズの祝勝会で「山本杯」を受賞

海老根に最初で最後と言ってもいいスポットライトが当たったのは、2月15日に開かれたパンサーズの祝勝会だった。「2024年度パンサーズアワード」の一つである「山本杯」の受賞者に海老根の名が呼ばれると、現役の部員たちから「オオーッ」という声が上がった。この賞は、自身の役割と責任の範囲を超えて活動し、周囲の信頼を得てチーム力向上に最も影響のあった部員に贈られる。海老根にとって両肩のけがに泣いた4年間ではあったが、ラストイヤーは仮想敵としてディフェンスの練習を支えるスカウトオフェンスの面々を引っ張り、練習中は声を出し続けた。練習終わりのハドルではガラガラ声で「もっとやろう」「このままでは勝たれへん」と訴えかける日もあった。高橋健太郎監督はそんな海老根について、「日本一奪還にあたって、必要不可欠な存在だったのは紛れもない事実です」と語る。

学生最後の秋シーズン、35番が試合に出たのは56-3で勝った選手権準々決勝の東北大学戦(11月24日、ユアテックスタジアム仙台)のみ。第4クオーターに数プレーでTEに入った。身長179cm、体重93kgの立派な体だが、力みすぎて動きが硬く、会心のブロックとはいかなかった。海老根は「0点みたいなプレーばっかりでした」と苦笑いで振り返る。「(フィールドに立つのも)これが最後やな、っていうよりも、この先の試合に向けて4年生として何ができるのかを考えてました」

4年の秋に唯一出場した東北大戦で。海老根(35番)は懸命にブロックしたが、相手の95番にボールキャリアーをタックルされた(撮影・篠原大輔)

甲子園ボウルが近づいたある日の練習前、山嵜大央キャプテン(4年、大産大附)から「今日いってくれや」と最後のハドルでの発言を求められた。そこで海老根は「甲子園で勝っても負けても、最後に自分が何を思うかを大事にしたい」と語りかけた。「短いようで長かった4年間の最後、甲子園ボウルで勝った、負けたという結果しか残らないのは悲しいなと思って。自分の中にやりきったことがあれば、湧き出てくる感情があるはずで、そうありたいとずっと考えてて、そんな話をしました」

本番の3日前に練習で入った甲子園球場は、イメージより小さく感じた。天然芝の上で動いていると両足が重く感じて、「もしかしたらここで泣いてきた高校球児たちの呪いみたいなのがあるんかな」と思ったそうだ。試合の当日、お客さんが入ると甲子園は別の顔になった。一気に広く感じた。そして迎えた9年ぶり日本一の瞬間はこう思ったそうだ。「喜びや努力が報われた感覚がどっと押し寄せて、大きな充実感がありました。同時に虚無感や寂しさみたいなものが湧いてきて、それが意外でした」

甲子園ボウルで勝ったあと、大好きなTEの仲間たちと記念撮影(本人提供)

「自分は不器用な人間なんです」

パンサーズの拠点である立命館大びわこ・くさつキャンパスにほど近い滋賀県草津市野路で生まれ育った。「大学に近い下宿生よりも近くに自宅があります」と笑う。幼いころはまるまると太っていて、「何か運動したほうがいい」という話になり、小学2年生のときに友だちが誘ってくれた草津リトルパンサーズに入った。初めて経験したフラッグフットボールはキツくて、やめたくなりながらも続けた。中学生になると、タッチフットのジュニアパンサーズに入った。

中1のとき、大学のパンサーズが甲子園ボウルに出た。会場を埋めた人たちがものすごい熱量で立命館を応援していた。エンジ色のヘルメットもカッコよかった。「すべてが衝撃的で、感動して、大学ではこのチームでフットボールにかけたいと思いました」。立命館守山高校に進み、アメフト部に入ったころは体重が80kgだったが、食べて食べてトレーニングして100kgを超え、2年からOL(オフェンスライン)のC(センター)でスターターになった。「ヒットが痛いとは言われてましたけど、そんなに強いラインじゃなくて、セコいセンターやったと思います(笑)。どうにかして勝ったろうっていうラインでした」。3年秋の全国大会は関西の準々決勝で関西学院(兵庫)に13-30で負け、高校フットボールが終わった。

立命館守山高校3年時の海老根(中央)。頭を丸めたのは「何かを変えたい」という思いからだったという(本人提供)

憧れだった立命館大学パンサーズ。海老根は入部に際してLB(ラインバッカー)になりたいと考えていた。実は高校のアメフト部に入ったときもLBを希望したが、「LBをやるセンスがないからラインやっとけ」と言われてOLになっていた。「でもLBのカッコよさがずっと自分の中にありました。ディフェンスの2線目から上がってきてハードタックルをかます姿に、夢があるなあって思ってました」

セコいプレーを続けてきた自分が、大学ではOLとして通用しそうもないという思いもあった。「よし、大学こそLBをやろう」と、高校の部活を引退してからダイエットを始めた。走って、鶏の胸肉ばかり食べた。もともと必死に太ろうとしていたため、一般の食事量に戻すだけで体重は減っていった。105kgあった体重を85kgにまで落として、パンサーズの門をたたいた。しかし、どうもLBにはなれそうにない。OLよりもうちょっと目立てるポジションにはなりたいと、パスも捕れるTEを希望した。コーチには「OLやってんやろ?」と言われたが、「OLの経験を生かしてタイトエンドで頑張りたいです」と返して、TEになれた。

早く晴れ舞台に立ちたいと心は燃えていたが、プレーがついてこない。パスは捕れないし、大学ではセコいブロックなんか通用しない。「しんどかったですね。しんどいというか、苦労しました」。控え組の選手だけが出場するJV戦には出場したが、自分をアピールするにはほど遠い出来だった。「アサイメントの理解もできてなかったのでめちゃくちゃでしたし、自分でもセンスないなと思いました」。取材で向き合っていれば分かるが、彼はいまどきの言葉巧みで要領のいい大学生ではない。「自分は不器用な人間なんです」と海老根。私は「立命館の高倉健やな」と言おうとしたが、たぶん健さんを知らないだろうなと思ってやめた。

筋トレが好きで、スクワットはチームで上位の強さを誇った(撮影・篠原大輔)

ディフェンスの仮想敵をやりきる

TEとして得意なプレーが一つだけあった。逆サイドのDL(ディフェンスライン)をキックアウトにいくと見せかけて、2列目のLBをブロックにいくものだ。結局、セコいプレーが好きだった。このブロックを買われて2年生の春のパナソニック戦に出られた。しかし緊張でガチガチになって、納得のいくプレーはできなかった。それでも海老根は「あの場でプレーするチャンスをもらえたことは、ずっと感謝しています」と話す。

2年の夏に左肩を痛めた。そのままプレーを続けられないこともなかったが、「まだ2年あるからしっかり治しておきたい」と手術を受けた。3年の春から練習に復帰すると、今度は右肩を2度、立て続けに痛めてしまった。また手術をすると3年の秋シーズンを棒に振る。手術を回避してだましだましやっていけば、TEの控えやキッキングチームのメンバーとしてリーグ戦に出られる可能性もゼロではなかった。同期の仲間からは「手術せんほうがええんちゃうか」とも言われた。悩んだ末に、不安を抱えながらやるのは嫌だと、3年の8月に2度目の手術を受けた。

術後は右肩に麻痺(まひ)が残った。二頭筋に力が入らない。筋力トレーニングはできないし、ヒットもこわい。リハビリ、リハビリと言っている間に、4年の春の試合もどんどん終わっていった。ようやく6月に練習に戻れた。夏合宿を機にチームは二分される。秋のリーグ戦出場を期待されるメンバーと、スカウトチームに回る選手たちだ。海老根にとって、アピールする時間が足りなかった。3年ぶりにプレーできる状態で迎えた秋だったが、最後もスカウトチームだった。

「試合に出るのは選ばれたヤツだけで、選ばれなかったらそれまでやと思ってました。頭にあったのは、どうやったら集大成の4年生として納得がいくんやろう、ってことばかりでした」と海老根。ただ、スカウトチームとして活動する中でもプレーぶりが光れば、試合出場のチャンスも出てくる。もちろんそれは心に留めてシーズンインした。

立命ディフェンスの仮想敵として、相手オフェンスになりきる。それが海老根らスカウトオフェンスの役目だ。過去の試合映像を見て、相手選手の特徴を練習で再現する。スカウト側がイージーなミスをしていると、練習にならない。「自分はそんなにキツく言えるタイプでもないのでやりにくかったんですけど、そんなことも言ってられないし、自分をかわいがっていても仕方ないので、心を鬼にするじゃないですけど、そういう気持ちで指摘の声を積極的に出すようにしました。4年間ずっとスカウトだったんで、プレーの質とテンポが大事なのは実感していました。だから3年までにも増して声は出しました」。だから前述の通り、いつも彼の声はかれていた。

昨夏の北海道合宿でTEの仲間たちと(本人提供)

高橋健太郎監督「スカウトメンバーの精神的支柱」

高橋新監督のもと、個性豊かな選手たちがベクトルを合わせて力を発揮し、リーグ戦は進んでいった。第5節で関西大学に13-24で敗れたが、立て直して最終節の関西学院大学戦に24-14で勝利。関西1位で全日本大学選手権に進み、9年ぶりに甲子園へ。最後は法政大学との熱戦を10点差でモノにした。

高橋監督は海老根についてこう語る。「チームを献身的にリードしてくれる姿は本当に心に残っています。肩のけがもあり、思うようにプレーができない中でも、誰よりもハードなウエイトトレーニングをしていたり、誰よりも自分自身を追い込むぐらいにフィールドトレーニングに励む姿が目に焼き付いています。思うように手を出してヒットできない中で、ひたすらスレッドにヒットし、自分自身の形を模索していた姿も忘れられません。ただただアメフトを愛し、パンサーズを愛し、自分自身の成長がチームの成長につながると信じて、自分自身と向き合う。さらには、試合に出られる出られないに関係なく、仲間に献身的に語りかける。彼の強烈でポジティブなアクションはスカウトメンバーの精神的支柱であったことは間違いないと思いますし、彼らの思いを背負って戦うというレギュラー陣のマインドを醸成してくれたと思います。彼みたいな人材が将来コーチとして戻ってきてほしいというか、フットボールの発展の一翼を担ってもらいたいと強く感じています」

海老根は昨夏の超早朝トレーニングを心に刻んでいる。キャプテンの山嵜が3時からトレーニングを始め、その輪が広がっていった。前述の通り練習グラウンドに家が近いこともあって参加した海老根は「ここにおるヤツに絶対悪いヤツはおらんな」と感じていたそうだ。不器用な彼らしい仲間のたたえ方だなあと思った。

甲子園ボウルの試合後、山嵜キャプテン(左端の22番)の話を笑顔で聞く海老根(右端の35番、撮影・北川直樹)

海老根に「どんな4年間だった?」と尋ねると、ウーンとうなった。「ひとことで言えないですねえ」といろいろありそうだったので、「後日でいいから書いて送ってきて」とお願いした。彼が書いてきてくれた文章はこうだった。

振り返れば、現実を突きつけられ続けた4年間だったと思います。僕は中学生のときからの憧れのチームで、最高にキラキラした4年間を送れるに違いないと思ってました。でも実際は、プレーヤーやリーダーとしての実力不足に悩んだり、肩のけがから復帰するためのリハビリにあまりにも多くの時間を費やしたりすることになりました。思い描いていた日々とは程遠い4年間になってしまいました。それでも、支えてくれた先輩方や頼りになる後輩たち、いままでお世話になった監督やコーチの方々、ずっと支えてくれた親に恩返しをしたいという気持ち、そして少年時代に感じた立命館大学パンサーズに対するときめきを信じ続けたからこそ、最後まで頑張れました。試合に出られない悔しさや、自分の無力さを痛感する場面も多々ありましたが、そのたびに『自分に求められる役割は何か』『どうすればチームに貢献できるのか』と悩み、考え続けた時間は僕の大きな財産です。

置かれた場所で咲ききった

春からは滋賀を拠点とするグループ会社で働く。フットボールにはどう関わっていくのか? 「選手としては考えてなくて、もし指導者として求めていただけるならお応えしたい気持ちはあります。日本一になれた恩返しをするのは、そういうところかなとも思ってますし。まあ、いったん仕事が落ち着いてからですね」。またフィールドで彼に会える日が楽しみだ。

リーグ戦の終盤ごろから、高橋監督は私に「海老根っていう4回生に一回話を聞いたってほしいんですよね」と言ってくれていた。取材をして、その意味がよく分かった。日本一を取り戻したパンサーズには、置かれた場所で咲ききった4年生がいた。

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