城西大学・山中達貴主将 1年目から学年リーダー、3大駅伝全出走と箱根往路を目標に

箱根駅伝で3年連続シード権を獲得している城西大学にあって、山中達貴(4年、西脇工業)はまだ一度も箱根路を走ったことがない。それでも1年時から学年リーダーを務めてきた求心力で、今季の主将に就任した。チームスローガンは『結~まだ見ぬ景色の開拓~』。そこには、結果にこだわる、実を結ぶ、団結といった思いが込められている。最終学年となった最強世代の同期とともに、3大駅伝で歴代最高成績を目指す。
コロナ禍が記録を伸ばす転機に
小学5年の時、地域の駅伝大会で優勝したことが、陸上の楽しさを知るきっかけとなった。小野中学校、西脇工業高校と兵庫県屈指の陸上強豪校で、ハードな練習を積む毎日を過ごし、中学2年時に全中駅伝、高校3年では全国高校駅伝(都大路)に出場。「ゾーンに入っていたのか、レース内容はほとんど覚えていません」と振り返る都大路は3km区間の2区で区間賞に輝き、チームの7位入賞に大きく貢献した。
その傍ら、中学2年の3学期から自律神経の病気で学校に行けない日が増え、3年生の夏には2カ月半ほど入院した。ただ、「走りたくても走れない日が続いたので、入院中も体調が良い日はよく走りに行っていた」と言い、走ることはずっと好きだった。

伝統校で練習なども厳しいと聞いていた西脇工業には、体を心配した両親の反対を押し切って進学した。都大路やインターハイといった明確な目標はなく、ただ「陸上を続けたい」という思いだけだった。体の不調は高校1年の3学期にほぼ完治したが、ちょうどその時期にコロナ禍が始まった。
「学校の授業がなくなり、練習も各自になりましたが、自分のペースで練習できたので逆に良かったかなと。そこから記録が右肩上がりに伸びていきました」。良いことも苦しいことも経て、少しずつ成長を遂げた6年間だった。
小林英二スカウトの熱い勧誘に導かれ、城西大へ
高校2年の9月、山中は近畿ユース1500mで3分52秒87をマークした。その走りを見た城西大の小林英二スカウトが声をかけてくれた。当時の城西大は箱根駅伝の本戦に出られない年もあり、山中にとっては印象の薄い大学だった。「関東の大学に行くなら5000mのタイムが必要」とも考えていたが、山中の自己記録は15分18秒57にすぎなかった。
それにもかかわらず、小林スカウトは頻繁に学校や試合を訪れ、「君は絶対に走れる」「良い走りをしているよ」と期待の言葉をかけてくれた。山中はそれが本当にうれしかった。やがて大学やチームに関する具体的な話を聞いたり、同期で入学予定の選手を教えてもらったりするうちに、「僕たちが入学してからチームが強くなりそうだ」という直感があり、城西大への進学を決めた。
高校までは1500mをメインに取り組み、駅伝でも3km区間を担当することが多かった。それゆえ「自分が20kmとかそれ以上の距離を走っているところが想像できなかった」。ただ「関東の大学に来たからには箱根駅伝に出たい」という思いは何よりも強かった。

1年目から臆せずに自分の意見を発信
城西大に入学すると、競技場設備などの練習環境は申し分なかった。しかし、チームの雰囲気には、自身が思い描いていたものとのギャップを感じたという。
「先輩の中には練習をまともにやらない人や練習の最中にすぐに帰ってしまう人もいましたし、寮が汚いことも気になりました。大学は自由ですが、西脇工業のような厳しい環境で3年間やってきた身からすると、あまり意識が高くないなと感じてしまいました」
チームを良くしたい、雰囲気を良くしたい。変革するには影響力がないといけないと考えた山中は、1年目から学年リーダーに立候補。そして、自分の素直な気持ちを当時の主将にぶつけた。
「駅伝部にはおかしなルールが多かったんです。たとえば1年生が荷物を運ばないといけないのはいいですが、遠征などで先輩全員が乗り終わるまでバスに乗れない。先輩たちは時間ギリギリに来るから、1年生が乗るのが最後になって、結果的にバスの出発が遅れてしまう。『効率が悪いし、何のためにやっているかわかりません』と伝えました」
山中は入学前の3月から故障を繰り返しており、試合でも結果を残せていなかった。当時を振り返り、「ケガして走っていないヤツが、ただ文句を言っているだけ、と思われたかもしれません」と苦笑いするが、納得できないことをそのまま放置することはできなかった。
そして山中のそうした取り組みは、徐々にチームを変えていった。

中距離メインから駅伝メンバーに絡んできた3年目
2023年度の城西大は3大駅伝すべてで過去最高順位をマークするなど、快進撃を続けた。ただ、それまでの中距離メインから長距離に転向した山中は、夏合宿で故障したこともあり、走りでチームに貢献できなかった。「まだレースの安定感がなかったですし、純粋に力不足でした」
それでも3年目に入ると、5月の関東インカレに初出場。6月には5000mで初の13分台(13分50秒80)をマークし、存在感を高めていく。秋には出雲駅伝2区で学生駅伝デビューを果たした。「2年生までを考えると、箱根駅伝の16人にかすりもしなかった自分が、出雲出走メンバーの6人に入れたので、この1年ですごく成長できました。ただ、出雲本番は前日に緊張して、当日も脱水気味になってしまい、区間13位。出場しただけになってしまいました」
その後、故障もあって全日本大学駅伝は回避したが、11月に10000mで28分47秒03、ハーフマラソンで1時間2分52秒と自己ベストを連発。距離に対する不安を払拭(ふっしょく)するとともに、チームからの信頼を取り戻し、箱根のエントリー16人にも名を連ねた。ところが「箱根の約2週間前の一番重要な刺激を入れる練習で、ぜんそくの症状が出てしまった」ために、箱根本戦を走ることはできなかった。

箱根で6位に入った城西大は3年連続でシード権を獲得。本来なら喜ぶべきことだったが、山中は「複雑な気持ちで見ていました。自分も走れていたはずなのに走れなかった。ずっと自問自答し、自分を責めました」と、やり切れない気持ちを胸の奥にしまった。
箱根駅伝の往路で勝負できる力を
箱根後に主将となった山中は、「戦力的にもそろっている今年は勝負の年になる」と意気込みつつ、「一人ひとりの意識改革をしないといけない」とも考えている。
「今の城西大は、野心が少ないというか、『しっかり準備すればこれぐらい行けるよね』というスタンスの選手が多い。なので練習もそうですし、記録会も出るからには1着を取るとか、もっとガツガツ行くようにすれば、さらに記録も伸びるかなと。駅伝シーズンを見て、今、自分が何をしないといけないかをみんなが考えてほしいと思っています」
トラックシーズンから細かなチーム目標を立て、総合4連覇を達成した4月の関東私学七大学対校で幸先よく一つ目をクリア。前期のうちに約50人の選手で60回の自己記録更新などを経て、3大駅伝での歴代成績更新へとつなげるつもりだ。

山中自身は3大駅伝全出場を最大目標に掲げ、なかでも「箱根駅伝は3区で区間3番以内で走りたい」と力を込める。
「同期の将也(斎藤、敦賀気比)とヴィクター(キムタイ、マウ)は他大学のエース級とも戦える実力がありますが、それ以外に誰が往路で戦えるかを考えると、まだまだ層が薄い。だからキャプテンである自分が往路で勝負できる力をつけないといけないと考えています」
2月の宮古島駅伝、3月のエキスポ駅伝で久しぶりにチームメートと襷(たすき)をつなぎ、「駅伝の感覚をつかめて、エキスポでは良い走りができました」と手応えをつかんだ山中。自身もチームも、「まだ見ぬ景色」に出会えそうな良いイメージができつつある。
