チステルナ・垂水優芽1 洛南に進んだ理由は自主性を重んじる方針と「実はもう一つ」

今回の連載「プロが語る4years.」はバレーボールのSVリーグ・大阪ブルテオンから、今季はレンタル移籍の形で海外で経験を積んだ垂水優芽です。全3回で、初回は競技を始めたきっかけや大塚達宣、山本龍、中島明良と合わせて「洛南カルテット」と呼ばれた高校時代を振り返ります。
高校の盟友・大塚達宣とイタリアで対戦
この冬、旧友と戦う舞台は、イタリアだった。
世界最高峰リーグの一つ、イタリアのセリエAで、垂水は洛南高時代の盟友、大塚達宣と相対した。今季、垂水はチステルナでプレーし、大塚はミラノ。2月22日、チステルナのホームゲームでは2人ともコートへ立ち、日本人対決、さらに加えるならば〝洛南対決〟が実現した。
試合はセットカウント1-3でミラノが勝利した。垂水は相手のブロックにスパイクを止められ、交代を命じられてしまった。試合後は「スパイクが全然ダメだった」と反省を述べたが、大塚との対戦について触れると笑みがこぼれた。
「短い時間でしたけど、戦うことができてよかったですし、間近で試合に出ているのを見ると、いい刺激を受けます。達宣が活躍すると僕も活躍したいと思うし、たぶん達宣もそう思っている。すごくいい関係だな、って思いますね」
ともに互いを高め合う。宝物とも言える学生時代からの絆は、イタリアの地に渡っても変わらない。

中学時代、平日は「とにかく、ぐっすり寝ていた」
垂水がバレーボールを始めたのは小学3年の5月。バレーボールをしていた母の練習についていくうちに誘われた。本当は「野球がやりたかった」と笑う。周囲に勧められるまま競技に触れた反動は、すぐに現れた。
「何をやっても〝いやいや〟のクソガキだったので(笑)『おなかが痛いから行きたくない』とか、しょっちゅう駄々をこねていました」
身長も特別高いわけではなく、4年生まではレシーバーだった。だが、5年になるとチームのエースになった。やらされる時は苦痛でしかなかった練習も、打って決める喜びを知ると楽しくなる。中学でもバレーボールを続けようと、入部を希望した。しかし、ここで予期せぬ事態に見舞われた。垂水が通う中学にはバレーボール部がなかった。

練習や試合は他の学校と合同で行い、活動自体も土日だけ。垂水は近隣のクラブチームにも通っていたが、そこも練習は週に1回だったため、平日は十分すぎるほどの時間があった。
「授業が終わったら基本的にはすぐ帰るので、とにかく平日はぐっすり寝ていました。寝ると育つって言われますけど、本当の話で。僕も中学の3年間、ほぼ毎日ぐっすりよく寝たおかげで、めっちゃ身長が伸びました(笑)」
チームは強く、公式戦には3年生になるまで出場できなかった。滋賀県内で2位の好成績を収め、勝てなかった相手は、後に洛南高校で同級生になる山本龍を擁する皇子山中学。山本とともに垂水も滋賀県選抜に選ばれ、洛南高校から誘いを受けた。
子どもの頃は「バレーボール選手になりたい」とまでは考えていなかった。ただ春高バレーは毎年見ていたし、そこで自分もプレーしたい、という憧れはあった。中でも、漠然と「ここでやってみたい」と思っていたのが洛南だった。家からさほど遠くなく、選手主体で自主性を重んじる洛南の方針も魅力に映った。

「勝たなきゃ」→「楽しまなきゃ」初心に帰れた国体
とはいえ、洛南は全国優勝を目標に掲げる強豪だ。日々の練習は厳しい。東山高校というライバルの存在もあり、インターハイや春高出場をかけた予選は、常に熾烈(しれつ)を極めた。京都府予選を勝ち抜いた洛南は、全国でも優勝候補として注目を集め、垂水が2年時の春高では準優勝。3年になると、垂水と大塚の2枚エースにセッターで主将の山本、ミドルブロッカーの中島明良の4選手が「洛南カルテット」として数多く取り上げられ、優勝候補の大本命として注目が集まった。しかしインターハイ決勝はフルセットの末、市立尼崎に敗れた。
「2年の時も優勝候補として注目はされていましたけど、でも『絶対に優勝できる』と確信できるような力はなかったから、そこまで深く考えず、『まずはセンターコートを目指して頑張ろう』ぐらいの気持ちだったんです。その結果、決勝まで進んだ。3年になってからは全然違いましたね。『これだけメンバーがそろっているのに勝てなかったらヤバい』という気持ち、プレッシャーがずっとありました」

転機になったのは国民体育大会(現・国民スポーツ大会)だ。洛南単独のチームではなく、京都代表の選抜チームとして出場した。洛南のメンバーを中心に、他校からも選手が加わる。高いレベルで戦うことを喜ぶ彼らの姿や、純粋にバレーボールを楽しむ姿に「刺激をもらった」と振り返る。
「僕らは『勝たなきゃ』と思いすぎていたので、すごく楽しそうにバレーをしているのを見て、そうだよな、楽しまなきゃもったいないよな、って。プレッシャーはありましたけど、最後まで楽しんでやろう、と初心に帰ることができました」
そして国体から3カ月後の春高で全国制覇を成し遂げた。懐かしいですね、と笑いながら振り返る高校時代。目標を達成した今だから「実は」と言えることもある。
「洛南に行きたいと思った理由がもう一つあって。僕、坊主頭にするのが嫌だったんですよね(笑)」
まさか4年後、大学最後の全日本インカレで頭を丸めて戦うことになるとは、当時は考えもしなかった。
