バレー

連載: プロが語る4years.

チステルナ・垂水優芽2「俺が筑波は無理だろ」という状態から覚悟決め、無双するまで

今季はイタリアでプレーした垂水優芽が筑波大学時代を振り返る(撮影・平野敬久)

今回の連載「プロが語る4years.」はバレーボールのSVリーグ・大阪ブルテオンから、今季はレンタル移籍の形でイタリア・チステルナでプレーした垂水優芽です。全3回連載の2回目は筑波大学に進学した決め手や、あと一歩頂点に届かなかった3年目までの全日本インカレを語ります。

【前編はこちら】チステルナ・垂水優芽1 洛南に進んだ理由は自主性を重んじる方針と「実はもう一つ」

周囲の「たくさんのことを学べる」という声も後押しに

洛南高校3年時に春高で全国制覇を成し遂げた垂水は、筑波大学に進学した。多くの日本代表選手を輩出し、数々のタイトルも獲得してきた言わずと知れた名門だ。バレーボールを極めるための進路として申し分ないが、本人は「最初は迷っていた」と苦笑いを浮かべる。

「もともと明治大学から声をかけていただいて。バレーも楽しそうだったし、先輩の瀧田大輔さんもいたので、僕の中では明治と決めていたんですけど、細田(哲也)先生が『筑波からも声をかけてもらっているよ』と。いろんな人から、筑波はとにかく練習がきついと聞かされていたので、最初はめっちゃ嫌だったんです(笑)。もともと子どもの頃はサボりだったし、『こんな俺が筑波は無理だろ』と。だけど周りの期待も感じていた。なかなか覚悟を決められませんでした」

ゾーンに入ったときの垂水は誰にも止められない(提供・大阪ブルテオン)

1人では決断できず、細田監督やかつての恩師を含めいろいろな人たちに意見を求めた。「練習は厳しいかもしれないけど、バレーボールだけでなく、たくさんのことを学べる素晴らしい環境なのは間違いない」と後押しする声が多かった。

本当に自分がやっていけるのか。不安が拭えたわけではなかった。最終的に「筑波大に行く」と決意し、同様に筑波か明治かの二択で迷っていた松本国際高校のエバデダン・ラリーに「筑波に決めた」と伝えると、エバデダンも「じゃあ俺も行く」と同意した。

後に、この時のやり取りが何度もやり玉に挙がった。

「筑波の練習が始まって、ラリーからは『こんなにきついなんて聞いてなかったぞ。何で俺のことも呼んだんだよ』って後々ずっと言われ続けました(笑)」

大学生活はイタリアでプレーする際も生かされた

筑波大の練習は、想像通り厳しいものだった。練習の質や長さはもちろん、1年時は練習の準備も膨大にある。高校時代に比べると同期も少ないため、一人ひとりが担う量も多い。練習開始の2時間前に体育館へ行き、練習後の片付けをして帰路につくのは夜遅くなってから。睡眠時間を削らざるを得ず、入学当初は「授業もまともに受けられないぐらい眠かった」。人と接する時の礼儀や日常生活といった「人間として大事なことをたたき込まれて成長できた」と振り返る日々は、イタリアでプレーする今も生かされているという。

「当時から一人暮らしだったので、洗濯、掃除、料理。一通りのことはやってきたから、苦にならない。大学時代のベースがあったので、イタリアでも生活にはそれほど困らずに順応できました」

筑波大での経験はイタリア生活にも生かされたと言う(撮影・平野敬久)

生活だけでなく、バレーボールの基礎となるプレーも大学で磨かれた。高校時代はチームメートの宮野陽悠河がサーブレシーブの大半を担っていたため、垂水は守備の負担が少なく、アウトサイドヒッターとしての攻撃に専念することができた。だが、大学は攻撃力一つで勝負できる世界ではない。大学卒業後の進路でより活躍することを考えれば、さまざまなポジションやプレーができた方がいい。その基本となるレシーブ力も筑波大で育まれた。

筑波大では1年からレギュラーの座をつかみ、最初の全日本インカレで決勝進出を果たした。同期のエバデダンや西川馨太郎も同様にレギュラーとして試合に出場していたこともあり、当時について「とにかく試合が楽しかった」と回顧する。

「練習や日常生活が厳しいから、試合は解放の場なんです(笑)。だから勝っても負けてもとにかく楽しいし、いろんなチャレンジもできた。試合中はいつも本当に楽しくて、ずっと笑っていました」

決勝で対戦したのは3連覇中の早稲田大学で、高校時代の盟友、大塚達宣もスタメンで出場していた。結果はセットカウント1-3で早稲田大が優勝した。垂水は頂点まであと一歩に迫ったこの全日本インカレが「4年間を振り返っても一番楽しかった」と言う。

レシーブ力も大学時代に磨かれたものだ(提供・大阪ブルテオン)

新型コロナウイルスの影響を大きく受けた2年目

2年になる直前、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が始まった。リーグ戦を含む公式戦は軒並み中止となり、厳しい感染対策がされた全日本インカレは無観客。試合だけでなく、日々の練習や大学への立ち入りさえも制限された1年間は、満足のいく準備ができなかった。準々決勝で日本体育大学に2セットを奪ってから逆転を許し、フルセットで敗れた。

翌年、再びリベンジを誓って臨んだ全日本インカレは、それまでの鬱憤(うっぷん)を晴らすような垂水の活躍もあり、準決勝へと駒を進めた。決勝をかけた順天堂大学との対戦は、第1セットを先取したが、2、3セットと連取され、後がない状況に。ここから筑波大の反撃が始まった。爆発したのが垂水だ。同期の西川が「大舞台の垂水の強さは異常」と絶賛するほどの勝負強さを発揮し、まさに「打てば決まる」という無双ぶりで第4セットを取り返した。勝利が目前に迫る中、アクシデントは起きた。

着地時の接触で、垂水が足首を負傷。代わって入った橋本岳人を含む全員が勝利に向けて最後まで懸命に戦ったが、フルセットで敗れ、翌日の3位決定戦も中央大学に同じくフルセットの末に敗れた。「自分のせいで負けた」と言わんばかりに泣き崩れた橋本を抱きしめ、「よくやったよ、お疲れ」とねぎらっていたのが垂水だった。

「負けた悔しさはもちろんありましたけど、でもだからこそ、次。岳人はめちゃくちゃ泣いていましたけど、むしろ俺がケガをしたせいでごめん、という気持ちが強かった。自分たちが最終学年になる時は絶対勝つ、という思いも強くなりました」

大学時代の洛南同期、左から中島明良、垂水、山本龍、大塚達宣(本人提供)

そして、大学最後の1年へ――。

「今思い出しても『苦しかった』という言葉しか出ない。それぐらい、『もうこれ以上できることはない』と言い切れるぐらい、自分を追い込んだ1年でした」

チステルナ・垂水優芽3(完)筑波大で得たかけがえのない財産「同期の存在は大きい」

プロが語る4years.

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