野球

慶大・常松広太郎 土壇場で力を発揮してきた、アメリカ仕込みのバッティングリーダー

慶應義塾大の中軸を打つ常松広太郎(すべて撮影・井上翔太)

近年の慶應義塾大学は正木智也や廣瀬隆太(ともに福岡ソフトバンクホークス)、萩尾匡也(読売ジャイアンツ)ら右の長距離打者を何人も育ててきた。今年のチームでその立場を受け継ぐのが常松広太郎(4年、慶應湘南藤沢)だ。珍しい球歴を持ち、土壇場に立たされたときに力を発揮して、ここまで来た。

慶應義塾大・外丸東眞 投手主将がいつも淡々としている背景「気合を入れると力みに」

日本もアメリカも「どっちの雰囲気も好き」

小学生の頃からリトルリーグのチームに所属して硬球に触れていた常松に、小学3年のとき、転機が訪れた。親の仕事の都合でアメリカのニューヨーク州ウェストチェスターに引っ越し、現地の小学校に通うことになった。「最初はきつかったんですけど、僕自身はあまりネガティブじゃなくて。新しい環境でも割と前向きになれるので、なじむのも早かったです」

町には1学年あたり200~300人ぐらいの子どもがいて、春と夏は全員が野球をやるような環境だった。「同じ学年の野球チームが10チームぐらいできるんです」。初心者から経験者まで、レベルはさまざま。日本にいた頃から野球をしていた常松は現地のスターだったという。「周りから『お前、すげーじゃん』ってちやほやされて。日本よりも露骨な実力社会なんで、一つ武器があると、居場所が見つかるんです」。野球のシーズンが終わり、秋から冬にかけてはバスケやアメフトのチームにも入った。ちなみにアメフトは攻守両面でオフェンスはタイトエンド、ディフェンスはラインバッカーだったそうだ。

「バスケではブザービーターを決めたこともあります」と子どもの頃から土壇場に強かった

日本の〝野球〟とアメリカの〝ベースボール〟をどちらも経験し、その文化はまるで違った。リトルリーグ時代はウォーミングアップの際、全員で声を出しながらランニングしていたが、アメリカでは「いろんな人が好き放題やってました」。試合にもたくさん出場した。「僕もひまわりの種を飛ばしてました。日本もアメリカも、どっちの雰囲気も好きなんですけどね」と笑う。

小学硬式から中学軟式へ、異例の転身

中学入学に合わせて帰国し、慶應湘南藤沢の中等部に進んだ。最初は中学硬式のシニアリーグのチームに入ろうと考えていたが、中等部は土曜日も授業がある。加えてアメリカにいたとき、アメフトにはまり「本当はアメフト部に入りたかったんです。けど、部がなかったです」。高校もそのまま内部進学するつもりだったから、「同じメンバーでできるのなら」と野球部に入った。硬式から軟式への異例の転身である。「ビヨンドマックスとか、最初はびっくりしました。ゴムみたいなので打ってるんだ!って」

常松自身、最初は軟球を打つことに苦労した。「最初はボールを潰してばっかりで……」。顧問もあまり練習に顔を出さない環境だったから、当時ひたすらチームメートにノックを打っていたと振り返る。それがいま、大学野球になって生きているという。「ノック打ちって形の矯正になって、バットコントロールもつくんです。バットの角度をつけてボールを飛ばすのは、そこで培われたんじゃないかなと勝手に分析しています。もっといい練習があったのかもしれないですけど(笑)」

"ノック打ち"の経験が、大学野球になっても生きていると語る

高校進学の際、甲子園も見据えて他の高校にチャレンジする選択肢はなかったのだろうか。常松に尋ねると、慶應湘南藤沢の魅力を教えてくれた。「帰国生のクラスがあって、毎日ネイティブの先生から英語を学べるので、他に代えがきかない学校だなと思っていました。野球も頑張ってましたけど、学校生活もすごく楽しくて、この学校が大好きだなと」。当時は小さい頃に見た早慶戦の記憶から、「神宮に出たい」とは思っていたものの、大学まで野球をやるという大きな志は持ち合わせていなかった。

高3の時、塾高と毎年行っている練習試合で相手投手の前田晃宏(現・慶應義塾大4年)から複数安打を放ち、「これ、たぶん大学でもできる」と直感が働いた。入学前に練習参加させてもらった際、正木のバッティングを見て「4年間でベンチに入れるだけで万々歳だな」とレベルの違いを思い知らされた。実際に2年目までリーグ戦に出場したことはなかった。

子どもの頃に神宮で早慶戦を観戦し、憧れを抱いた

崖っぷちの状況を打開し、つかんだスタメンの座

3年目の昨春、東京大学との開幕戦に「7番ライト」で先発し、神宮デビューを飾った。いきなりの登場に、取材していた私は「どんな選手なんだろう」と思った記憶がある。本人によると、これは直前のキャンプやオープン戦で、崖っぷちの状況から自ら打開した結果だと明かしてくれた。

「鹿児島での1軍キャンプに連れていく選手について、その年は『セレクションします』と言われたんです」。紅白戦を数試合行い、活躍度が高い選手を上から順に同行させるというものだった。常松はこの時まったく打てず「終わった……」と感じていた。しかし、2死満塁で回ってきた最終打席でホームラン。打点やOPS(打率と出塁率を足した指標)が一気に上がり、ぎりぎりで鹿児島キャンプのメンバーに選ばれた。

ただ、鹿児島でも序列は一番下だった。チャンスは限られ、気合を入れてシートバッティングに臨んだが、デッドボールを受けてしまった。自分の順番が終わり、三塁あたりで様子を見ていた堀井哲也監督に「もう1打席お願いします!」と言ってみた。堀井監督からは「デッドボールも喜べ」みたいなことを言われたが、たまたま最終ピッチャーの残り球数が2球ぐらいになったとき、「常松、行け」と声がかかった。その打席でまたホームランを放った。

これを機に練習試合でベンチ入りをつかむと、代打を使い果たしたこともあって、試合終盤に同点の場面で常松が起用された。そこで決勝打。「じゃあ試しに使ってみるか」となり、オープン戦で「9番・指名打者」ぐらいの扱いで試合に出してもらった。そこでも打ちまくり、ついに開幕戦先発の座をつかんだ。

3年春の東京六大学リーグデビュー戦で、いきなり三塁打を放った

ホームランは「1本打ったら、やめられない」

ラストイヤーを迎えた今年、常松は「バッティングリーダー」を務めている。相手投手のデータをもとにミーティングした際に意見を聞かれたり、堀井監督から「○○にこう言っておいてほしい」と伝言を頼まれ、実際に伝えたりすることが主な役割だ。「監督から言うのと、僕から言うのはまた伝わり方が違う」と考え、コミュニケーションの取り方には工夫を凝らしている。

今春、最初の試合となった立教大学との1回戦ではボール球に手を出してしまい、3打数無安打。途中交代の悔しさも味わった。雨で中止の1日間を挟み、堀井監督から「スタンスを広くして見ろ」というアドバイスを参考にしてみたら、2回戦で2本のホームランを放った。

今季はバッティングリーダーとしてチームを引っ張る

「ホームランって打った瞬間は、あんまり記憶に残らないんですけど、一塁ベースを回ったぐらいでスタンドに入って、球場が沸いている中、残りの距離をかみ締めながら走れるのが、大好きなんです。あの時間だけは、まだ右手に残ってる感触を感じながら『野球をやってて良かったな』と思います。1本打ったら、やめられないですね」

残る大学野球生活で、あと何本のアーチをかけられるだろうか。アメリカでスイングを強くすることを学び、フォームも大きくいじられることもなく、自分のスタイルを伸び伸びと貫いてきた常松のバッティングから目が離せない。

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