駒澤大学・山口瑠 パリオリンピック代表を破った俊英、ロサンゼルスで金メダルを狙う

今年4月のボクシング日本代表決定戦(ボックスオフ)で、男子55kg級を制したのは2004年生まれの新鋭だった。今夏の世界選手権を見据えて、男子は80kg級まで階級別に7人が選出される中、大学のボクシング部所属で代表権を獲得したのは一人だけ。アマ戦績は74戦72勝2敗の俊英。下馬評を覆し、オリンピアンらを退けた駒澤大学の山口瑠(るい、3年、興国)に話を聞いた。
徹底した原田周大の対策
乗り越えないといけない壁は一つではなかった。負けた時点で世界への道は閉ざされる。4月26日、日本代表決定戦の1日目。男子55kg級の緊張感漂うリングで向き合ったのは、パリオリンピック代表の原田周大(大橋ジム)だ。2024年全日本選手権フライ級(51kg以下)王者の山口は、あえてこのタイミングでいばらの道を選んだ。
「昨年12月の全日本が終わってから階級を上げるかどうかを考え始めたのですが、当初は体重が足りなくて、悩みました。(世界選手権は)50kg級のほうが適正かなと思っていたんです。『55kg級で行く』とはっきり決めたのは今年2月でした」

すべてはロサンゼルス・オリンピックからの逆算だ。3年後に見据える大舞台での実施階級は55kg級以上しかない。駒澤大の小山田裕二監督にも「ロスを目指すなら、早めに挑戦したほうがいい」と背中を押してもらった。1階級上には、強敵のオリンピアンがいるのも覚悟の上である。
「いずれ戦うことになる相手だと思っていたので、そこは関係なかったですね。自分の将来、人生がかかっていましたから」
腹を決めてからは、徹底して原田対策に取り組んだ。ライバルの試合動画はくまなくチェックし、あらゆるパターンを想定。最悪のケースも考えて戦略を練り、鋭いリードジャブでリズムをつくる自らのボクシングに磨きをかけた。同時に初めて臨む55kg級に対応する準備も抜かりなく進めた。身長は172cmと小さくはないが、駒澤大のボクシング場では60kgを超える中量級以上の選手たちと実戦練習を重ね、フィジカルで押し負けないように強化してきた。

日本代表決定戦を制し「やっとスタートラインに」
そして迎えた試合当日。胸を借りる思いを持ちながらも、監督、コーチ、仲間から「お前なら行ける」と声をかけられて、堂々とリングへ。開始のゴングが鳴っても、チャレンジャーは一歩も引かなかった。ジャブの差し合いで勝ち、ペースを掌握。距離を支配すると、スパンときれいな右ストレートをヒットさせていく。最終3ラウンドは果敢に前に出てくる相手に対し、冷静に右のショートアッパーを打ち込むなど、最後まで試合をコントロールした。判定は文句なしの5-0。ボクシング関係者が見守る味の素ナショナルトレーニングセンター内に、山口瑠のアナウンスが静かに響いた。自分の左手が挙がった瞬間は素直にうれしかったが、すぐに気持ちを引き締めた。
「あと一つ勝たないと意味がなかったので、それほど喜べなかったです。油断できないぞ、という気持ちでした」
拳を交わしたばかりのキャンバスの上で、敗者の原田から「ありがとう」とひと言声をかけられると、頭を小さく下げた。「こちらこそ、『本当にありがとうございます』という思いでした。僕は周大さんがいたから、強くなれたと思っています」

翌日の決勝では全日本選手権バンタム級王者の溝口勢十朗(パンチアウト)をまったく寄せ付けず、判定5-0で完勝。勝利の余韻が残るリングで、ようやく安堵(あんど)の笑みを浮かべた。ジャッジにあいさつを済ませた後、ロープをゆっくりくぐったシーンは脳裏に焼き付いている。小山田監督と固い握手を交わし、「よくやったな」とねぎらわれた。
「やっとスタートラインに立てたって。これからやなと」
「自分を強くしてくれた」黒星
「やっと」という言葉に実感がこもっていた。2年越しの日本代表――。思いを巡らせると、苦い表情になっていた。いまでも、あの日の記憶は鮮明に残っている。
大学1年時に初めて出場した2023年11月の全日本選手権。フライ級の準決勝で牧野草子(自衛隊体育学校)に0-5の判定負けを喫し、志半ばで国際大会につながる道が途絶えてしまった。その先のパリオリンピックまで見据えていた当時19歳の山口は、茫然自失となった。国内でのキャリア初黒星。興国高校時代は選抜大会、インターハイともに2連覇して四冠を達成し、唯一の負けは銅メダルを獲得した世界ユース選手権の準決勝だけだった。それまでの自信まで砕かれた。
「めちゃくちゃ悔しくて……。あのときは、何も考えられなかった。これからどうしていいのかも、分からなくなったくらいです。『俺はセンスあるのか、この先トップを取れるのか』って」

しばらくは一人になるたびに、負けた試合が目に浮かんだ。寮のベッドにもぐり込み、目をつぶっても、毎晩のように相手の手が挙がる瞬間を思い出してしまう。それでも、頭の中から消えない黒星がマイナスに働くことはなかった。代表の座を取れず、国際経験を積むことはできなかったが、同じ釜の飯を食う仲間たちと練習に打ち込んでいると、闘志が湧き上がってきた。もう絶対に負けたくない――。
「あの負けが、自分を強くしてくれたと思っています。あそこで黒星がついて、良かったのかもしれません。練習でしんどくなっても、あれを思い出すと、踏ん張れるんです。いまでも時々、頭の中に出てきますから」
いまも新たなスタイルを模索中
格闘エリートにとって、初めての大きな挫折だった。出身は大阪府藤井寺市。4歳からキックボクシングをはじめ、ほとんど負けなしで多くの大会を制してきた。小学校4年からパンチ力を強くするためにボクシングジムに通っていたが、本格的に転向したのは中学校3年のはじめである。競技者としての将来性などを考えて、総合的に判断したという。世界的な舞台での活躍、夢が広がるプロの世界など、ボクシングは魅力にあふれていた。その当時からいまも大きな夢は変わっていない。
「オリンピックで金メダルを取り、世界チャンピオンになる」

野心は持っているが、まずは目の前の戦いに集中している。今夏に開催される世界選手権の頂点を見据えて、いまも新たなスタイルを模索しているところだ。日本代表決定戦で見せた巧みな技術とスピードだけではない。
「試合の中で、もっとひらめき、本能的な動きも出していいのかなと。『ここで、このパンチを打つのか』と言われることもあるので。海外では型にはまってしまうと勝てないと思うので」
その先にアマチュアボクシング最高峰のステージも見えてくる。チャンスは4年に1度。さらに金メダルを手にできるのは一人だけである。現在、日本のプロボクシング界を牽引(けんいん)する4団体統一スーパーバンタム級王者の井上尚弥(大橋ジム)もアマチュア時代、オリンピックの壁に阻まれた一人。その道のりが険しいことは、自覚している。
「オリンピックで金メダルを取るのは、世界チャンピオンのベルトを手にするよりも難しいと思っています。いまは何よりもロスが目標。その先を見て勝てるほど甘くないです」
華やかなプロボクシングのように脚光を浴びることは少なく、世間の注目度も決して高いとは言えない。それでも、拳に人生をかける思いは同じ。3分3ラウンドのスピーディーな攻防は、一瞬たりとも目が離せない。山口はトップアマの矜持(きょうじ)をのぞかせる。
「プロにも負けていない、自信はあります。いまよりもっと強くなって世界で結果を残せば、光も当たるのかなって。試合を見てくれた人に『すごい』と思ってもらえるボクシングはできると思っています」

セルフプロデュースはこれから
次世代のスター候補もリングに上がる関東大学1部リーグは5月に始まったばかり。試合会場の後楽園ホールで目にする21歳は、礼儀正しくスポーツマン然としている。「僕はちょっとかしこまったところがあるんで、個性も出していきたいです」。きりっとした表情を崩すと、照れ笑いを浮かべていた。セルフプロデュースはこれからのようだ。
