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オーストラリアNBLで大きな収穫を得て、馬場は東京オリンピックに挑む ©Melbourne United

馬場雄大、揺るがない「NBA」という原動力 日本を飛び出したからこその成長曲線

2021.07.12

東京オリンピックを前にして、馬場雄大(25)はオーストラリアNBLでリーグ制覇という大きなお土産を手に帰国した。「1シーズン通してやり切れ、優勝という結果を残せた。気持ち的にもメンタル的にも、すごくそこで変われたと思う。一番は気持ちですかね」。筑波大学在学中にBリーグのアルバルク東京に加入し、Gリーグ(NBAの育成リーグ)のテキサス・レジェンズへ、そして2020-21シーズンはオーストラリアのメルボルン・ユナイテッドで戦った男は、ぶれることなくNBAへの夢を追いかけている。

“負けた”という気持ちになったことはない

東京オリンピックの5人制男子バスケットボールは7月25日~8月8日にかけて行われ、日本は抽選の結果、グループCに入った。2019年のワールドカップ(W杯)優勝国のスペインと同2位のアルゼンチン、スロベニア、日本の4チームで予選ラウンドを争う。そのW杯に日本は21年ぶりに自力出場を果たした。1次ラウンド5戦全敗に終わったものの、馬場はアメリカ戦でチーム最多の18得点をあげるなど、強い気持ちでぶつかり続けた。

「チームとしても個人としても、何も通じなかった。その悔しさを糧に、ひたすらにやってこられていますし、負けたことで自分たちの現在地が理解でき、東京オリンピックでどう戦うか気持ちのリセットができたと思う」

当時を振り返って馬場はそう口にしたが、これまでのバスケ人生の中で、馬場は「僕自身が“負けた”という気持ちになったことはない」と言い切る。例え記録として負けが記されたとしても、自分と世界との差を痛感させられたり、気持ちを折られたりしたことはない。幼い頃からの負けず嫌いな性格は、そのまま今の馬場のプレースタイル、強みにつながっている。

W杯のアメリカ戦は45-98と点差が開いたものの、馬場は最後までアグレッシブな姿勢を貫いた ©JBA

全国で戦えていなかった自分がU16、U18を経験して

馬場にとってバスケとの出会いは自然なものだった。父・馬場敏春さんは元バスケ選手で、3つ上の姉はその父が指導するミニバスのチームに入っていた。幼稚園の頃に家族で練習場を訪れ、初めてボールに触れた。家族の会話の中にも自然とバスケが入り込む。小学生になってから馬場もミニバスを始めたが、その頃には周りの友だちが野球やサッカーに熱中していた。馬場も「やってみたいな」と思うようになったという。だがその一歩が踏み出せなかった。なぜか。「う~ん。神さまがバスケットボールをやるように促してくれたのかな」と馬場は笑いながら話してくれた。

奥田中学校(富山)で徹底的に基礎から鍛えられ、父が指導する富山第一高校に進学。「コートに1歩踏み入れたらコーチと選手の関係でしたから、親子だから照れくさいとかは一切なかった。それよりも僕に対して父はすごく厳しく接していたので、親子でやる大変さは感じていましたね」。チームのトラブルでは真っ先に自分が叱られたが、父の思いをひしひしと感じ、練習後の自主練習には父が力になってくれた。父の元で取り組んだ練習にはダンクもあった。「最初は感覚をつかむためにバレーのボールで練習していました。自主練の最後に『ダンク10本入ったら終わりな』とか言われていたので、ダンクに対して取り組んでいたのはよく覚えています」

馬場が「あの経験が今の自分につながっていると言っても過言ではない」と話すのが、高1のU16、高2でのU18の日本代表経験だ。馬場は小学校の時こそミニバスで全国を経験しているが、中学校では北信越大会までだった。その自分に巡ってきたビッグチャンスに最初こそ萎縮してしまったが、父の「何も考えず思いっきりやってみろ」という言葉で吹っ切れた。「全国大会に出られない選手だと自分を見てもらえる機会がないですから、『やってやろう!』と気持ちが入りましたし、チャンスをくださった富樫英樹さん(当時・U16のヘッドコーチ)には感謝しています」。この代表活動で杉浦佑成(現・三遠ネオフェニックス)と出会い、後に「日本一」という夢を抱いてともに筑波大へ進学することになる。

U18でもうひとり、1学年上の渡邊雄太(現・トロント・ラプターズ)との出会いで馬場のバスケ観は変わり始める。渡邊は尽誠学園高校(香川)卒業後に渡米。プレップスクール(大学進学準備校)に通い、NCAA1部の大学への入学と、その先にNBAを目指していた。U18でともに戦ってきた仲間の挑戦に、「僕ならどこまで行けるんだろう」と少しずつ気持ちが傾き始めた。しかし馬場がNBAのプレーを見始めるようになったのは大学生になってからであり、当時は“世界最高峰の舞台”ということ以外、NBAがどんな世界なのかもよく分かっていなかったという。「馬場少年は雄太が行ったから『NBA選手になりたい』と思い描いて、SNSの発達でNBAに触れる機会が増え、『こういう世界なんだな』って少しずつ理解できるようになったというところです」。きっかけこそフワッとしたものではあったが、その思いが馬場の大きな原動力になっていった。

アルバルク東京で「世界のスタンダード」を知った

まずは英語を鍛えることと教員免許の取得を目指し、杉浦とともに筑波大に進学した。目標は「日本一」「天皇杯優勝」。馬場は1年生の時から躍動し、4年間かけて目指すつもりだった「日本一」を初めてのインカレで成し遂げてしまった。インカレでの連覇を重ねる中で迷いが生まれる。NBAへの夢を引き寄せるために、1年でも早くレベルの高いところに行きたい。その思いからインカレ3連覇を成し遂げた3年生の冬、馬場は吉田健司監督に退部を申し出た。NCAA1部の大学に転入する道も考えたが、1年目は練習生扱いとなるレッドシャツの制度に悩んだ。そこで馬場はもうひとつの方法、1年早くBリーグに進み、日本代表として国際大会で活躍することでNBAからの評価を勝ちとる道を選択した。

馬場(左)は大学在学中にBリーグのクラブに加入した最初の選手だった©B.LEAGUE

吉田監督とチームメートの後押しを受け、馬場は筑波大4年生の時にアルバルク東京へ加入。A代表の候補合宿やユニバーシアード日本代表の合宿でも指導を受けていたルカ・パヴィチェヴィッチヘッドコーチの下で、「世界のスタンダード」を学んだ。「僕は日本でしかプレーしていなかったし、正直あの時は筑波大学で勝ち続けてきたことで、少し貪欲(どんよく)な姿勢が足りない時期でもあった。そんな僕にルカは常に準備を促してくれた。毎試合準備をして結果を残すことはすごくシリアスなところだけど、それがプロ選手としてあるべき姿。海外でプレーする今も、『あぁ、ルカが言っていたことは間違いなかったんだな』って思っています」

日本代表選手を多く輩出している強豪チームの中でも、馬場は遠慮も気後れもせず、攻守でアグレッシブなプレーを披露。ルーキーだった2017-18シーズンからBリーグ2連覇を支え、特に2年目の2018-19シーズンのチャンピオンシップではMVPに選ばれている。19年のW杯前にはNBAダラス・マーベリックスのメンバーとしてサマーリーグに挑戦し、W杯後にはマーベリックスの下位組織にあたるテキサス・レジェンズに所属を移した。Gリーグでプレーした2019-20シーズン、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、Gリーグは昨年3月に中止となった。Gリーグの2020-21シーズンの開幕が見えない中、馬場はNBAに近づく方法を模索し、同年7月、オーストラリアのメルボルン・ユナイテッドへ移籍した。

メルボルン・ユナイテッドのファンの熱量に触れて

テキサス・レジェンズにいた時は、チームには伊藤拓摩コーチがおり、英語でコミュニケーションをとる時は常にサポートをしてくれたという。しかしオーストラリアではひとり。オンラインの英語プログラムで学び、英単語帳で分からない単語を一つずつつぶしていき、隙間時間にはスマホのアプリで英語に触れる。大学時代に始めた英語の日記は今も続けている。「今日何があったか、どんなふうに思ったかを簡単に4~5行ぐらいで書いています。過去のを振り返られるようになっているので、去年の今は何をしていたんだろうって見返しています。文法とかスペルが間違っているなと思いながら(笑)」。その積み重ねで自分の英語にも少しずつ自信がもてるようになり、チームメートとのコミュニケーションだけでなく、取材も英語で受けられるようになった。コミュニケーションストレスが軽減されたことは、プレーの質の向上にもつながっているという。

メルボルン・ユナイテッドはレギュラーシーズンを28勝8敗の1位で終え、プレーオフのグランドファイナルでリーグ3連覇がかかっていたパース・ワイルドキャッツと対戦。3戦先勝方式でのゲームでメルボルン・ユナイテッドはアウェイで2勝し、ホームでの3戦目を迎えた。コロナの影響でホーム戦を実施できたのは約6週間ぶりだった。「優勝のためにやってきましたら、『ついにここまできたか』と気持ちが引き締まりました。なにより、ファンの方々の熱量。ありがたいことに『BABA』と書かれたTシャツを着てくださっている方もいて、僕に対して温かい応援をしてくださる方々ばかりで、『これがホームなんだな』ってすごく感じながらプレーさせてもらいました」。最後には馬場のダンクも決まり、81-76で勝利。優勝の喜びを仲間たち、そしてたくさんのファンと分かち合った。

馬場(左)はアグレッシブなプレーで攻守にわたってチームを支えた ©Melbourne United

レギュラーシーズンは30試合に出場。プレータイムは平均して1試合約20分獲得しているが、当初は試合に出場できないことへのフラストレーションを感じていた。それでも「プレータイムがもらえないことはアメリカで経験していたので、そこでどう対処するか。常に次に向けて準備するというメンタリティーでやってこられたと思います」と、海外挑戦1年目の経験を生かしてきた。オフコートでも、当初は英語のコミュニケーションで仲間の輪に入れないこともあったが、そのたびにどうしたらいいのかを考え、行動してきた。「僕は沈んだままでいるようなタイプではないんで、『だったら、どうしようか』と切り替えていました。日本にいたらできなかったところだと思うので、物事に対しての取り組み方・受け取り方は、すごく自分が変われたところだと思います」。目指す場所にアプローチし続け、常にポジティブに一日一日を積み重ねてきたことが、馬場雄大の成長曲線につながっている。

バスケがうまいだけではNBA選手になれない

東京オリンピックは、2年前のW杯で味わった悔しさを晴らす絶好の舞台でもある。その大舞台を前にして、「全力でやれる準備をしてきた」と馬場は言う。「チームの結果が日本のバスケを盛り上げるか否かに関わってくるので、自分の活躍もそうですけど、チームの勝利にこだわっていきたいです」。馬場個人としては2年ぶりの代表活動でもある。この2年で自分がどれだけ成長できたのか、日本の人たちに見せられたらと考えている。

高3に思い描いたNBAの夢は今、どこまで近づいているのだろうか。その問いに馬場は「6分目、7分目あたりじゃないですかね」と答えた。これからさらに登り詰めるには、バスケ技術の向上だけでは足りないという。

「プロ選手としてバスケだけできていればいい、というわけではない。どれだけ社会に影響を与えられる選手になれるか。サッカーで言えば、本田圭佑さんや長友佑都さんなどはプレーヤーとしてだけではなくSNSや音声サービスアプリや動画サイトなどを通じて、世の中に影響を与えていますよね。NBAのトップ選手は自分がどれだけ社会に影響を与えられているかを理解しています。発言や行動など全部踏まえて、ステフィン・カリーやレブロン・ジェームズなどは勉強になっているし、目指しています」

選手としてだけでなく人としても愛され慕われる存在になる ©Melbourne United

それでも、馬場にとってNBAが“最終地点”ではない。

「人生、やろうと思えばいろんなことができますから。NBAに行けたらと終わりじゃなくて、常に人としてもそうですし、自分にとって楽しいことを突き詰められたらいいな、と人生を通して思います」

人なつっこい目でそう語る馬場の夢は、果てしなく大きい。(文・松永早弥香)