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東藤は札幌山の手高校3年生だった2019年1月から、トヨタ紡織 サンシャインラビッツでプレーしている © W LEAGUE

トヨタ紡織・東藤なな子 出会いで開けたバスケ人生、根幹には“楽しいバスケ”

2021.09.17

「遠慮してるよね? もっとやっていいよ」

東藤(とうどう)なな子(20、トヨタ紡織 サンシャインラビッツ)の胸には、札幌山の手高校の先輩でもある町田瑠唯(るい、富士通 レッドウェーブ)に言われたこの言葉があった。バスケットボールの女子日本代表は東京オリンピックで銀メダルを獲得し、日本バスケ界の悲願だった初のオリンピックメダルをつかんだ。チーム最年少の東藤は自分の持ち味であるディフェンスでチームに貢献し、初の日本代表として戦ったこの舞台で存在感を発揮した。「バスケで生きていく」という選択を自らしてきたわけではない。そんな東藤がバスケ人生を歩んできたのは、様々な出会いがあってのことだった。

バレー部がなかったため、幼なじみと一緒にバスケ部へ

北海道札幌市で生まれた東藤は、元バレーボール選手の父と元バドミントン選手の母の影響を受け、兄とともにスポーツが好きな子どもに育った。実家にはトランポリンや跳び箱などもあり、外では上手にローラースケートを乗りこなしていたという。

そんな中、バスケを始めたのは友達のお母さんに誘われたのがきっかけだった。小4の時にミニバスを始め、チームメートには関ななみ(日立 ハイテククーガーズ)や畠山愛花(桐蔭横浜大3年)もいた。その2人とともに地元の新川中学校に進学。東藤も兄と同様、中学校ではバレーをするつもりだったが、学校に女子バレー部がなかったため、そのままバスケを続ける道を選んだ。

バスケを始めた頃は幼なじみと一緒にプレーできることが楽しく、その思いは中学校でも変わらなかった。ただ、勝利を重ねる中で次第に全国を意識するようになり、中3の時に北海道大会を制して初めて全中に出場した。チームの目標は「ベスト8」。あと一勝で目標に届くという日章学園(宮崎)戦で65-81で敗れ、ベスト16で大会を終えた。「自分の中では楽しくバスケをしていたんですけど、やっぱりあの時は悔しいという気持ちが大きかったです」と東藤は振り返る。

強豪・札幌山の手でバスケのメンタルと技術を学び

札幌山の手高校に進学して、「楽しいバスケ」は大きく変わった。「上島(かみしま)正光さんにバスケのメンタル部分を学びました。上下関係が厳しいところにびっくりしたけど、それは今に生きていますし、高校3年間のおかげで今の自分があると思っています」

上島正光さんとの出会いが、日本代表としても戦う今につながっている © JBA

札幌山の手は3冠(インターハイ、国体、ウインターカップ)の経験もある全国に知られた強豪校だ。東藤は当初、「楽しくバスケができるくらいでもいいな」と考えていたが、コーチを務めていた上島さんに誘われたことで、「この人の下でバスケがしたい」と思うようになった。関と畠山とは同じ高校に進もうと話していたこともあり、3人で話し合った結果、札幌山の手への進学を決めた。

上島さんからはよく「お前がやらないなら誰がやるんだ!」と声をかけられ、苦しい場面になればなるほど、その言葉が東藤の胸に響いた。東藤は1年生の時から主力として活躍し、2年生の夏に副将になり、同年の秋には主将に抜擢(ばってき)された。しかし2年目はなかなか全国大会で結果を残せず、東藤は主将としてチームを盛り上げる難しさを実感したという。

高校3年間で最も記憶に残っている試合を「3年生でのインターハイ2回戦、京都精華学園戦」と答えたのもその思いがあってのことだろう。1回戦で徳島県立城南とあたり、113-59と大差で勝利したが、東藤自身は強気なプレーができなかったという。それを上島さんに見抜かれ、主将を降ろされた。「明日の試合でキャプテンに戻すか決める。この試合で取り返してこい」。そう言われて挑んだ2回戦、東藤は第1クオーターから躍動し、主将を奪還。「自分にはエースとしての責任感がなかった。苦しい場面で力を出せる選手になりたいと思ったのはその経験が大きいです」。3回戦で県立津幡(石川)に72-76で敗れたものの、東藤は22得点16リバウンドと攻守で活躍し、キャプテンシーを発揮した。

ただ、東藤の高校バスケは思いも寄らぬかたちで幕を下ろした。東藤はFIBA U18アジア選手権(インド)のメンバーに選ばれ、日程が重なっていたウインターカップ北海道予選には出場できなかった。U18アジア選手権で日本は5大会連続で中国との決勝に進み、76-89で銀メダル。中国に5連覇を許した。その決勝の翌朝、東藤は友人と親からのLINEで、札幌山の手が北海道予選決勝で札幌東商業に敗れたことを知った。「え、引退?」。最初は冗談だと思っていたが、相次ぐLINEで「本当なんだ……」と知らされた。帰国の飛行機の中、東藤は自身の引退よりも申し訳ないという気持ちを抱えているであろう仲間のことが心配でつらかったという。「『大丈夫だよ。頑張ったならそれでいいんだよ』と言おうと決めていました」。東藤は笑顔で仲間の元に戻った。

U18アジア選手権で東藤は初めて世界の高さを体感した © W LEAGUE

高校3年間を振り返り、「いろんなことを上島さんから教わって、気持ちの面で強くなれました。どんなに苦しい時でも逃げずに“壁”に立ち向かえました」。東藤が言う“壁”とは? 「本当に何も知らなかったんです。頭も使っていなかったし、ただただゴールに向かうだけ。そんな私に上島さんが技術を教えてくれて、その度に成長を重ねられました」

ホーバスHC「見ていて面白い」

翌19年1月、東藤はアーリーエントリーでトヨタ紡織 サンシャインラビッツに入団。教員の両親の姿を見てきた東藤は当初、大学に進んで教員免許をとろうと考えていたが、トヨタ紡織に声をかけてもらえたことで、バスケに向き合う決意をした。「Wリーグで初めて、相手のプレーにアジャストするという意識をするようになりました。その意味では“頭を使ったバスケ”をするようになったのはこの頃からです」

シュートレンジを広げるとともに精度を高め、チームの得点源として自分が切り込む。ディフェンスへの意識を高めたのもこの頃だ。練習前に体幹トレーニングを入れ、チームのトレーナーに相談しながら自主的にウェートトレーニングにも取り組んだ。ルーキーイヤーを振り返り、東藤は「自分がやりやすいように先輩方がサポートしてくださり、やっていて楽しかったです。(ルーキーだったため)アジャストされていなかった分、1対1でのプレーができていたと思います」と言い、その活躍はWリーグ新人王という結果に結びついた。

昨年1月には初めて日本代表候補に選ばれ、そして今年の東京オリンピックを迎えた。冒頭の町田の言葉は、今年4月にあった第1次強化合宿前にかけられた言葉だ。同じく札幌山の手の先輩である長岡萌映子(トヨタ自動車 アンテロープス)も、「なな子はトムさん(ホーバス・トムHC)に信頼されてここに来てるんだから、遠慮せずにやった方がいいよ」とアドバイスをしてくれたという。ホーバスHCからは「体も強いし、ステップも踏めるし、見ていて面白い」とディフェンス面での活躍を期待され、東藤もそれがチームに果たすべき自分の役割だと感じていた。

東藤(右)は体を張ったディフェンスで相手に食らいついた © 朝日新聞社

公式戦での日本代表デビューとなったフランス戦では、11分38秒の出場で5得点1スティールを記録。大会中、コートに出る際に先輩の町田や長岡も背中をバンっとたたいて送り出してくれ、「愛情を感じました」と東藤は笑顔で明かす。ホーバスHCから「まだ経験が浅いけど、試合に出しても安心できるようになったよ」と声をかけられたことで自信を深め、東藤はキーマンとなる相手選手にプレッシャーをかけるディフェンスを貫いた。

「バスケは駆け引き」

コートを離れれば、まだあどけなさの残る20歳だ。愛知での生活も3年目になったが、カラッとした涼しい北海道の夏が恋しくなる時もある。趣味のドライブでも、「美瑛の四季彩の丘や青い池、冬のライトアップされた小樽運河とかがオススメです」と北海道の魅力を伝えてくれた。

「将来的には日本代表のエースと呼ばれる選手になることが目標です。オリンピックでは先輩たちがみんなかっこよくて、いろんなことを学ばせてもらいました。誰か1人ではなく1人ずつ尊敬するところがたくさんあり、それを忘れないように生活していかないといけないなと思っています」

2021-22シーズンを前にして、「平均15点がとれるくらいの得点源となり、相手のキーマンをとめる役割を果たしたい」と東藤 © W LEAGUE

東藤のバスケは“楽しい”から始まり、人々との出会いの中で“人生を通じて突き詰めていくもの”になった。改めてバスケの魅力とは? 「バスケは駆け引き。相手のやりたいことはなんだろうと考えながらディフェンスをして、オフェンスでも相手の裏を突くのが楽しいし面白いんです」。戦う舞台が変わり、背負うものが変わっても、東藤のバスケの本質は変わらない。(文・松永早弥香)