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連載:監督として生きる

行き場なくした熱意 東医保大女子バスケ・恩塚ヘッドコーチ(上)

東医保大女子バスケ部は昨年12月、恩塚HC(右下)の指導の下、インカレ連覇を成し遂げた(写真は東京医療保健大学提供)

2006年創部のチームが12年にインカレに初出場を果たすと、わずか5年で頂点へ駆け上がった。さらに18年には大会連覇。東京医療保健大学女子バスケットボール部は、長きにわたる大学女子バスケ界の序列をひっくり返した、風雲児のようなチームだ。

そして、このチームを束ねる恩塚亨ヘッドコーチ(HC、39)もまた、成り上がり精神の塊のような人だ。選手だった高校、大学時代に特筆すべき実績はなし。大学卒業後は高校の教員として女子バスケ部の指導にあたったが、最高成績は県大会出場だった。選手としても指導者としても目立ったキャリアがないにもかかわらず、現在は東京医療保健大を大学のトップチームに育て上げ、多くの関係者から注目を集める存在となった。

「最初は僕のことなんて、誰も知らなかったと思います。僕のように実績がまったくない人間にも道はある。むしろ道はつくれます」。連載「監督として生きる」第5弾では、恩塚HCがどのように道を切り開いてきたのかを3回に渡って紹介する。

歓迎されなかった県大会初出場

恩塚HCが指導者を本格的に志すようになったのは、筑波大学体育専門学群3年生のころ。コーチングに関わる講義を受けるのはもちろん、大学院生の講義に出入りしたり、トップチームの監督を訪ねたり、近隣の小学生を指導したりと、さまざまなところで素養を身につけていった。

卒業後は関東にある有名私立高校に赴任し、女子バスケ部の顧問になった。純粋にバスケを楽しむ部員たちとの日々は充実しており、就任4年目には初めて県大会に出場できた。

ただ、保護者らにとっては、この状況は歓迎すべきことではなかったらしい。「バスケをやらせるためにこの学校に入れたわけじゃない」といったような抗議を受けるようになった。「親御さんの気持ちもよく分かるんです。大学受験のために勉強を頑張ってるはずの我が子が、食卓でいきなりバスケや筋トレの話をしだしたら、確かに不安で不安で仕方がないだろうなと」

土日のどちらかは完全オフ、夏休みは半分以上練習なしという環境から、さらに練習時間を削らなければならなくなった。ならば、わずかな時間であってもバスケを真摯に教えることに注力すればいいかというと、そうではない。なんせ、保護者は子どもたちにバスケに夢中になってほしいとは思っていないからだ。

「お互いがお互いを必要としてない」。その事実に気づいたとき、恩塚HCの熱意は途端に行き場をなくした。

「自分の人生は自分でつくっていくんだよ」

しかし、そんな状況を救うような出会いもあった。04年、NBAプレーヤーのアメリカ人が来校し、生徒たちを対象とした講演会と講習会が開かれた。恩塚HCは偉大なアスリートではなく、彼を連れてきたカナダ在住の日本人に大きな刺激を受けた。

「その方の本業は銀行員なんですけど、ひょんなことからできたチームとのつながりを生かして、勤め先の銀行とは無関係に来日イベントをセッティングしたそうです。『みんながハッピーになるように』と、選手にかかる費用はすべて彼個人として集めたスポンサー料でまかなったと聞き、人を喜ばせることで対価を得る、真のプロフェッショナルだなと感じさせられました。そんな方に『自分の人生は自分でつくっていくんだよ』という言葉をかけられ、いまの自分に何ができるかを考えるようになったんです」

部活のできる日が少なかった分、時間だけはたっぷりあった。これを生かさない手はない。より深い学びを得るため、さまざまな指導者のもとを訪れようと考えた。

「普通の公立高校から日本一」を本気で目指し、神奈川県立金沢総合高校でそれを実現した星澤純一氏。有望選手のリクルートが困難な慶應義塾大をインカレ優勝に導いた佐々木三男氏。シャンソン化粧品の黄金時代をつくり上げた中川文一氏。酸いも甘いもかみ分けた名将たちのもとに足しげく通い、その指導のエッセンスを吸収した。知人のコネクションを頼りにアメリカにも渡り、3つのNBAチームと4つの名門大学も視察した。

みんなにも喜んでもらいたい

そんな折、在職していた高校の学校法人が新しい大学をつくると知った。保護者の庇護下にある高校生は、本人の意思が必ずしもファーストにはならず、指導者の熱意が逆に迷惑になることを痛感した。しかし、自らの意思で進学先を選べる確率が高い大学生ならば、真摯な指導を求めて門戸を叩いてくれて、自分も全力でそれに応えられるかもしれない。しかも、もう二度とないとあきらめていた大学バスケの聖地・代々木第二体育館のフロアに立つこともできるかもしれない――。

映像を見せながら指導する恩塚HC

この好機を逃す手はないと考えた恩塚HCは、この大学にバスケ部を創設してほしいという企画書をまとめ、学校法人の副理事に持参した。新設校は医療・看護系の学校で女子生徒が大半になると見込まれたため、バスケ部も自然に女子部となった。「自分が大好きなことで夢中になって、喜んでもらえるという立場でコーチができれば、男子でも女子でもどちらでもよかったんです」と恩塚氏。

企画書は受け取ってもらえたが、色よい返事は得られなかった。大学時代の恩師からは「無理だからやめた方がいい」と諭されたが、あきらめきれなかった。NBAイベントの後も交友が続いた銀行員の助けを借りながら、コンセプトやリクルートの計画といった具体的なビジョンを肉付けしていく過程を4度繰り返し、ようやく「やってみようか」という言葉をかけられた。もちろん、この大学こそが東京医療保健大。05年の冬、恩塚HCは27歳だった。

晴れて女子バスケ部の創部が決まると、恩塚HCは学長に面会した。「君はどんな実績があるの? 」。学長に尋ねられ、「高校のチームを初めて県大会に出場させました」と答えた。「そのときの学長のなんとも言えない表情は、いまでも忘れられないですね」。恩塚HCは苦笑いで振り返った。

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