陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2025

中央大学・浦田優斗「誰かの力になれる人でありたい」4年間で見つけた〝走る意味〟

年始の箱根駅伝6区を力走する中央大学の浦田優斗(すべて撮影・中大スポーツ新聞部)

年始に開催された箱根駅伝で、前回は総合13位とまさかのシード落ちに終わった中央大学は往路で2位となり、大きなインパクトを残した。一夜明け、復路のスタートとなる6区を任されたのは、2年連続の出走となった浦田優斗(4年、國學院久我山)。「山下り」という特殊かつ、負担が大きいこの区間を走り切った。

「満身創痍」だった自身2度目の箱根路

ひたすらに前を追い、差し込みの痛みとも戦った58分49秒。4年間の集大成となった自身2度目の箱根路は、つわものぞろいの6区で区間6位と堂々の成績を残した。

一斉スタートだった昨年とは異なり、今年はトップの青山学院大学から1分47秒後のスタート。「緊張はしていたんですが、緊張とリラックスのバランスがちょうどいい感じでした」と箱根駅伝特有の雰囲気にも適応できていたと振り返る。父であり憧れでもあるという浦田春生氏(現・中大陸上競技部渉外担当)からは「落ち着いていけよ」と声をかけられていた。

序盤の上りは予想していたよりも速いスピードで進んだ。「上りが課題で、今年はあまり調子がよくなかった」と本番まで不安がつきまとっていたが、その気持ちを払拭(ふっしょく)する順調な滑り出しだった。

3年目に6区を担ったときも区間5位の好走だった

だが、3km付近、上りの途中で差し込みが襲ってきた。そのまま行こうと思ったが、深く呼吸できない。「ギリギリ空気が入ってくるくらいのペース」までスピードを落として回復を祈った。下りに入ると、「すごく好きで楽しんで下ろうと思っていたんですが、とにかくおなかが痛い」。早く下りたいのに下れないもどかしさ、いらだち……。様々な感情が頭をよぎったという。

そんな時、頭に浮かんだのは4年間苦楽をともにした同期たちの姿だった。「Tシャツの下にタンクトップのユニホームを着ているんですが、その背中に同期のみんなから名前を書いてもらっていて。背中を押されました」。箱根を走れなかった他の4年生メンバーが心の支えになっていた。

下りが終わって平坦(へいたん)となる17km付近以降で耐えられるかが、タイムにも大きく影響する。「かなり後ろも詰まってきていて、前も開いてるというのは分かっていたので、最大限粘るしかないなと思って」ひたすら前を追いかけた。運営管理車からは「58分台のペースで来てるから、最後、同期の思いを背負って絞っていこう」と藤原正和監督から檄(げき)が飛んだ。

小田原中継所でルーキーの岡田開成(1年、洛南)に襷(たすき)をつなぐときは「お互いに何か言ったんですけど、2人とも覚えていなくて。満身創痍(まんしんそうい)でした」と笑う。4年間で培った力を約1時間の山道で出し切った。

箱根を走れなかった同期たちの存在が心の支えになった

「こんな坂が……めちゃくちゃ楽しい」

浦田が初めて山下りのコースに触れたのは、3年前の1月2日だった。中大に入学してから初の箱根駅伝で、5区を走った同期・阿部陽樹(4年、西京)の給水を務めた。「芦之湯の一番最高点のポイントで給水して、その帰りにまだ交通規制が解除されていなかったので、途中まで走って下りて帰ろうと思って」。そんな軽い気持ちだった。

ふと前を見ると、山梨学院大学の給水を担当した選手が同じように走っているのが見えた。「抜かそうかなと思ったら、すぐに抜けたんです。その時『こんな坂があるのかよ』と思って」。それまでも下りに対する自信はあったものの、高低差800mを超えるコースには衝撃を受けた。「めちゃくちゃ楽しい、自分もここを走りたい」と胸が高鳴った。

当時、中大で6区を走っていたのは若林陽大(現・Kao)だった。1年目から4年連続で山下りを任されたスペシャリストだ。「もちろん憧れはありましたね。若林さん以上の走りができるようにならないといけないなと思っていました」。下りの楽しさに目覚めた浦田にとって、若林は目指すべき存在となった。しかし、現実は甘くなかった。

トラックシーズンは3000m障害を主戦場に活躍

「諸刃の剣」の足、ケガしにくい体作りを徹底

2年連続で箱根駅伝を走っただけでなく、トラックシーズンでは昨年の日本インカレ3000m障害で準優勝に輝いた。大学生活の後半こそ、順調な競技人生を送ってきたが、浦田にとっての1、2年目は我慢の時期が続いた。

浦田は自らの足を「諸刃(もろは)の剣」と表現する。度重なる骨折やその他のケガ、貧血によってまともに練習が積めない期間が多く、最初は6区候補に手を挙げることすらできなかった。競技を続けられるか、不安になることさえあったという。

しかし、その体質を生かすも殺すも自分次第だ。「ケガしやすいというのは、ある程度受け入れてやっていくしかないのかな」。浦田は自身の体と正面から向き合い、成長を模索する道を選んだ。そこからは花田俊輔コーチの下、他の選手が行う練習から離れて強度を落とすなど、ケガをしにくい体作りを徹底した。

若林が卒業し、箱根6区の座が空いた勝負の3年目。自らの体質を受け入れ、ケガと向き合い続けた結果が、報われ始めた。4月末の織田記念陸上3000m障害で8分37秒11を記録し、当時の自己ベストを更新。足の状態はそれほど良くなく、花田コーチからは「途中で離れたら棄権もある」と言われていた中での好記録だった。「オリンピックに出るような選手と最後まで競り合えたのが本当に自信になった」と浦田自身も成長を実感した。

昨年の日本インカレ男子3000m障害で2位に入り、表彰を受ける

これからは応援する側へ

これまでも、箱根6区で区間賞を獲得するという目標を何度も口にしてきた。4年目の箱根路を終え「優勝を狙うんだったら57分台はマストなんだなと実感しました」と浦田。今でも満足いく走りだったとは思わず、すでに次の目標へと視線を向けている。

何度ケガをしても、レースの結果が良くなくても、これまで陸上競技を続けてこられたのは「応援してくれる人がいるから」だ。沿道からの声援やレース後に連絡をくれる友人らの存在が、走るモチベーションにつながっている。だからこそ「自分も誰かの力になれるような人でありたい」。これからは応援する側へ。中大で過ごした4年間で、浦田は新たな〝走る意味〟を見つけた。

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