陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2025

東大大学院・古川大晃 博士過程4年目でつかんだ箱根駅伝、秋吉拓真の存在が転機に

博士4年、学生10年目の29歳にして箱根駅伝を走った古川。学生としての集大成にもなった(撮影・高野みや)

「駆け抜けた4years.」今回は、この春東京大学大学院を卒業した古川大晃(D4年、八代)です。熊本大学から九州大学大学院を経て、博士課程で東大大学院へ。関東に移り、研究に打ち込みながら箱根駅伝に挑んだ学生最後の4年間について聞きました。

◇ ◇ ◇

前回じっくりと話を聞かせてもらったのは、東大院に入学して間もない頃。そこからあっという間に4年が経った。コツコツと実力を高めてきた古川は、東大院に入ったことでそれ以前とは桁違いに注目されるようになった。

「なにか特別なことをした、みたいなことはあまりないんですけど、やっぱりなんだか見え方が変わっているような気がします」と東大のネームバリューの大きさを改めて本人も実感していた。

関東インカレでは「10冠」を達成

熊本県八代市出身の古川。熊本大から九州大学大学院に進み、研究と陸上を両立させながら走り続けてきた。「追尾走」をテーマにし研究した修士課程終了後、博士課程に進むか実業団に進むかの2択があり、古川は博士課程への進学を選んだ。

東大院では工藤和俊教授の総合文化研究科生命環境科学系身体運動科学研究室に所属。「人と走るとなぜ楽に感じるのか?」という素朴な疑問を、心理や生理、物理的側面など多面的なアプローチから研究していった。

2年時の関東インカレ5000m2部3部で国立競技場を走る古川(撮影・藤井みさ)

自らの研究を深める環境としてベストと選んだ進路で、走ることも継続。陸上部に入部した。関東の大学に進んだことで、箱根駅伝予選会で好走すれば箱根駅伝を走るチャンスが得られることになる。当然、大きな目標として箱根駅伝出場も視野に入ってきた。

関東インカレ3部にも出場。1年目は5000mと10000m、2年目と3年目は5000m、10000m、ハーフマラソン、4年目は10000mとハーフマラソンに出場し、すべてで1位に。「10冠です」とはにかむ。長距離3種目を走るタフさに感嘆すると「でもハーフマラソンが最終日なので大丈夫でしたね」とさらりと言ってのけた。

2年連続学生連合チームには入るも、本戦を走れず

陸上部には入ったものの、古川にはすでに自分なりの練習のルーティンができていた。走力のある市民ランナーらの朝練習会に参加するなどしながら、朝にしっかり走り込みを行い、そのあとは1日中研究。夕方の部活に参加しない日も多かった。

1年目の箱根駅伝予選会は1時間4分10秒で、総合88位。早速学生連合チームの16人に選ばれたが、このときはチーム内で14番手。選考方針はチーム内上位10名だったため、本戦への出場はなかった。

3年目に迎える100回大会は出場チームが23に増え、全国からの予選会参加を受ける代わりに、学生連合チームの編成はないかもしれない、という話が議題に上がっていた。そのため、「ラストチャンス」とも考えて臨んだ2年目の箱根駅伝予選会だったが、1時間4分42秒と前年よりタイムを落としてしまい、順位も総合100位でチーム内13番手。またしてもメンバーには選ばれたものの、川崎勇二監督(中央学院大学)は「上位10人を選ぶ」と明言し、古川が箱根路を走ることはなかった。

100回大会の予選会は、学生連合チームが編成されない可能性が高かったため、出場も回避。「(箱根駅伝エントリーの)4回の枠を使いたくない」という理由だったが、「今考えると全然出ても良かったなと思います」という。

秋吉に負け、近藤コーチから「部活に来い!」

その予選会でブレイクしたのが、当時学部2年だった秋吉拓真(六甲学院)。1時間3分17秒の総合54位で好走した。この結果に古川は衝撃を受けた。予選会の翌月にあった10000m記録挑戦競技会で、古川は初めて秋吉と直接対決。結果は秋吉が28分49秒27で組6位、古川は29分32秒57で組15位と大きな差をつけられた。

箱根駅伝100回大会予選会で63分台をたたき出し、ブレイクした秋吉(撮影・藤井みさ)

「めちゃめちゃ悔しい思いをしていたら、近藤(秀一)コーチから『お前は秋吉に勝てねえよ!』とあおられて、『部活に来い!』と言われたんです」

近藤コーチと古川は同い年。高い走力を持ちながら国立大に進み競技に取り組んでいた近藤は、古川の「スター」的な存在だった。熊大3年時には上京して近藤に会いに行き、一緒に練習をしたこともあった。コーチではあるが友達、同士のようでもある彼に発破をかけられ、それ以降は火曜と土曜の部活に必ず行き、秋吉とともに練習に取り組むようになった。

「彼はまぎれもなく、今までで一番強いチームメートです。練習で勝ったのも結局1回か2回でしたね」。秋吉と走ることで、練習の強度も上がった。10000mのペースランニングでも、3分5秒で10km行けたら大満足だったところから、12000m走り、かつ最後の2000mを2分50秒を切るペースで上がるようになった。

「自分の限界の檻(おり)を外してくれたという感じです。今まで陸上をやってきて、自分より強い選手がチームにいなかったんです。自分より強い選手が部内に現れたことへの許せなさみたいなのもあったので、『絶対に負けないぞ』という気持ちで走ることができたのは大きかったですね。ほぼ毎回負けたんですけど、悔しさもありつつ今までにできない練習ができたことの満足感もあって、ちょうどいいバランスでできていたと思います」

秋吉(後方)と出会い、練習できたことが箱根駅伝につながった。「感謝してもしきれないです」(撮影・浅野有美)

古川は秋吉について「底が見えないですね」という。調子を崩すこともほとんどなく、足を痛めたらすぐに病院へ。医師に「1週間安静に」と言われたらその通りにする。近藤コーチにも密に相談し、独りよがりにならないのだという。

「20歳ぐらいの頃って、けっこう尖(とが)りやすい時期だとも思うんですけど、彼はそれを感じないですね。他の部員にも全然おごることがなく、『みんなのおかげで走れてる』と彼から伝わってきます。本人には言えないですけど、人としてすげえな、って。本当にピュアな気持ちで彼と走れてよかったな、と思います」

強くなるってこうなんだ、と初めて知ったし、思い出させてくれた。秋吉とのことを古川はこう表現した。「陸上の話が大好きで、ダウンジョグしながらも『あの選手がどうだ』『あの選手には勝てる』ってずっと話してるんです。自分も20歳の頃そんなことばっかり考えてたな、と思って、その気持ちを思い出させてくれたなと思います」

明確に箱根駅伝を目標に、博士課程4年目に

博士課程は3年でも修了できるが、古川は4年目に進んだ。その理由は「間違いなく箱根ですね」という。卒業後も研究を続けようと決めていた古川にとって、在学期間が1年伸びることは研究を深められることに変わりなく、授業料の免除も受けられることもあり迷わず4年目に進んだ。

文字通り最後の1年は、まず近藤コーチの出してくれるメニューに素直になった。今まではメニューを取り入れつつ、研究優先で我流にアレンジすることもあったが、ひたすら出されるメニューを丁寧にこなすことに努めた。そしてバラバラだった睡眠時間を改め、7時間から7時間半しっかりと寝るようにした。

迎えた箱根駅伝予選会では、スタートしていきなり先頭の留学生とともに走るという驚きの展開に。「積極的に前に行こうと思っていて、振り返ったらもっと後ろの方にまた別の留学生集団がいて……『あれ?』ってなりましたね」

スタートして2km地点、日本人でただ一人留学生集団に。(左後ろ帽子が古川)八田教授からも「何をやっているんだ!」とあとから言われたという(撮影・藤井みさ)

もちろん古川がずっとついていけるペースではない。留学生から離れながら、地に足のついていないような感覚も覚えた。「やらかした」と後悔したが、10kmの通過は30分8秒と想定よりも速かった。「事前の予測と照らし合わせて、あとは得意な3分5秒ペースで刻めば連合チームに入れるんだ、と元気が出ました」

結果は1時間5分17秒で総合60位、連合チーム5番手。今度こそ本戦出場決定かと思われたが、小指徹監督(東京農業大学)は連合チームに対して、「箱根駅伝予選会の順位」「11月16日の10000m記録挑戦競技会の結果」「12月上旬の合宿でも16km走」の3本のレースをもって選考とすると示した。

なんとしてもラストチャンスをつかみ、走りたい。古川は予選会後すぐに強度の高い練習を再開した。しかし10000m記録挑戦競技会ではうまく走れず、29分52秒55でチーム内7番目。合宿での16km走では48分30秒を目安に走るようにと指示が出ていたが、48分38秒かかってしまった。

「(48分30秒を)切っていたら合格間違いなしだったんですけど、切れなかったから……結局今年も走れないのかなと覚悟はしていました。でも合宿が終わったあとに監督たちから秋吉と一緒に呼ばれて、『8区と9区ね』と。もう外れたと思っていたので、信じられなかったです」

文字通りのラストチャンス、暑さの厳しい中好走した古川。連合チーム入りを決めた(撮影・藤井みさ)

平常心ではいられなかった目標の大舞台

しかし本番が近づくにつれ、心はざわついた。1週間前からは朝起きて、心を落ち着けるために20分ほど瞑想(めいそう)する時間を作ることもあった。「そういうところも含めて、平常心じゃなかったと思いますね」と笑う。さらに、選考のために無理をして走りすぎてしまった面もあり、調子を完全に合わせきれなかったという思いはある。レースの2、3日前にはハムストリングの硬さが残っているような感触もあった。

戸塚中継所に秋吉が飛び込んでくる姿は、目に焼き付いている。「なんか、本当に晴れやかだなって思いましたね」。切磋琢磨(せっさたくま)し、自分を高めてくれたチームメートから襷(たすき)を受け取って駆け出した最初で最後の箱根路。「ああ、この景色が箱根の景色か、と感動してしまいました。それも普段の精神状態とは違ったなと思います。走るときはできるだけ意識を飛ばして、自分の動きやリズムに集中するようにしているんですが、このときばかりは少しかみ締めたくなっちゃいましたね」

直前まで曇っていたのが、襷リレーのタイミングで晴れた。「本当に晴れやかだなって」(撮影・浅野有美)

10km付近の給水では、八代高校の恩師・小田原晃先生から水をもらった。そして横浜駅地点の給水で待ち構えていたのは、今年定年退職を迎える陸上部部長、東大大学院・八田秀雄教授だった。給水シーンがテレビに映り、八田教授は「給水おじさん」として話題に。古川と八田教授の縁は熊大3年の時、近藤を訪ねて東大に来た時からだった。

「その時に1回あいさつに行かせてもらったんです。2カ月後の平塚の学生個人選手権で走ったあと、なぜか八田先生が『速かったな』とねぎらってくださって。僕が東大に来たあとも研究室は違ったんですが、廊下ですれ違うたびに『あの試合は良かったな!』と声をかけてくださってました。僕の出る試合を全部チェックしてくれていたみたいです」

箱根駅伝予選会のときも、並々ならぬ気合で古川を送り出してくれ、走り終わったあとの集合でも、開口一番「今日は古川がよくやってくれて本当にうれしい」と熱のこもった言葉をくれた。「力をもらえそうだし、お世話になったということで、八田先生と高校の先生に給水を打診しました」

2人の恩師から給水を受けた。「近藤コーチ、とも考えたんですが、秋吉と僕の走りを両方見たいかと思って」(撮影・mst)

9区を走りきり、1時間11分52秒。区間18位相当で、古川の箱根駅伝は終わった。

「当日走ったのは1時間ちょっとですけど、走る前、走ったあとも、皆さんから温かい応援をいただきました。それが本当にかけがえのない、大きなことだったと思います。箱根駅伝を走ることで学生としての最終目標は達成できましたが、結構すぐに走りたい気持ちが出てきました。やっぱり箱根の走りが悔しすぎたので、なんていうか……このままじゃ陸上終われないっていうか、まだ走り続けて、フルマラソンの記録も追い求めたいなと思っています」

4年間打ち込んできた研究についても、博士論文を提出した。「博士論文に受かる基準が『そのテーマにおいて世界で3番以内』という言われ方をするんですが、僕も『追尾走』、『人と走ることの効果』については世界で3番以内に詳しいだろうと自負しています」

1時間11分52秒、区間18位相当の走りで鶴見中継所に飛び込んだ(撮影・北川直樹)

「楽しんでもらえる研究」を続け、走り続ける

卒業後は京都工芸繊維大学の特任助教として、研究を続ける。京都には2024年のボストンマラソンで8位に入賞した森井勇磨(京都陸協)や「公務員最速ランナー」の北村友也(OBRS)など強い市民ランナーがいる。森井とは先日の東京マラソンで初めて会い、京都で一緒に練習させてほしいと声をかけたという。

研究面では、これまでは2人で走ることの影響について研究していたが、次からはランナーの集団の解析を進めていく予定だ。「マラソン大会でどの人数の集団ができやすいかとか、どのぐらいの集団のサイズだと後半のペース低下が少ないか、という基礎的な部分の解析を行っていきます」。走る人ならば興味を持つであろう、面白そうな分野だ。

「いろんな人に楽しんでもらえそうですし、僕もわくわくしています。これまでたくさん勉強させていただいたので、ちゃんと社会に還元できるように、楽しんでもらえるような研究者になりたいと思っています」

研究と走りを両立させる古川のスタイルは、学生生活が終わっても形を変えて続いていく。

渋谷スクランブル交差点の前で。次は京都で古川のストーリーが続いていく(撮影・藤井みさ)

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