9年ぶりに逃した甲子園ボウル「みんな次があると思ってた」 関西学院大RB伊丹翔栄

昨年12月の全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝・甲子園ボウルは立命館大学(関西1位)と法政大学(関東1位)の対戦となり、立命館大が勝って9年ぶり9度目の大学日本一となった。7連覇を狙っていた関西学院大学ファイターズ(関西2位)は9年ぶりに甲子園のフィールドに立てずにシーズンを終えた。準決勝の法政大戦に17-17(延長タイブレーク0-3)と敗れた。RB(ランニングバック)の伊丹翔栄(しょうえい、4年、追手門学院)はエースの走りができず、大学でのフットボールが終わった。その後数日は食事ものどを通らず、アメフトのことを考えるのも嫌でSNSも見なかったという。
「ファイターズで3回生まで日本一を3回経験させてもらいました。最後に負けたからといってすべてがなくなったわけじゃない、とは思えるようになりました」。会社員としての新生活を目前に、伊丹は笑顔でこう話す。まずは2024年のファイターズにとってのラストゲームを振り返る。

法政戦直前に強く感じた「いつもと違う」
24年シーズンから全日本大学選手権の枠組みが変わり、関西1部と関東1部TOP8のそれぞれ3位までがトーナメントに進めるようになった。初めて甲子園ボウル以外で東西対決が生まれ、関西の1位と3位校が同じ山に入った。関学はエースQB(クオーターバック)の星野秀太(3年、足立学園)がリーグ戦の関西大学戦で負傷してシーズンアウト。秋シーズン開幕と同時に公表した「大麻疑惑」でディフェンスの主力選手も出られない。あえて関西2位となり、関東勢に2回勝って甲子園に乗り込む絵を描いた。6戦全勝で迎えたリーグ最終の立命館大戦は無理をせず、ベーシックな戦い方に終始して14-24で敗れた。立命館と同率優勝だが直接対決の結果で立命が1位、関学が2位、関西大が3位でトーナメントに進んだ。
伊丹ら4年生は過去2年とも選手権準決勝で福岡へ遠征し、九州代表に大勝して甲子園ボウル出場を決めてきた。彼らにとってポストシーズンの遠征は「普通に勝って帰ってくる」という感覚の中にあった。伊丹は言う。「今回もみんな同じ感じで、遠征先に立命や関大のようなチームが待ってるという感覚とは違ったと思います」
11月23日、関学は選手権初戦の慶應義塾大学(関東3位)戦(神戸・ユニバー記念競技場)に20-7で勝った。その日のうちに大急ぎで振り返りのミーティングをして、30日の法政戦に備えた。すでに慶應戦の前から法政戦に向けての練習もしていた。何もかも異例の取り組みだった。
法政戦前日、新幹線組と夜行バス組に分かれて東京へ向かった。4限の授業があった主力選手は遅れて新幹線でやってきて、日付が変わるころに宿舎に入った。夜行バス組にはキッキングゲームのみ出場する選手も数人含まれていた。当日早朝の到着後にゆっくりする間もなく、会場のスピアーズえどりくフィールド(東京都江戸川区)に向かった。
普段は主にラグビーで使われている天然芝の会場だ。「芝生がふっかふかで、(地面は)デコボコで。結構滑りやすいってのが第一印象でした」と伊丹。関西の試合では常に応援してくれる吹奏楽部とチアリーダー部が来ていない。「もちろん来ないのは知ってたんですけど、僕はいないのが結構気になりました。というのも試合前から法政側のスタンドで洋楽がガンガンかかってて落ち着かなかったんです。『いつもと違うな。遠征なんやな』『向こうの雰囲気になってるな』と感じました。でも関係ないやろ、とも思ってました」

みんなの顔がポカンとしていた
関学オフェンスの1プレー目はパスだったが、QB星野太吾(1年、足立学園)の持つボールがフェイクバックの伊丹に当たり、手からこぼれ落ちた。自らリカバーして事なきを得たが、思えばこの一戦のふがいないオフェンスを象徴するような始まり方だった。ノーハドルで次のプレーに向かうとき、星野と伊丹がぶつかった。「浮足立ってたというか、フワフワした感覚がありました」と伊丹。最初から2シリーズ続けて攻撃権を更新できなかった。3シリーズ目にようやく敵陣へ入ったが、星野が無理して投げてインターセプトを食らった。
「みんなの顔がポカンとしてたのを覚えてます。サイドラインに戻ってきても『いける』とも思えないし、焦るというのでもない。これが立命や関大相手だったら『よっしゃ次はいくぞ』『ここからや』という声が出てきたと思うんですけど、あの日は止められてる現状に理解が追いついてない感じでした。法政の選手がすごく生き生きしてるように見えて、『やばい。波に乗せてしまった』というのが実感としてありました」
10-10でハーフタイムを迎えた。大村和輝監督から「何(のプレー)がいけんねん」と問われた伊丹は「ドローとかスクリーン系を入れてください」と返したそうだ。「いま思ったら、その選択をした時点で負けですね」と伊丹。ただ当時はそれぐらい、中のランは無理だという思いを強くしていた。「まったく(穴が)開いてなくて、ギャップも全部詰まってました。プレーの直前に向こうのディフェンスがパッとコミュニケーションをとって、DLがガチャガチャと動いてブリッツが入ってくる。それがだいたい当たりのサインなんです。アジャストされてる感覚がありました」。ブリッツが入ってくる分、後半に多用したスクリーンパスは開いたが、法政ディフェンス陣のパシュートが上回った。「試合中は苦しかったです。こんなとこで終わっていいわけがない、ってずっと思ってました。しんどかったです」
試合残り47秒、関学はRB澤井尋(関西学院)の4ydタッチダウン(TD)ランで17-17と追いつき、タイブレーク方式の延長に入ることになった。けがから帰ってきた同期の澤井が決めてくれたことで伊丹の感情が高ぶった。さらに延長のスタートを待つ間にQBの林孝亮(関西学院)、試合中のメンバーチェックを担ってくれたRBの門山真(啓明学院)、元RBでトレーナーに転じた住田先(近畿大附属福岡)ら同期の面々が「頼むぞ」と声をかけてくれた。

左オープンに出る勇気がなかった
「僕の後ろにはボールを持ちたくても持てない人がいる。いつもはそんなこと考えないのに、初めてそういう感情になって、『俺がいかな』『意地でもタッチダウンをとる』と強く思いました」。先攻の法政がフィールドゴール(FG)の3点にとどまった。後攻の関学がTDを決めれば勝ちだ。関学はエースに託した。伊丹が3度続けて持ったが大きなゲインはなく、第4ダウン1yd。同点を狙ってFGチームが出たが、プレー前に法政に反則があって攻撃権を更新。ゴール前11ydから伊丹、伊丹で第3ダウン7yd。ここで関学がタイムアウトをとる。
サイドラインに戻った伊丹に大村監督が「何で外走らんかったん?」と声をかけた。その2プレー前、伊丹に左オープンを走らせるプレーを入れていた。そして左におあつらえ向きの壁ができていた。いつもの伊丹なら左へカットを切り、エンドゾーンまで駆け抜けたはずだ。それが、法政ディフェンスが何人もいる中央へ突っ込んだのだった。「視野が狭くなってたし、あのときは少しでも下がるのがこわかった。外は走れないように見えた」と打ち明ける。監督は「次もあのプレー入れるから、外走れよ」と言った。タイムアウトが解け、第3ダウンのプレー開始。伊丹がボールを持つ。34番はまた中央へ突っ込んだ。今度は左サイドで法政のDEが縦に割ってきていて外は走れないと判断した。ただ、左には大きなスペースがあり、回り込めないこともなかった。「その勇気があのときの僕にはなかった」

攻撃権更新はならず、同点狙いのFGに。サイドラインに戻った伊丹はまた中を走ったことについて大村監督と話した。そしてフィールドに目をやるとFGが失敗し、オレンジ色のユニフォームが歓喜に沸く姿が伊丹の両目に飛び込んできた。「うわ、俺や。俺のせいや」。俺がいつものように走れてれば勝てた。その思いが心を突き上げた。
最後の整列。周りのみんなは泣いていたが、伊丹はただ呆然(ぼうぜん)としていた。MIPに選ばれて法政サイドまで表彰を受けに行ったが、ずっと無表情だった。涙が止まらなくなったのは、オフェンスコーディネーター(OC)になって1年目の梅本裕之コーチが泣いているのを見た瞬間だ。梅本コーチは泣きながら伊丹に「ほんまにすまん」と言った。
常に一緒に戦ってくれた梅本コーチ
この日の試合前、伊丹は梅本コーチとグータッチした。いつもそんなことはしない。「あ、これ甲子園でもやりたい」と思った。関学のOCという重責を初めて担って試行錯誤する梅本コーチとは、常に一緒に戦っているという思いがあった。秋のシーズンに入ると、梅本コーチは「俺は誰と心中したらええねん?」と伊丹たちに問いかけてきた。チームの運命を左右するシーンですべてを託すのは、OL・TE・RBと4年生が多く関わっているランユニットしかないやないか、と。そしてこの日、延長に入ってからのオフェンス6プレーはすべて34番に任された。だから伊丹は号泣しながらも梅本コーチに「最後、託していただいてありがとうございました」と言った。
すると高校時代の後輩が近寄ってきた。彼は日本大学に進み、廃部になったあと「有志の会」の一員として活動している。彼らがこの日のフィールド設営を手伝ってくれていて、会場にいるのは知っていた。高校時代、ずっと一緒にいるほど仲のいい後輩だった。なぜか後輩も泣いていた。「なんでお前が泣いてんねん」とツッコむと、「勝ってほしかったです」と返してきた。自分の大学最後の試合を彼が間近で見ていたことに、伊丹は縁というもののすごさを感じたそうだ。
家族と、高校から同期のDL山本征太朗と、同期のOL森永大為(関西学院)と一緒に、最寄りの駅まで歩いた。誰もほとんど口を開かなかったが、伊丹は「こういうときに一緒にいるのが親友なんやろな。ええメンツで帰ってるな」と感じていた。東京駅に集合して新幹線で帰ったが、みんな疲れきっているはずなのに寝ている人は少なく、ただ呆然としていた。左手が紫色になってひどく腫れていたことに、伊丹はしばらく気づかなかった。

勝手に抱えた「推薦ドベ」の劣等感
伊丹は大阪府池田市で生まれ育った。市立池田小学校4年のとき、友だちに「一緒にアメフトやらへん?」と誘われた。クラブチームの池田ワイルドボアーズの練習に行ってみると、足が速いのをほめられ、やめられなくなった。ワイルドボアーズでの中学時代はミスが許されない緊張感の中で練習した。「あの3年間があったから、うまくなれた」と伊丹は言いきる。中3のときには練習時間では圧倒的に不利なのに、関学の中学部にも勝った。この年度、伊丹はチェスナットリーグに所属する中学生の全選手、チアリーダーの中から1人だけ選ばれる「久保田薫杯」を受けた。学業面も含めての年間最優秀賞だ。そして大阪府茨木市にある追手門学院高校に進んだ。1学年上には関学でも先輩となるQBの鎌田陽大(現・富士通)がいた。

アメフトを始めた小4のころから、同じRBとして常に伊丹の少し先をゆく存在があった。24年度の立命館大学のキャプテンだった山嵜大央(だいち、大産大附)だ。高2の1月の「ニューイヤーボウル」では同じ大阪選抜の一員として神奈川・静岡選抜と戦った。キックオフリターンTDを含む2TDを決めた山嵜が優秀選手賞を受けた。この試合の直後に、追手門学院の同期2人が関学の関係者から推薦入試の誘いを受けた。伊丹は「とにかく強いところでやりたい」と、関学、立命、日大の順で志望していた。山嵜が立命へ進むという話を聞き、関学か日大に絞っていた。しかし伊丹には声がかからなかった。「小4からずっとアメフトをやってきたのに、高校から始めた子が先に関学や立命に決まっていって、すごい劣等感がありました」。最後のアピールのチャンスと思っていた3年の春シーズンは新型コロナウイルス感染拡大の影響で試合がなくなった。

あるとき関学から声のかかった追手門の2人がファイターズの練習見学に行くというので、いても立ってもいられず伊丹も一緒に行かせてもらった。ほんの少しだけ大村監督と話せたとき、「右しか走られへんのちゃうん?」と言われた。伊丹は何のことだか分からなかった。入学してから知ったのだが、当時ファイターズのリクルート関係者の間では「追手門の伊丹は右しか走れない」というのが〝定説〟になっていて、声をかけるのを躊躇(ちゅうちょ)していたそうだ。待ちに待ち、7月に入ってすぐ関学から声がかかった。ファイターズ独自の勉強会に最後の1回だけ参加でき、推薦入試をパスして憧れのファイターズに加わった。
入学後の伊丹は勝手に「推薦ドベ」の劣等感を抱えていた。だから最初から飛ばした。早い段階で上級生の練習に入らせてもらえるようになった。ダブルエースとして大活躍した4年生RBの前田公昭さん(現・アズワン)と齋藤陸さん(現・TRIAXIS)の日々の取り組みを間近で見て、フィジカル強化の重要性を痛感し、速くてうまくて強いランナーへと成長していった。


最終目標は日本一でなくチャック・ミルズ杯
4年生になるにあたり、伊丹はキャプテン、副キャプテンには手を挙げなかった。自分自身の最終目標を年間最優秀選手(チャック・ミルズ杯)になることに定めたからだ。最高のオフェンスをつくり、日本一になることは、その過程と考えるようにした。「チームとしては日本一が最終地点じゃないですか。だから幹部にはならなかったんです。自分に対して素直に、自分はどうなりたいのか考えて決めました。日本一になるためだけにフットボールをやってるんだったら、守りに入ったり、無難なプレーで終わってしまう。そうやって4年目にパフォーマンスが落ちる先輩をいっぱい見てきました。絶対にそうなったらあかんと。4年目もちょっとずつ上がっていけたと思ってるので、そこはよかったと思います」
ファイターズには試合での活躍をコーチが評価した選手に与える「プライズマーク」という黄色い星形のシールがある。関学の選手がヘルメットに貼っているシールといえば、「ああ、あれか」となる人も多いかもしれない。伊丹は4年間で84枚のプライズをもらった。同期では最も多かった。4年間で一度もけがで試合を欠場することなく、努力を積み上げてきた結果だ。
伊丹は4年間のベストゲームに昨年10月26日の関大戦を挙げる。前年のリーグ最終戦で負けた相手に31-15でリベンジした。ランで279ydゲインと関大ディフェンスを圧倒。伊丹は16回ボールを託され、162ydの前進で1TD。試合を通じて34番の気迫がほとばしった。ぶち当たってタックルを外し、決して足を止めなかった。タックルされて立ち上がるときには何度も叫んだ。そして試合後の囲み取材で、前年の関大戦で走れなかったことを思い出し、涙を流した。「あんなに感情の高ぶったのは人生で初めてだったかもしれません。いろんな人の思いを背負ってやってる感覚がありました。関大相手に何も隠すことなく全部出して、ほんまに楽しかったです」

最終目標に据えたチャック・ミルズ杯は小学校のときからのライバル、山嵜大央のものとなった。「あれだけ注目されて努力してても、ダイチは大学3年まで報われてなかったじゃないですか。アイツが最後に報われてよかった。最後に勝つのがアイツでよかったかなと思います。全然ファイターズっぽくないことを言いますけど(笑)」
「山嵜大央を超える」宣言は幻に
関学の4年生は例年、立命戦と甲子園ボウルの前夜に同じ宿舎に泊まって大一番にかける思いを語り合い、当日はバスで会場入りする。24年は関西2位を狙いにいったため、恒例の前泊をしなかった。伊丹は同期たちの前で「俺は明日山嵜大央を超える」と宣言するつもりだった。史上初の関西勢対決となる立命との甲子園ボウルもなくなり、宣言は幻となった。
「僕らはビッグゲーム前の『ファイトオン』も歌わず、前泊もせずに引退する代になってしまいました。法政戦の前の練習が自分たちのファイターズとしての最後の練習だったと考えたら、絶対にあんな練習じゃよくなかった。やっぱり全員が『まだ次がある』と思ってました。そう思ってたから、こうなってしまったんです。法政に勝って帰ってきて、2週間で立命と真っ向勝負ができると思ってました。悔しいです」
2024年のファイターズに関わった人すべてがそれぞれの思いを胸に、次の一歩を踏み出していく。伊丹はまだまだ走り続ける。

