アメフト

特集:第79回甲子園ボウル

衝突し、怒鳴り、芝居も打って引っ張った 立命館大キャプテン・山嵜大央の一年

「俺は最後まで文句言うぞ。ディフェンス35点は取られすぎや!」(すべて撮影・北川直樹)

アメリカンフットボールの全日本大学選手権は12月15日、阪神甲子園球場で決勝の甲子園ボウルがあり、立命館大学パンサーズ(関西1位)が45-35で法政大学オレンジ(関東1位)を下し、9年ぶり9度目の学生日本一に輝いた。口うるさくて衝突をいとわないキャプテンだったRB(ランニングバック)の山嵜大央(だいち、4年、大産大附)は、就任1年目の高橋健太郎監督(43)という最高の理解者とともに、パンサーズを9年ぶりの頂点へ引っ張り上げた。年間最優秀選手と甲子園ボウル最優秀選手に輝いた山嵜に、波乱の一年を振り返ってもらった。

昨年のファンブルロストがきっかけでキャプテンに

準決勝の早稲田戦のあとに泣いて、「甲子園ボウルは笑って終わると決めてるんで」って言いましたけど、今日も思いっきり泣いてしまいました。試合終了の瞬間まで、ほんとに分からない試合でした。でもこうやって日本一になれたんで、僕たちのやってきたことが間違いじゃなかったと証明できた。それがうれしいですね。個人の力としては代々のチームより下だったかもしれないですけど、高橋健太郎監督の力が偉大だったから、9年ぶりの日本一まで来られたと思ってます。

「甲子園では笑って終わる」と言っていたのに号泣

キャプテンになろうと思ったのは、去年の秋の関学戦でのファンブルがあったからです。オフェンスの最初のプレーでファンブルロストして、試合の流れを手放してしまいました。あの日、僕はいつもの22番じゃなくて、高校時代の18番に変更して関学に挑みました。高校を卒業するころから、18番を着けて関学に勝って甲子園に行くって決めてたんです。叔父で高校時代の監督だった山嵜隆夫先生が現役時代に着けた番号でもあって、僕の原点である山嵜先生を背負って走るつもりやったんですけど、うまくいかなかった。チームを負けさせて、去年の4回生の人生を壊してしまった。

去年のシーズンが終わっていろいろ考える中で、自分が一番チームに迷惑かけたんだから、自分がチームを変えたいという気持ちが日に日に大きくなりました。新4回生のミーティングでキャプテンにふさわしい部員の投票をして、いまのキャプテン、副キャプテンの4人の名前が出ました。それで2回生以上の全員に4人から投票してもらったんです。僕は最下位でした。大谷と森本の票が多かったです。

そこから4回生の間でいろんな話をしながら決めていこうとするんですけど、なかなか決まらなかった。例年は2月の初めには決まるんですけど。最終的に3月末、4回生だけの投票で僕に決まりました。それまで毎日のように話し合ってて、僕は去年のファンブルの話もしましたし、自分は全部犠牲にしてこのチームを勝たせるという話をしました。自分がやって勝たせる、というのはブレなかったです。いざ決まると「ほんまになってもうた。ちゃんとまとめられるんかな」と思いましたね。結構アホなんで。ただまあ、自分らしくまとめようとは思いました。

小学3年生で始まったアメフト人生、次は富士通フロンティアーズで走る

「キャプテンらしいキャプテンじゃ嫌やな」

最初は去年の山下憂さんのようにポジティブな声かけをしてたんですけど、防具を着けた練習が始まってから、「これでいいんかな」と思ってきて。ほんまの自分も出されへんし、「キャプテンらしいキャプテンじゃ嫌やな」と思って。キャプテンだけど自分を出そうと決めたから、衝突も多かったですね、今年は。言いたいことも言うし、って。シーズンが進むにつれて、僕もヤイヤイ言いましたし、後輩からかみついてくるヤツもいましたし。

大きな衝突は僕の中で二つあって、5月の終わりごろ、高橋監督がスタッフから選手へ転向する部員を発表したときでした。前から健太郎さんはそういう方針を話してて、ミーティングで発表したんですけど、結構チームが荒れました。スタッフに転向する選手もいたし、その方針に反対してチームを去る選手も出ました。とくにDB(ディフェンスバック)の選手が多く関係してたこともあって、DBの何人かが次の日の練習をボイコットしたんです。ボイコットしたのが4人いて、ただ休めばいいのに「体調不良で」ってウソついたんで、僕もキレてしまって。

4人を集めて向き合って、結構ボロクソ言ったらみんな泣き出して。でも2年生の藤岡だけが僕にかみついてきました。僕が「何か結果残したんか、まだ2回やのに調子こくなや」って言ったら、「お前も関学戦でファンブルしてたやろ」って。確かになと思って。僕がファンブルして負けたのに、そういうキツいこと言ってくれる人がいなかったんで、イラっときたんですけど、うれしかったというか。もともとアイツとは仲よかったんですけど、それでまた仲よくなりました。

記者会見のたびに気の利いたコメントを準備してきてくれた。スポーツ紙では「名言マシーン」と呼ばれた

もう一つが秋の関学戦前です。試合まで2週間あるんで、1週目はネガティブにいこうと思って、指摘しまくってキレまくったろうと思ってたんです。あまりにもディフェンスがスカウトオフェンスにやられるんです。3軍、4軍の選手がどんどんパスを決めるんで、「DBが穴って言われてるのにやばいやろ」と思って、3年生の今田にキレたんですよ。コーチもいる前で声張り上げてキレたんです。言い合いになって、うっとうしかったんで練習終わってから呼んで、またキレまくって。あいつも言い返してくるからうっとうしくなって、壁か何か殴ったら、すごい音がしたみたいでみんなが集まってきたんです。

そういうのがあったからこそ、いまチームに一体感が出てると思います。去年までは思ってることも言えない感じになってたんで。キャプテンの山下憂さんが「言いたいことあったら言えよ」って言ってくれるんですけど、たぶん山下さん自身が言いたいこと言ってなかったんですね。すごくチームのバランスを大事にする人で、波があったらアカンと思ってはったんで。僕はもう結構激しい波が何回もあったけど、そんな感じでまっすぐぶつかって、いつの間にかここまで来ました。

寒そうに甲子園球場入り。いつでも気持ちのいいあいさつをするのが山嵜大央だ

「俺はもうあきらめた」に込めた真意

ハドルでみんなに言うことは、前もって考えてました。秋のリーグ戦で関大に負けて、ほんまは甲子園ボウルの前に言おうと思ってたことを関学戦前に言いました。「負けたら大事な人が去るよ」という話です。古橋監督とか長谷川昌泳さんだけじゃなく、いろんな人がこの3年間でやめたんですよね。だから勝とうと。今年の4回生は3人の監督と一緒に過ごしました。すごい代だなと思います。いろいろあって三つのチームを経験した中で日本一になったのは、誇らしいことだと思ってます。

ほかには小学生のころにコーチから「ボールにはいろんな人の思いがこもってる。だから絶対落としたらアカンで」と習ったんで、それを自分の中でアレンジしながら言いましたね。そもそもバックスしかボールを持てないじゃないですか。ディフェンスが必死に止めて、オフェンスラインは必死にブロックしてるし、スタッフも死ぬ気でやってると思うから、「俺が持つボールにみんなの思いをこめてほしい」って。「そのボールを俺はエンドゾーンに運ぶ」っていう話もしました。

関大に負けたあとは、前代未聞なこともしました。キャプテンはチームを盛り上げるためにいろいろ考えるわけじゃないですか、僕は逆をやりました。関大戦の2日後のミーティングで「日本一はあきらめた」って言ったんです。高橋監督にも言わないままやりました。「俺はもう冷めたわ。関大に負けたチームが日本一になる資格もないし、このままいっても関学に負けるから、もう日本一はあきらめるわ。来年のためにやってくれや」って。全然そんなこと思ってないんですけど、わざと士気を下げるようなことを言いました。

このチームはキャプテンや副キャプテンだけが頑張ってるという状況が続いてる気がしてました。今年も基本的には変わってなかった。だから今回も僕が盛り上げるようなこと言ったら、何も考えへんチームになってしまうんちゃうかなと。わざと突き放したろうと思って、やりました。関学戦まで1カ月あったんで、もしこの作戦がうまくいかなくても、立て直せる時間はあると思ったんで。実際に言ったとき、健太郎さんが涙を流して、「ダイチにこんなこと言わすなよ」って言ってくれました。

大好きな高橋健太郎監督と握手し、抱き合った

もちろん反発も食らって、「あんなんキャプテンやったらあかんやろ」「何考えてんねん」って声が伝わってきました。みんなをだましたんで、あのときは苦しかった。2週間後の京大戦前日に明かしました。本当の思いを隠して見てるだけの2週間はつらかったですね。それでも、だんだんとキャプテン、副キャプテンでないところから士気を上げようとする動きも出てきて、転機になったとは思ってます。

神様が味方してくれた独走タッチダウン

健太郎さんは甲子園ボウル前の記者会見で「春の関学戦で引き分けたところで、学生たちが『このオッサンについていってもええんちゃうか』となったと思ってます」と話したそうなんですけど、僕はもう最初のころから信頼してました。何か僕に似てるな、と思って。アツさというか、熱の部分ですね。健太郎さんみたいに熱を持った方がチームにいなかったのも事実だったんで。

フットボールを始めた小学3年生から今年までのフットボール人生を振り返ってみて、運命が決まってたというか、こういう運命やったんやと思いますね。僕は日本一になる前の試合で負けてきました。高3の関西大会決勝にはけがしてて出られずに負けて、去年の関学戦は自分のファンブルで負けて。フットボールの神様から「いまじゃない」って言われてる気がして。昌泳さんが産大高校へ行って、ラストイヤーで健太郎さんが来て。こういう運命やったんやなと思いますね。

今日のファーストプレーで60ydの独走タッチダウンができました。あれこそフットボールの神様が味方してくれたプレーでした。エンドゾーンまで走りきったとき、夢か現実か分からないような感覚でした。あれも決まってた運命なんですかね。日本一になれたから、僕の物語も最終回ですね。ずっと見守って、支えてくれたすべての人に感謝します。ありがとうございました。

最初のプレーでの独走タッチダウン。山嵜が「ウチのスタッフはあんまり喜んでくれない」と言っていたが、大はしゃぎだ

in Additionあわせて読みたい