フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years.2025

武蔵野美術大・関芙実香(上)、0から1を作り出す 氷上競技部立ち上げインカレ出場

武蔵野美術大学4年の関芙実香は「卒業までにアイスショーをつくる」と目標を掲げた(本人提供)

武蔵野美術大学4年の関芙実香(ふみか、国府台女子学院)は卒業制作としてアイスショーを自主制作し、その体験価値をテーマに取り上げた。大学入学時に「卒業までにアイスショーをつくる」と宣言し、4年をかけて実現させた一大プロジェクトだった。関のスケート人生や卒業制作に込めた思い、今後の夢について前後編で紹介する。前編ではスケートとの出会いから初の全日本学生選手権(全日本インカレ)出場までを振り返る。

氷上で表現することが大好きに

11月24日、三井不動産アイスパーク船橋(千葉県船橋市)で自主制作のアイスショー「アイシグラ」が開催された。出演者は競技を引退した若手スケーターを中心とする21人。決められた振り付けはなく、テーマや曲、構成などのインスピレーションから、それぞれが即興の身体表現で魅(み)せた。

「アイスショーを誰でも創れるように」

関はその願いを込め、発案から開催までの体験価値を卒業制作として発表した。

関がスケートに出会ったのは5歳くらいの頃。富士急ハイランドのリンクで滑ったのが始まりだった。千葉県浦安市の自宅からアクアリンクちばのスケート教室に通い始めた。母親がスケートを見たり滑ったりするのが好きで、関もスケートにハマっていった。

小学4年生の時、江戸川区スポーツランドに移籍し練習に励んだ。しかし競技会に興味は湧かず、ブロック大会出場や全国有望新人発掘合宿(通称・野辺山合宿)参加といった目標はなかった。「第一線でいられないと心が折れてしまう選手はたくさんいると思います。中学校でやめてしまう選手を何人も見てきました。私は良くも悪くもその苦労を経験しなかったので続いたのかなと思います」

40年以上の歴史があるアイスショー「プリンスアイスワールド」出身の船橋篤史、戸谷香の両コーチに習い、アイスショーような氷上で魅せる、表現することが大好きになった。

元選手が中心になって出演したアイスショー「アイシグラ」(撮影・ナギー)

スケートは私のアイデンティティー

両コーチが埼玉アイスアリーナに拠点を変更するのに合わせて関も移籍した。自宅からリンクがある埼玉県上尾市まで片道2時間。母親が車で送迎しサポートしてくれた。午前6時から45分間の早朝練習に参加して学校に向かうときもあった。

そのリンクでは、全国大会に出場している大島光翔(明治大学4年、立教新座)のパフォーマンスに刺激を受けた。中学校時代に師事した蛯名秀太コーチ、後に指導を受けることになる大島淳コーチもプリンスアイスワールド出身で、関はアイスショーの世界を強く志すようになった。

中学校では図画工作のコンクールに選出されるなど芸術の才能を見せ始めていた。

美術大学を目指すと決めたのは中学2年生の頃。東京ディズニーリゾートでの職業体験がきっかけだった。「パーク内のメンテナンスで果物のオブジェを絵の具で塗る体験があって、その仕事に就きたいと思いました。そのための出願条件が美大に行っていることだったので決めました。何かをクリエートすることは生まれつき好きで、母親からも美大に行きなさいって言われていました」

国府台(こうのだい)女子学院高等部の美術デザインコースに進学し、芸術の道を歩み始めた。課題が多く、勉強と練習の両立には苦労したが、スケートが好きな気持ちは変わらなかった。

自分自身が満足のいくレベルでスケートを続けられる大学を探し、リンクへの通いやすさなどから武蔵野美術大を選んだ。得意なものづくりをアピールできる総合型選抜で受験。面接ではスケートが自分のアイデンティティーの1つであることを伝え、現役合格を果たした。

氷上で表現することが大好きになった(本人提供)

「卒業までにアイスショーをつくる」

関には大学入学時から大きな目標があった。それは「卒業までにアイスショーをつくる」ことだった。

武蔵野美術大にスケート部はなかったため、まずは全日本インカレ出場を目指し、部活動の立ち上げから始めた。「なかったら作ればいいと思っていました。0から1をつくろうとするのはクリエイター精神なのかもしれません」

だが想像以上に困難な道のりだった。コロナ禍で部活やサークルの新設がストップ。何度も大学に掛け合ったが取り合ってもらえなかった。「大学に運動部が少なく、体育会という組織もなくて。学生スポーツをわかってくれる人に出会えず諦めかけたときもありました」

そうこうしている内に東日本学生選手権(東インカレ)の申込期限が過ぎ、全日本インカレへの道は途絶えた。途方に暮れていたとき、大学同期のつながりでアメフトをやっている先輩と出会い、身体運動文化研究室の森敏生教授(体育教育学)を紹介してもらった。「半年かかってやっとこの大学でスポーツをわかってくれる人に出会いました」と振り返る。

しかし、部員数や活動実績などを条件に創部まで3年かかると聞き、関は焦った。「3年も待っていたらインカレに間に合わない」。すぐ行動に移し、インカレ出場という目的を理解してもらうために関係者を説得して回った。森教授の力添えもあり、なんとか年内に氷上競技部の新設までこぎつけた。

「美大は自由な環境だからこそ厳しいんです。いままでなかったもの、概念がなかったものを認めてもらうのは本当に大変でした。でも諦めなくてよかったと思います。自分で活動する学生が多いムサビという環境だったからこそ、モチベーションを保ち、達成できたことだったと思います」

武蔵野美術大では多彩な才能と出会った(本人提供)

氷上競技部で初めての競技会

初めての学生競技会は2022年6月にKOSÉ新横浜スケートセンターで行われた関東学生有志大会だった。会場には大学の友人たちが応援に駆けつけてくれた。

演技前に選手名がコールされ、「武蔵野美術大学」の校名が会場に響き渡った。関は感極まった。「ムサビだぞ、美術大学だぞって。いまでも思い出すと泣きそうです」

3分半のフリーで「パイレーツ・オブ・カリビアン」を精いっぱい演じ切った。「ないものつくって、ムサビのスケート部を見てもらえた。すっごくうれしかったです。帰りに母が運転する車の中でびしょびしょに泣きながら、なんて自分は幸せ者なんだろうって何度も連呼していました」

同年10月の東インカレにも初出場した。関は6級女子で第1滑走ながら5位に入り、全日本インカレ進出を決めた。

2023年1月、北海道苫⼩牧市で行われた全日本インカレは、氷上競技部として初めての遠征、初めての全国大会だった。関は12位に入り、部の歴史に輝かしい1ページを刻んだ。

「卒業までにアイスショーをつくる」と宣言してから約2年。目標にまた一歩近づいた。

【続きはこちら】武蔵野美術大・関芙実香(下)、アイスショーを卒業制作に「新たな選択肢を創りたい」

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