慶大・丸田湊斗(上)森林貴彦監督の助言で意識が変わり「別人」打者になった最後の夏
昨夏の第105回全国高校野球選手権大会で、107年ぶり2度目の優勝を果たした慶應高校。不動の1番バッターとして快挙に貢献したのが、慶應義塾大学の丸田湊斗(1年)だ。仙台育英高校との決勝で、史上初となる初回先頭打者ホームランを放った姿は記憶に新しい。栄冠までの道のりを丸田に聞いた。
新チーム結成直後に大けが、スライディングは全部頭から
「あの夏」の歓喜からもうすぐ1年。丸田は静かに振り返る。
「一生の思い出ですね。全国制覇は自分たちの功績だと思ってます。でも、それを自信の根拠にはしたくない。思い出くらいにとどめておきたいです」
丸田たちの代が新チームを結成した時、旧チームからのレギュラーはショートの八木陽(現・慶應義塾大1年)だけだった。未知数だったことに加え、期待されていた1学年上の代に比べると、評価は少し低かったようだ。そのチームが春夏連続で甲子園に出場し、夏は優勝を遂げた。改めて高校生の可能性は計り知れない。
丸田は新チームでレギュラー定着を目指した。2年春からベンチ入りしたが、この年の夏までは外野手の控えだった。新チームで定位置を手中にしてすぐ、アクシデントに見舞われた。8月の合宿最終日に大きなケガをしてしまったのだ。
「スライディングで左足の内側側副靭帯(じんたい)を損傷したんです。なんとか手術は免れましたが、そこからはリハビリの毎日。秋の大会に向けた練習試合にも出られませんでした。これほどの大きなケガは初めてだったので、ショックでしたね」
秋の神奈川大会から復帰したが、足からのスライディングはできなかった。「確か、全てヘッスラ(頭から)でした」。それでも秋の公式戦、出場した8試合でチーム最多となる6盗塁をマーク。練習試合を含めた秋の26試合では14の盗塁を成功させた。左足をかばいながらも、持ち味のスピードを発揮し、関東大会ベスト4進出の原動力となった。
バッティングでも公式戦で打率3割をマークしたが、本人にとっては満足いかなかったという。チーム打率が3割9分3厘だったのもあり、「1番打者としてもっと率を上げないと、と思ってました」と回想する。
丸田はこの時点で、チームの中でも特別な存在ではなかった。5年ぶり10回目となる選抜大会への出場は決まったが、クローズアップされていたのは清原和博氏の次男・勝児だった。清原は秋の公式戦で打率4割、14打点を挙げていた。
明治大学・飯森太慈のような打者をめざして
昨春の選抜は、丸田にとって夢の舞台だった。「甲子園は自分が行ける場所だとは思っていなかったので。来てしまった、ここか、という感じでしたね。フワフワしてました」
初戦の2回戦でぶつかったのは、前年夏の優勝校・仙台育英。延長10回タイブレークの末、サヨナラ負けを喫した。試合時間は2時間39分。高校野球の試合の中では長い方だったが「あっという間に終わってしまいました」と丸田は言う。
仙台育英との差を感じる試合にもなった。「自分たちは仙台育英のレベルに達していないと、思い知らされました」。自身も4打数無安打。初めての甲子園は悔しさしか残らなかった。
「丸田、ちょっといいか」。森林貴彦監督から呼ばれたのは、打撃の調子が上がらずに春の神奈川と関東大会が終わり、夏に向けた練習をしていた日だった。森林監督は普段、選手に任せることが多く、あれこれと伝えることはしない。この時の丸田は、そこまで看過できない状態だったのだろう。
「森林さんからは明治大学の飯森太慈選手(4年、佼成学園)のような、『率を残せて足も使えるトップバッターになってほしい』と言われ、飯森さんの動画を見せてもらいました。出塁率が上がれば、足も生かせる、という話もしてくれました」
丸田はそれまで長打力を高めることに注力していた。「コーチからの指導で、右足を上げるタイミングを早くしたところ、それが自分に合っていたんです。始動を早めたことで、軸足にしっかりと体重が乗るようになり、ボールを呼び込んで打てるようになりました」
しかし、長打への意識は打撃を狂わせる面もあった。
森林監督からのアドバイスを受け、丸田は出塁に意識を置くようにした。メンタル面も変わった。「自分が打ちたいという気持ちがなくなったわけではありませんが、たとえ打てなくてもチームが勝てばいい、と思えるようになったんです」
躍進の要因は、日替わりヒーロー誕生の「勢い」
迎えた最後の夏。丸田は春までとは別人のような打者になっていた。神奈川大会でチーム最多の15安打をマークし、うち7本が長打。意識とメンタルが変化したことで余計な力が入らなくなり、潜在的にあった長打力を発揮できたのだろう。打率もチームトップの6割2分5厘と高い数字を残した。
「こんなに打てたのも、これほど調子の良い状態を長く保てたのも、初めてでした」
慶應は全国有数の激戦区である神奈川を制し、春夏連続の甲子園出場を決めた。記念大会の北神奈川大会優勝を除く単独で神奈川代表になったのは、61年ぶりのことだった。丸田は要因の一つに「勢い」を挙げる。
「毎試合、活躍する選手が違いましたからね」
横浜高校との決勝では八回を終えた時点で2点をリードされていたが、もちろん誰も諦めていなかった。すると九回、渡辺千之亮(せんのすけ、現・慶應義塾大1年)に逆転3ランが飛び出した。「千之亮のあのホームランは、たまに動画で見返すんですが、何度見ても鳥肌が立ちます」。この時、丸田は二塁にいた。
夏の甲子園出場にあたり、チームに「まず1勝」という考えはなかった。「もともとの目標が日本一だったので、そこは変わらずでした」。選抜で無安打に終わった丸田も「まず初戦で甲子園初ヒットを打ちたい」とは思っていなかったという。
とはいえ初戦、北陸との2回戦で2安打2打点をマークできたことは大きかったようだ。丸田は甲子園に入ってからも好調を維持していた。