関西学院大キッカー楯直大 最後のキックを外した俺に、親父は「胸を張れ」と言った
アメリカンフットボールの全日本大学選手権は12月15日の決勝・第79回甲子園ボウル(兵庫・阪神甲子園球場)を残すだけとなった。初めて関東勢同士、関西勢同士の対決となる可能性もあったが、立命館大学パンサーズ(関西1部1位)と法政大学オレンジ(関東1部TOP81位)の東西対決となった。7連覇を狙った関西学院大学ファイターズは、準決勝で法政大にタイブレーク方式の延長の末に敗れ、9年ぶりに甲子園ボウルへたどり着けずにシーズンを終えた。この試合の最後のプレーとなった関学のフィールドゴール(FG)を蹴ったのは、4年間のほとんどを日陰で生きてきたキッカー兼パンターの楯直大(たて・なおひろ、鎌倉)だった。
昨年の甲子園ボウルでは「神パント」も
まさか、彼をこういう形で書くことになるとは思わなかった。彼を意識したのは珍しい名字がきっかけだった。2年生になったころ、「楯って人、たしか神戸大学にいたな」。私はそう思って関西学連事務局長の廣田光昭さんに尋ねた。それで、1995年度にレイバンズの主務だった楯知久さんの息子だと分かった。彼が活躍したら、お父さんを絡めたストーリーを狙えるなと思った。コントロールパントが得意で、昨年の甲子園ボウルでは相手オフェンスに自陣1ydからのオフェンスを強いる「神パント」もあったが、圧勝の中ではかすんだ。4年のシーズン終盤になっても、楯に日が当たることはなかった。
立命館大学戦の前に会ったとき、彼に「全部終わったらちゃんと取材して書くわ」と伝えた。彼は「ほんまっすか。何か考えときます」と言って笑った。日陰の存在でもやりきったキッカーとして「駆け抜けた4years.」のコーナーで書こうと思っていた。それが、だ。選手権準決勝の法政大戦の朝、関学の公式戦の先発メンバー表に初めて楯直大の名があったのだ。
私は試合開始2時間前の午前10時に会場のスピアーズえどりくフィールド(東京)に着くと、すぐ楯に会いに行った。関学側のベンチに向かうとき、大村和輝監督が向こうから歩いてきた。私が「楯、いくんですね」と言うと、「ああ、ちょっと大西がねえ」と返した。ずっとキッカーのスタメンを張ってきた大西悠太(3年、関西学院)は、1週間前の慶應義塾大学戦でFGを2本とも外し、PAT(ポイント・アフター・タッチダウン)のキックも1本外していた。大村監督の言葉は、大西の調子が戻らないことを示唆していた。楯に「ビックリしたで」と話しかけると、彼は笑ってから言った。「準備はできてます。ただV(1軍)の試合でFGを蹴るのが春の慶應戦以来なんで、最初は緊張すると思います」。こっちまで緊張してきた。
蹴った瞬間「ちゃんと当たったな」
ともにオフェンスが決めきれず、0-0で第1クオーター(Q)を終えた。第2Qに入ってすぐ、関学にFGのチャンスがきた。スナッパーはQBの柴原颯斗(4年、啓明学院)、ホルダーはWRの坂口翼(4年、関西学院)。そして楯。4年間で数えきれないほど合わせてきた三人だが、公式戦で組むのはこれが初めて。楯は予想通り緊張したそうだが、31ydを蹴り込み、先制点を奪った。前半を10-10で終え、勝負の後半へ。第4Qに入ってすぐ、法政に勝ち越しのタッチダウン(TD)を許し、10-17となった。関学サイドにとってジリジリする展開の中、ようやく残り47秒で関学が1点差に追い上げるTD。楯がPATのキックを決めて追いついた。そのまま17-17で第4Q終了。甲子園ボウルへ進むチームを決めるため、タイブレーク方式の延長戦に入ることになった。
お互いにゴール前25ydからオフェンスをスタートし、点差がついた時点で終了だ。法政は1回表のオフェンスでTDを決められず、FGでの3点にとどまった。後攻の関学はランを3回続けて第4ダウン2ydとなった。同点のFGを狙い、楯がフィールドへ。するとキック直前に相手の反則があり、5yd罰退。再び関学オフェンスが出ていったが、3回のランで5ydしか進めず、また楯の出番となった。いつも通りボールから7ydのキック地点を歩測した。その直後に審判がボールを動かしたので、改めて歩測した。楯は極めて冷静だった。中央やや左からの23ydのFGだ。
「ちょっと斜めだな、ぐらいの感じで、試合の最初のFGに比べたらかなりリラックスして入れました。あとから動画を見たら、セットしたときに両手をプルプルさせてたし、いつもと何も変わらなかったですね」。楯がそう振り返る。相手の観客席からのクラウドノイズも、練習で対策済み。一切気にならなかった。
当たりはよかった。「蹴った瞬間、ちゃんと当たったなと思いました。でも顔を上げたら思ったより左にいってて。完全に外れたとも思わなかったですけど、Hポールのだいぶ上で、よく分からなかった。そしたら審判が前に出てきて……」。左のポールの下で見ていた審判が失敗のジェスチャーをした。延長は0-3で法政の勝ち。関学の2024年シーズンが終わった。
最初は何が起こったのか分からなかった
楯には何が起こったのか分からなかったという。なぜか右足に異変を感じた。「座り込んではなくて、歩いてサイドラインに戻ったんですけど、右足が動かなくなってて。固まってしまってちゃんと歩けてなかったんですけど、流れのままに整列の場所まで行って。何が起きたか分からなくて、涙も出ないし、校歌も唄えない。僕のちょうど前にキャプテン、副キャプテンの4人が並んでて、(永井)励が声を絞り出しながら唄ってるのを見て、『ああ』と思って。口を動かすんですけど声が出なくて。観客席に向かって礼をしたら頭が上がらなくなって。どうやって上げたのかも覚えてないです」
「ハドルをして監督と励がしゃべったと思うんですけど、何も覚えてなくて。そのあと4回生の集合写真を撮る場所へ誰かに連れられて行って、でもどんな表情もできなくて。そのあと各パートの4回生同士でしゃべってましたけど、キッカーの4回生は僕だけだから一人で立ってて。そのあとみんなが来てくれて、いろいろ言ってくれて、やっと『俺が外して負けたんや』と分かって、ウワッという感じでした」
西宮に戻るために新幹線に乗ると、早々に周りの同期たちが楯をイジり始めた。愛のあるイジリであるのは分かっていたからありがたかったが、話が途切れると一人でボーッとしていた。眠ったり、起きてまた試合の最後を思い出したり。「DMでいろんな人が連絡をくれてて、何も言わないとめちゃくちゃ心配されるだろうなと思って、全員に返信しました」
下宿に戻り、観戦に来てくれていた父と電話で話した。「お前にアメフトさせてよかった。体重が60kgもなかった初心者が最後にあそこに立てるまでに成長して。これがどんだけすごいことか。お前、胸張れよ。前向けよ」。楯は泣いた。泣きに泣いた。
サッカー部に入れず、父の勧めでアメフトへ
横浜市内で生まれ育った楯はサッカー少年だった。高校選手権の神奈川県予選を観戦に行って、県立鎌倉高校の頑張りに心を打たれた。このチームでサッカーを続けたいと思った。自由な校風も、七里ガ浜というロケーションも気に入って受験し、合格。片道1時間45分もかけて通った。ボランチやアンカーでプレーしたが、2年生の秋に右ひざを痛め、約1年間はサッカーができなかった。
大学でもサッカーを続けるつもりだった。しかし関東の強い大学のほとんどはスポーツ推薦でないとそもそも入部できない。そんな中、数々のプロを送り出している関西学院大学のサッカー部は、スポーツ推薦がなくても、入学後に走力テストをパスしさえすれば入れると知った。楯は指定校推薦で関学の文学部に進んだ。
そしてサッカー部の走力テストに臨んだ。持久走には自信があったが、短距離走は苦手だ。ゴールからゴールまでの105mを16秒で走って44秒で戻ってくるのを10往復というインターバル走で脱落し、入部はならなかった。その日の夜に電話で父に相談すると、かつて同じように神奈川から関西へやってきてフットボールを始めた父は「アメフトやれや。ボール蹴るんやったら自信あるやろ?」と言われた。その翌日にはアメフト部に電話して、練習を見学させてもらった。そのとき、4年生のキッカーだった永田祥太郎が話を聞いてくれて、背中を押してくれたのが決め手になって入部した。
「同期で僕が最後に入ったんじゃないですか? 4月末か、5月に入ってたかもしれないです」と楯。フレッシュマンがみんなで取り組むトレーニングも終盤に入っていた。楯が苦しんだのが筋力トレーニングだ。当時は体重が57kg(現在は身長172cm、体重75kg)で、ベンチプレスは50kg、スクワットは100kgが上がるかどうか。ベンチ100kg、スクワット150kgが上がるまでは防具を着けた練習には入れないというルールがあった。「スクワットはまだよかったんですけど、モチベーションの問題もあってベンチプレスが上がらなくて。しかも手首にガングリオンができちゃって」。1年生の秋シーズンは背番号をもらえず、試合ではスタンドのスポッター席からフィールドまで、分析内容が書かれた紙を運ぶ役割をしていた。練習ではひたすらにボールを蹴っていて、リーグ戦を見てようやく、FGがスナップ、ホールド、キックという流れなのだと知った。最初に出場したのが1年生の冬、関西大との控え組同士の試合(JV戦)。PATを2本決めた。
最上級生となり、キッキングチームのリーダーに
2年生になると高校時代から活躍していた大西悠太がフレッシュマンとして入ってきた。4年生の福井柊羽がスターターで、2番手が大西になった。そこからの2年間、楯なりに正確性と丁寧さだけは負けないようにと努力を積み重ねてきたが、試合が決まってからの出番がほとんどだった。
昨冬、関学は史上初の甲子園ボウル6連覇を達成し、楯らの代が最上級生になった。キッキングチーム全体のリーダーとなった楯は冬から春にかけて、新4年生のミーティングで「詰められた」という。「僕がこれまで同期の選手たちとはあまりコミュニケーションを取ってこなかったので、『何をしてるのか分からん』というのが一番でした。(分析を担当する)AS(アナライジングスタッフ)のみんなとはよく話してたんですけどね。リーダーとして、どうしてもキッキングがオフェンス、ディフェンスの次になってたのを変えたいという思いを伝えたんですけど、しゃべるのがうまくなくて、ちゃんと伝わらなくて。それで『お前はキック何%決めんねん』って言われたときにムキになって『100%決めたるわ』って言い返しました。いろいろ言われたんですけど、見返したると思って。自分のキック自体もそうだし、キッキングとして見返したろうと思ってました」
まだまだいろんなことを吸収したいと、1年生のときからお世話になってきたジャパン・キッキング・アカデミー(JKA)代表の丸田喬仁さんのクリニックに参加したり、Xリーグ・パナソニックのスペシャリストの人たちとも一緒に練習させてもらったりした。4月20日、春シーズン初戦の慶應戦ではV戦で初めてスターターで出た。自分なりに自信を持って臨んだが、打ちのめされた。40ydのFGは決めたが、22ydは外し、PATも1本外した。「ラッシュの激しさが想定できてなくて、自分のテンポで蹴れてなかった。めちゃくちゃでした」
次の試合は5月4日のアメリカ遠征、南オレゴン大学戦。当日のアップの途中までスターターの予定が、急きょ大西に変わった。楯は1プレーも出られなかった。試合後、悔しさにまみれていると、南オレゴン大のキッカーの選手が楯に「お前はいいキッカーだから」と慰めてくれた。一緒に練習したとき、強い追い風を受けながらではあったが、60ydのFGを決めたのを覚えていてくれた。「ショックだったけど、彼の言葉でまた頑張ろうと思えました」
一番緊張した夏合宿のFG
楯は最後の夏合宿を心に刻んでいる。「100%決めるって言ったのに春にいい結果も出せず、キッキングリーダーとして信頼されてないし、勝敗を決めるキッカーとしてまだまだいろんなものを背負えてない」。そんな思いを抱えながら臨んだ夏合宿。練習の最後のメニューがFGで、チーム全員に見られて蹴った。大西のキックが決まらない。楯も決められない。「何しとんねん」。厳しい目を向けられる日が続いた。最終日のラスト一本のFGはリーダーの楯に任された。Hポールに向かって立つ楯の後ろに、全部員が並んだ。「これ決めな負けやぞ」の声が飛ぶ。
「合宿でめっちゃしんどいことをやってきたっていう全員の思いが僕の背中に乗っかって、『ほんまにこの一本を決めなあかんねんな』と。後ろにいるみんなが発する言葉の一つひとつが重くて、いままでで一番緊張したFGだったんですけど、ど真ん中に決まった。これが関学のキッカーが背負わなあかんもんなんやな、と実感しました。いままでほんまに甘かったというのを感じて、震えました。手も足も震えてましたね」
最後の秋シーズンも出番がないまま進んでいったが、入部のときに背中を押してくれた永田さんは「狙っとけよ。絶対チャンスがあるから」とメッセージをくれていた。試合の中でキッキングゲームになると、楯はサイドラインからフィールドの選手たちに向かって叫んだ。
そして永田さんの言葉は現実になった。全日本大学選手権準決勝、負ければ終わりの一戦で、関西学院大学ファイターズの送り出したキッカーが楯直大だった。彼のキックが外れて関学は負けた。ただあのキック、楯は右足を振り抜いた。いつも通りに振り抜いた。いろいろあった4年間で培ったものを信じて、振り抜いた。それがすべてだ。
楯には試合に臨むにあたって三つのルーティンがあった。キッカーの先輩がやってきたのを受け継ぎ、試合前日にはキッキングゲームの分析で使っている部屋の一角をきれいに掃除した。そして4年生の秋は、実家から送ってもらったバリカンで、10人ほどの同期の頭を刈った。スパイクは高校時代からずっとアディダスのコパ。試合前日にひもを抜いて磨き、試合会場に着いたらスタンドで食事をとりながらひもを通す。ずっとそうやってきた。どれも大好きな時間だった。
fightersは誰も一人にはしないチーム
私が西宮北口で楯と向き合ったのは、法政戦の4日後。別れ際、「言い忘れたことがあったら、メールで書いてきてな」とお願いした。数時間後、楯から送られてきた文章で、関学の4年生キッカーの物語を終えたい。
アメフトを「いろは」から教えてくださった先輩方。
僕についてきてくれたスペシャリストの後輩たち。
春に意味わからんくらい詰めてくれた同期。
4年間いつも合わせてくれた柴原、坂口。
朝からアメフトの話ばっかりしてた、ほかのキッキングリーダーたち。
最後までイジってくれた体育棟のメンバー。
ずっと応援してくださった、廣田さん、整骨院の先生方、東京庵のみなさん……。
ずっとわがままを聞いてくれた家族。
fightersは誰も一人にはしないチームで、書ききれないくらい沢山の人の存在があったので、あの場面で思いっきり足を振れたと思います。感謝しかありません。
関西学院大学アメリカンフットボール部
楯直大