アメフト

特集:駆け抜けた4years.2025

マネージャーは「裏方」じゃない、ファイターズの4年間は宝物 関西学院大・高石梨帆

法政大との試合直前、関学のマネージャー高石梨帆には「いつもと違う」との思いがあった(撮影・北川直樹)

2024年の秋シーズンに甲子園ボウル7連覇を狙った関西学院大学アメリカンフットボール部ファイターズは、甲子園で戦うことなくシーズンを終えた。9年ぶりのことだった。11月30日の全日本大学選手権準決勝で法政大学に負けた瞬間から、4年生はそれぞれに現実を受け入れられない日々を過ごしたという。マネージャーの高石梨帆(静岡・不二聖心女子学院)もそうだった。「一人でいると落ち着かなくて、頭がおかしくなった感じでした」。いま、笑顔でそう振り返る。女子校育ちの18歳が関西へやってきてアメフトの強豪チームに飛び込んだ。彼女が「一生の宝物」と言いきる4年間はどんなものだったのか。

「追いやられてる感じがあった」法政大学戦

4年間で最後の試合となった法政戦(東京・スピアーズえどりくフィールド)。関東で秋の公式戦に臨むのは初めてで、試合運営のフォーマットから何から関西とは違った。関学のマネージャーたちにとって、わずか6日間の準備期間はアッという間に過ぎた。試合当日、キックオフの時間が近づくと会場内で音楽がガンガンに流れ始めた。「アウェー感が半端なかった。追いやられてる感じがありました」と高石。

「青シャカ」に身を包み、ファイターズを支えた4年間だった(撮影・北川直樹)

会場の雰囲気にのまれたかのように、ファイターズは思うように力を出せない。「絶対いけるから」。サイドラインでディフェンス陣のサポートをしていた高石は、そんな声を出し続けた。ただ、サイドラインに戻ってくる選手たちの顔はぼんやりとしているように感じられた。後半に入ると、なぜだか涙が出てきた。アナライジングスタッフ(AS)の南博文(1年、関西学院)に見つかり、「高石さん、まだ早いっす」と言われた。「仲間を信じないと」と思っても止まらない。両手を合わせて「ラジャ(DB中野遼司のニックネーム)絶対インセプしてよ!」と叫んだ。キッカーの楯直大(4年、鎌倉)には「お前、絶対決めてこいよ」と言ってフィールドに送り出した。延長にもつれ込む接戦の末、ファイターズのシーズンが終わった。

険しい表情の高石。「青シャカ」は涙でびしょびしょになっていた(撮影・北川直樹)

最後の整列のとき、隣に3年生のマネージャーの西村百桃(日本大学高)がいた。高石は「ここから一年頑張ってね」という気持ちを込め、西村の肩に手をやった。彼女とはしょっちゅう「そとんきん」(学内にある東京庵=通称「とんきん」=の学外店舗)で晩ごはんを食べる仲だった。あとは頭が回らず、最後の校歌「空の翼」は歌えなかった。関西に戻り、翌日は立命館大学と早稲田大学の試合へビデオ撮影に行った。「正直、『何で行かなあかんの』と思いましたけど、最後にできるのはこれぐらいだなと思って、行きました。選手証を首から提げるのも『これが最後か』と思いながら」。引き継ぎはしっかりしておきたいと、部室に顔を出して西村たちに話をした。

高石は言う。「マネージャーを4年間続けなかったら、何も得られてなかったんじゃないかと思います。つらいことも多かったけど、ファイターズに集まった仲間がいたからこそ続けられました。同期のマネージャーは私を含めて4人いて、みんな最後までやりきりました。4人とも全然性格が違うんですけど、違うからこそ得るものが大きかったと思ってます。同期に支えられて成長できました」

ともに4年間を駆け抜けた同期のマネージャーたちと(本人提供)

留学で学んだ、伝えることの大切さ

東京都大田区で生まれ育った。クラシックギターに水泳、テニスと放課後は忙しい小学生だった。ギターは13年間続けた。中学受験をして静岡県裾野市にある中高一貫の不二聖心女子学院に進み、寄宿舎での生活が始まった。「母も姉も行ってた学校です。私も自然にあふれた環境で団体生活をしてみたいと思って決めました」。寄宿舎は8人部屋でカーテンによる仕切りだけ。ホームシックもあったが、週末は東京に戻れたので気持ちが和らいだ。中1の生徒は毎朝6時半に起きて食堂で朝食の準備をする決まりだった。ある日、高石は15分寝過ごした。慌てて制服に着替えて行ったが、高3生に厳しく怒られた。寄宿舎内での上下関係は厳しく、そのときに「女子、女子してる生活は嫌だ。大学は共学がいいな」とも思ったそうだ。

高校での姉妹校留学を意識して、中3のときに1日3時間は英語を勉強した。留学できる成績はクリアしていたが、踏み切れないでいた。そんなとき、日曜日に自宅でディズニーチャンネルを見ていると、母の由利子さんにこう言われた。「いまのままの生活しててもつまんないでしょ。冒険してみなさい」と。背中を押され、アメリカのルイジアナ州にある姉妹校へ1年間の長期留学をすることになった。日本人がほとんどおらず、アジア人も少ないという環境へ飛び込んだのは高石が初めてだったという。「ほかの留学先には日本人もアジア人も多いところがあったんですけど、それでは成長しないと思って、何の情報もないけどルイジアナに行ってみようと思いました」。高1の夏、まさに冒険に出かけた。

留学中に仲のよかった上級生二人と。彼女たちが進級時に赤いカーディガンと指輪をもらう伝統的な式典で(本人提供)

最初の3カ月は毎日泣いていた。中国人の生徒との2人部屋。日曜日は掃除と決まっているのに全然やってくれない。英語でどう言えばいいのか分からない。学校では化学で赤点を取った。先生に「このままじゃ日本に帰れない」と相談したら、化学式の一覧を渡された。「これだけは覚えてきて」と。必死で覚えていったら100点をくれた。そこで高石は「やってみよう」という気持ちこそが大事だと痛感した。これが後々、大学入学後の選択にもつながっていく。

ルームメイトに対しても「つたない英語でも思いを伝える」と決めた。半年が経ったころ、クローゼットから異臭がすると思ったら、洗濯せずに置きっぱなしの彼女の洋服が原因だった。「これ、どういうことなの」と言ってみると、そこからちゃんと掃除もしてくれるようになった。伝えることの大事さを学んだ。

長期留学の1年が終わってもアメリカに残りたいという思いも出てきたが、高2の6月に帰国。どうしてもまた行きたくなったらアメリカの大学を受験すればいいという話になった。ただ、いざ帰ってくると日本食はおいしいし、家族にも会えるしと、日本で進学することにした。

今年2月の壮行会で、さまざまな思いを分かち合ってきた同期たちと(本人提供)

関学が出場したライスボウルを観戦

AO選抜入試で立命館大学の国際関係学部を受けたが、2次面接で不合格。どうしようと焦っていたところで、高校の担任の先生が「関学への指定校推薦はどうか」と言ってくれた。それが高石と関学の最初の接点だった。指定校に切り替えて法学部法学科を受けて合格した。

関学への進学が決まったあとの2021年1月3日、たまたま誘われて学生が出場する最後のライスボウル観戦に東京ドームへ行った。関学はオービックに18-35で負けた。高石自身は試合後も特別な感情は湧かなかったが、母が「ファイターズはいいと思うよ。つらいことはたくさんあると思うけど、梨帆なら必ず成長できるからやってみなさい」とスタッフとしての入部を強く勧めてきた。母がなぜそこまで言うのか不思議だったが、「自分の2倍生きてる人だから、間違ってはないんだろうな」と思ったそうだ。

関西での生活が始まった。体育会には入ろうと決めていた高石はアメフト部か女子ラクロス部に絞った。ファイターズの練習見学に行くと、マネージャーも選手と同じように大声を出して練習をリードしていた。「みんなが声を出してて、マネージャーでも裏方じゃなくて自分で引っ張っていくような感じで、そこがいいなと思いました。日本一という目標に向かって行動できるのも自分に合ってるなと。明るくてポジティブな性格を生かせるって確信しました。それで、入ってみて合わなかったらやめようというノリで入りました」

納豆と「雪見だいふく」が大好き。後輩のマネージャーには選手に寄り添える関係性づくりをと願う(本人提供)

ファイターズにいる人は、みんな人間味のある方なんだな

自分の殻が破れたと感じたのは2年生のときだった。1年生のときのLB(ラインバッカー)からOL(オフェンスライン)に担当が変わった。巨漢たちの集まりだ。「正直言って臭いし、みんな動かんし(笑)、大変だったんです」と振り返るが、日に日に選手との心の距離は近づいていった。チーム内でも話題になっていたそうだ。「OL担当になってからの高石はすごい」と。OLの練習はほとんどがぶつかり合いだ。高石はビデオを撮りながら「いけーっ」「やってまえー」と叫んだ。「OLの練習のそばにいると雰囲気に圧倒されて、自然と声が出たんです(笑)」。アツい気持ちのままに選手たちを激励する声を出すと、まっすぐに呼応してくれる。それが励みになり、練習を引っ張る楽しさに目覚めた。3年でWR(ワイドレシーバー)、4年で再びLBの担当になった。

2年生の甲子園ボウルで勝った直後。お気に入りの一枚で、見返すたびに頑張ろうと思えた(撮影・北川直樹)

4年になるときの春合宿で高石は低体温症で倒れた。ラストイヤーの始まりだけに気持ちが入っていて、声を出し続けているうちに倒れた。東京の実家に戻って体を休めることになり、母が兵庫県三田市まで迎えに来てくれた。東京に到着したことを伝えると、大村和輝監督から温かいメッセージが届いた。香山裕俊、梅本裕之の両コーチからも長文のメッセージが入り、高石は精神的に不安定になりかけていたのが和らいだという。「普段は鬼のような存在なんですけど(笑)、ファイターズにいる人は、みんな実はすごく人間味のある方なんだなと実感しました」

高石が担当するLBにはキャプテンの永井励(関西大倉)、ディフェンスリーダーの日名圭太(関西学院)、木田亘(啓明学院)と3人の4年生がいた。木田だけがJVと呼ばれる2軍だった。高石は夏合宿のJVの練習に寄り添いながら、木田の練習ぶりに物足りなさを感じていた。合宿中のある日、永井も呼んで3人で向き合った。「亘ならもっとできるやろ」「亘がどんどん変えていかんと」。高石は気持ちがこもり過ぎて泣いてしまった。そして木田は、そこから少しずつ変わっていった。「あれは忘れられない経験です。選手と本気で話すのって、なかなかないんです。でも同期だし信頼しているからこそ言ったら、聞いてくれて行動に移してくれた。日本一には届かなかったんですけど、あれは私にとって大きかった」

4年の夏合宿ですべての練習が終わったあとにLBの選手たちと。より一体感が深まった合宿だった(本人提供)

母「部活ってすごいです」

ファイターズを勧めた母の由利子さんはすべてが終わったいま、こう語る。

「目標があるとガンといく子だったので、何か目標を持たせた方がいいと思って、常に日本一を目指しているチームを勧めました。成長できる機会をもらえて、ほんとによかったです。高校までとはまったく違う責任感が出てきました。関学はマネージャーも一人の選手だと見てくださるので、それがすごく助かりました。周りのみなさんが優しく包んでくださったのも大きかったです。私は『タッチ』が好きで甲子園に憧れていたので、アメフトの大学日本一を決めるのが甲子園ボウルだと知って、梨帆に『連れていってね』って言いました。3回も行けました。最後は行けませんでしたけど、これも人生です。勝って次のステップに行くのもよし、こういう思いをしていくのもよし。最後までこうして頑張り抜いたっていうのが、今後何かあったときにいいんじゃないかと思います。部活ってすごいです。いいですよ」

高石は4年になるにあたって、ひとりの時間を大事にするようになった。自分はどんな人間なのか考えるのも、今後には大事だと。阪急仁川駅前の「フランケル」に行き、うどんと天ぷら4種盛と卵かけごはんを平らげながら、いろいろと考えた。映画の「ワイルドスピード」は同じ作品を5回見た。「音楽もカッコいいし、やりたいことをやるスタイルが大好きで」

最後の秋シーズンはめまぐるしい忙しさだった。授業は何もかも忘れられる幸せな時間だと感じることもあった。だけどやっぱり第3フィールドで仲間と過ごす時間が最高だった。日々の練習が終わってから20分ほど、LBの同期たちと話した。「練習の話はもちろん、恋愛の話をすることもあって(笑)、めっちゃ好きな時間でした。あの時間はもう一生ないんだなあ、なんて思っちゃいます」。春からは東京で社会人としての生活が始まる。一生の宝物を胸に。

母には何度か「やめたい」ともらした。母は常に「やめるなら、やめなさい」と返した。そして娘はやり抜いた(撮影・篠原大輔)

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