アメフト

特集:駆け抜けた4years.2025

関西学院大・藤田貫太郎(上)「選手よりも視座高く視野広く。それが関学のスタッフ」

ラストゲームとなった法政大戦。フィールドで鬼気迫る表情を見せる藤田貫太郎(すべて撮影・北川直樹)

今季、前人未到の甲子園ボウル7連覇を目指した関西学院大学アメリカンフットボール部ファイターズは、リーグ戦で5年ぶりに立命館大学に敗れて順列2位で全国トーナメントに進んだ。そしてその後、準決勝の法政大学に延長タイブレークの末敗れ、2024年シーズンが終わった。「最後まで選手たちに求めてきたつもりだったが、求めきれてなかった。自分たちは、日本一にふさわしいチームじゃなかった」と話すトレーナーの藤田貫太郎(4年、須磨翔風)は、誰にも負けないアツさを持つ男だった。「物事を考えるとき、楽なことを選ばず、その先で得られるのは何なのかを考えるようになりました」という藤田に、ファイターズでの4年間を話してもらった。

3年春に選手からスタッフ転向を志願

関西学院大サイドのグラウンドの中央で、誰よりも声を張っていたのが藤田貫太郎だ。空を仰ぐようにしてリードボイスを張り上げ、駆け回り、仲間を鼓舞する。その振り切った姿から、どんな気持ちで彼がファイターズにコミットしてきたのかが気になっていた。

関学には、もちろん最初からスタッフを志望する部員もいる。一方で、選手として入部した後に、よりチームに貢献する道としてスタッフに転向するケースもある。藤田も元々は選手だったが、3年生の春に志願してトレーナーになる道を選んだ。そんな彼の人生をまずは振り返りたい。

誰よりも声を出し、誰よりも精力的にグラウンドを駆け回った

高校時代、金丸夢斗を目の当たりにし野球を断念

神戸市で生まれ育った。小学校から野球をはじめ、神戸市立岩岡中学では全国大会にも出た。「野球やってたらわかるよねって言う感じの、まあまあ強い、良い環境でやらせていただいていたんです。結果もそれなりに出せていて、プロとは言わないまでも大学野球とかを目指したいなとは漠然と考えていました」。ずっと外野を守ってきた。

中学のとき、ホームランを打ったことがある。その対戦相手は関西学院中学部だった。「当時は何も知らんのですが、安藤柊太、北村晟太郎(いずれも現4年のチームメート)が対戦相手だったんです。大学入ってから『あのときのメンツやな』って不思議な感じでした」。安藤や北村が覚えていてくれたことがうれしかった。

そこまではイケイケで野球をやってきたが、高校でこの考えがひっくり返る。神港橘高と試合をしたときだ。「当時はまだ無名だったんですが、こないだ中日にドラ1で指名された金丸夢斗(現・関西大学4年)の球を見たときに、もう野球は辞めようと思ったんです。世の中にはとんでもない怪物がいるなと」。それまでは少なからずエリート意識もあったが、鼻が完全にへし折られた。野球に限界を感じてしまった。

関大・金丸夢斗(上)中日ドラフト1位左腕の思考法「小さなことをやりきる」目標設定

「僕は4人きょうだいの一番上なので、親の負担を考えて高卒で就職することも考えました。高校も進学校ではなかったですし、自分自身の学力も低かったので、中途半端な大学に行くのは親孝行にならないですし」

野球を諦め、こんなことを考えていたときに、関西学院大卒の英語の先生がこう教えてくれた。

「野球で甲子園が無理でも、大学で目指せる“冬の甲子園”もあるで」と。

このときに初めてアメフトのことと、関西学院大が日本一のチームだということを知った。調べてみると、面白そうだなと感じた。

試合前の整列では選手の装具をチェックする。「右手でヘルを持つ、ひざが出てないか。これを見て回るんです」

「関学から冬の甲子園へ」1日20時間猛勉強

高校の野球部を高3夏に引退してから、関西学院大の受験を真剣に考えた。家から西宮上ケ原キャンパスまで2時間。なんとか通える距離だ。しかし、圧倒的に学力が足りないことを知る。

「担任との進路面談のときに、関学に行きたいって言ったらこう言われたんですよ。『目標がココ(天井)だとすると、君の学力は地面の下(居るのは3階)だよ』って。めっちゃ腹立って、人生で一番勉強しましたよ」

入試までは約半年。勉強しだしたときの模試の偏差値は30台だったが、国語を捨てて英語と世界史に絞って徹底的にやった。トイレやお風呂にいるときも、移動中もイヤホンで聞いてひたすら勉強した。24時間のうち、20時間ほどを勉強に使った。

「英語の単語帳とか、わからなかったものに丸で印をつけるんです。ずっと間違うと、その部分の紙がなくなってきて破けるんですよ。それをまた別のノートに貼ってやってました。世界史は東大の受験生がやるみたいに、教科書じゃなくて用語集をしらみ潰しにやり込む感じです」

死ぬ気で勉強をしたら、受験直前の模試では世界史が偏差値70、英語が60くらいまで伸びた。

受からなかったら就職すると決めて、関西学院大だけを受けた。日程的に6日間受けられそうだったので、そこすべてに出願。ちょうど中盤に受験した神学部の入試は手応えがあった。予備校の情報によると、この日の世界史で9割とれていたら上位5%に入ることがわかった。自己採点をすると、9割を超えていた。これは受かるかもしれないと思った。発表日はめちゃくちゃ緊張したが、無事に合格することができた。

「神様に報われたって感じですね」。合格時の気持ちを、藤田が振り返る。意気揚々と、ファイターズの門をたたく気でいた。「上級生になったら、試合に出て活躍しているやろな」。そう青写真を描いて。

試合前練習ではボールを運び練習のフォロー。このときもコミュニケーションをしっかり取る

ファイターズでも感じた「レベルがちゃうな」

ファイターズは表立って積極的な新歓活動は行わない。関西学院高等部や継続校の啓明学院出身者をはじめとして、日本全国から高校アメフトのスター選手が集まってきて、他競技出身で能力を見込まれたアスリートも入ってくる。実際、学年で50人ほどいる選手のうち、アメフト未経験の一般入部は2〜3人程度だった。

藤田は小中学校の友人で啓明学院でアメフトをしていた友達に頼んで、マネージャーの先輩を紹介してもらい、入部意思を伝えた。だがファイターズの練習場「第3フィールド」に行ったとき、大きな衝撃を受けた。

「レベルがちゃうなっていうのが第一印象です。野球でも金丸を見ていましたが、日本トップレベルの人たちが一生懸命、めっちゃ真剣にフットボールに取り組んでるなと。自分が今までいた世界がめちゃくちゃ小さかったんやなというのを痛感しました」

ポジションは「野球をしていたからボールが捕れそうという安直な考え」でTEを希望した。でもやってみると、そんなに器用じゃない自分を知った。どのポジションをするか考えたときに、野球出身でLBで活躍している先輩の生き様のかっこよさに心をつかまれた。

「都賀(創、22年卒)さんは、こんな自分のためにも時間を割いてくれましたし、全責任を負うという気概に満ちた人でした。こんな人に自分もなりたいと強く思いました」

ドリンクボトル管理をして選手のコンディショニングにも気を配る

下手くそな自分が関学のエリートたちと勝負するには、何かひとつでも突き抜ける必要があると考えた。「他のやつらに負けるのが悔しすぎて」。始発でジムに通い、授業を1限から受け、練習後にトレーニングをして終電で帰るという生活を続けた。

同期の間で、兵庫の西部出身の部員は「西組」と呼ばれていた。「西組の柴原(颯斗、啓明学院)と2人で『絶対見返したろう』って言って、必死に取り組んでました」。筋トレをしまくった結果、数値はグングン伸びた。入学時60kgだったベンチプレスは140kgを挙げられるようになった。

2年生になってからもLBとしてはまだ余裕がなかった。「どう動いていいかがわからなくて、先輩にずっと教えてもらっていました。動画を撮って先輩に送って、反省点を教えてもらうみたいなことを夜な夜なずっとしてました」。自分からアクションを起こさないといけないと思い、永井励(4年、関西大倉)にも教えを請うた。「永井は1回生のときから試合に出てたので、それも原動力になりましたね」

めちゃくちゃ頑張ったが、約10人いたLBのデプス(順列)では一番下。試合経験は、春に第3フィールドでやる非公表のJV戦の最後に少しだけ出してもらえたくらいだった。

1年生の終わりには、スタッフ転向候補にリストアップされた。しかし1年後はそこからは外れた。「正直ホッとしていたのはあります。まだ選手ができるって思って」

OLと比べると小さく見えるが、これでも入学後に30kg増えた

絶望の戦力外通告 選手を“変える”ためトレーナーに

2年生の終わりに、大村和輝監督との面談があった。関学恒例の監督面談で、話を聞かれるだけではなく、逆質問もできる。藤田は、監督にこう聞いた。

「監督は僕のこと、どう思われてますか?」

藤田は「不器用なヤツ」などという回答を期待していたという。自分の頑張りのベクトルが正しくて、これからもその取り組みをやっていくために背中を押してもらいたかった。しかし甘かった。

「『めっちゃ下手』って言われました。プレーだけじゃなくて、ビデオの見方とかも含めて全てです。自分自身は全力でやってきたつもりだったんですが、結果として出てないんで、全然ダメだと」。戦力外通告だと思った。自分の未熟さ、愚かさを痛烈に感じた。絶望の淵に落ちた一方で、悔しくて仕方なかった。

迎えた3年生の春、ウェートのMAX測定会があった。「監督を見返してやろうと思って、クリーンで110kg挙げて、その勢いで120kgもいったろうと思ってやったんです。そしたら左手首の靭帯(じんたい)をやってしまって......」

試合に出られるような選手なら、けがが治るのを待てば良い。でも、戦力外の自分がブランクを作って、その先にプレーヤーとしてチームに貢献できるのかがわからなくなってしまった。

91番の安藤とは中学時代に野球で対戦した

「トレーニングのサポートとか、自分なりの声出しとか、スタッフとして選手を勝たせるためにできることがあるんじゃないかって。スタッフに転向することを決意しました。僕らの代は永井がキャプテンになるのはほぼ決まってたので、泣きながら相談しにいきました。永井は僕の考えを尊重してくれたので、そのまま監督に言いに行きました」

スタッフならどこの役職でも好きなところでいいと監督に言われた。関学のスタッフは、選手よりも一段上の視点で物事をみることを要求される。例えば選手と同じくらいアサイメントを覚えるのは当然で、そこから選手を変えていくことを求められる。それをやる覚悟があるなら、好きなところをやれと言われた。

トレーナーを選んだのは、選手と一番関わることが多いと考えたからだ。「AS(アナライジングスタッフ=戦術分析係)もミーティングとかいっぱい関わりますが、トレーナーは目に見えた結果が出せますし、体の見た目だったり数値を変えることができる部分に魅力を感じて。自分自身、めちゃくちゃ鍛えてたんでそれも生かせそうだと思いました」

選手とのコミュニケーション次第で、人を伸ばすことができる点が面白いと思った。「体重が規定に足りない選手に『増やしてこい』っていうのは簡単なんですが、実際に自分たちが介入して変えていかないと成り立たない仕事なんです。だから後輩を飯に誘ったり、色々工夫してやるんです」

「関学のトレーナーに必要なのは鳥の目と魚の目っす」。コーチがいないときはその役割も担うという

関学には、交流がある南オレゴン大学(SOU)を基準にしたフィジカルの数値目標があって、トレーナーはこれを選手がクリアできるように取り組む。監督やコーチに「こいつ見たってくれ」と言われれば、メニューを考えてトレーニングの面倒をみる。ストレングスコーチの油谷浩之さんにも指導を受けながら、一緒にメニューを考え、選手と一緒にやっていく。

「データや数値を見た上で、ロジカルにトレーニング内容などを決めていくんです。同期の奥田(健太郎、関西学院千里国際)が週単位でデータを管理してくれていて、選手ごとの変化値とか、全体の中央値とかを出してくれるんです。僕は定量分析が苦手なんですが、その面を奥田が支えてくれてるおかげでいいミーティングができて、今年は特に数値がかなり伸びました」

一番やりがいを感じたのは、花巻東高野球部からやってきた八木駿太朗(2年)の成長だという。「アイツは最初線が細かったんですが、僕とDLの前田(涼太、3年、箕面自由学園)が一緒にトレーニングを見て、米を炊いて食わせて10kgくらい増やしました。プレーにもそれが生きて活躍するようになったのがうれしいっすね」

関西学院大DL八木駿太朗 花巻東野球部から初の入部、後悔残る甲子園でQBサックを

選手だが主力ではなかった同期の日名圭太(関西学院)、坂口翼(関西学院)と一緒に毎日練習の3時間前にはグラウンドに出た。「自分ら4回生が試合に出られない分、下級生がどうやったらストレスなく試合に臨めるか。一緒に考えて試行錯誤しました」。勝つ組織を作るにはどうすればいいのかを、必死に考えた。

奥田(右)は、藤田が一番信頼しているトレーナーのパートナーだった
【続きはこちら】関西学院大・藤田貫太郎(下)「やり切ったけど後悔」勝利への使命感と難しさを学んだ

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