東洋大・井上卓也監督 オシムに学んだ指導哲学 選手時代は応援組でも監督で日本一に
2024年度は東洋大学サッカー部の歴史を塗り替えた。関東大学1部リーグを過去最高の3位で終えると、全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)では初優勝。今季、チームを率いて6年目を迎える井上卓也監督に自身の指導者人生を振り返ってもらった。
コロナ禍で勧誘した選手たちとインカレ初優勝
集大成となるインカレの初優勝には感慨を覚えた。決勝のピッチにふと目を向ければ、たくましくなった4年生たちの顔が並んでいた。今季から東京ヴェルディに加入する新井悠太(4年、前橋育英)が決勝ゴールをマークして大会MVPに輝き、アルビレックス新潟入りする稲村隼翔(4年、前橋育英)は無失点勝利に貢献。いずれも監督1年目の2020年に勧誘した選手たちである。当時はコロナ禍の影響で高校の公式戦がほとんど中止になるなか、スカウト活動もままならなかった思い出が残っている。
「セレクションで学校内のグラウンドを使えなかったので、2日間だけ朝霞市内の陸上競技場を借りて実施したのを覚えています。新井と稲村に関しては、前橋育英の練習試合も見に行きましたので。ピックアップから関わった選手たちが、最後に結果を残してくれたのはうれしかったですね。本当に頑張ってきましたから」
1学年13、14人の部員一人ひとりと向き合う
今春卒業の4年生はプロのJクラブに6人、JFLに3人が進む。東洋大サッカー部の門をたたく選手たちのほとんどはプロ志望だという。ただ、全員が希望通りの進路を選べるわけではない。井上監督は、選手たちに入学前の段階から厳しい現実をはっきりと伝えてきた。
「『ここは大学の運動部だからね』と。ドリームキラーではあってはいけないと思いますが、『簡単にはプロになれないよ』と最初に言います。それでも、頑張るなら一緒にやろうって」
東洋大は12年に1部初昇格を果たした新興勢力。その後も2部降格、1部昇格を繰り返してきた。100年以上の歴史を持つ強豪大学に比べると、世代指折りのタレントがこぞって集まるチームではない。井上監督が就任した当初も、2部リーグに所属。それでも、2年目の21年に3年ぶりに関東大学1部復帰に導くと、22年は1部で7位、23年に6位、24年には3位と着実にステップアップさせてきた。
57歳の指揮官は、選手一人ひとりと向き合うことを心がけている。1学年の部員数は13人から14人。当然、それぞれに感情があるという。
「われわれが日々、接する選手たちは『物』ではなく、『人』です。そこは指導する上で大事にしています。私自身、選手の持っている能力を最大限に引き出す指導者でありたいと思っています。それがチームの力を最大化することにもつながってくるのかなと」
「人間的に鍛えられた」ジェフでのコーチ時代
指導歴は約30年。根底にある哲学は、かつてともに仕事をした偉大な監督から大きな影響を受けている。
いまからちょうど20年前のことだ。Jリーグに旋風が巻き起こっていた時代である。上位争いとはほとんど無縁だったジェフユナイテッド千葉が快進撃を見せ、05年、06年とナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)を2連覇。ただ結果を残しただけではない。日本サッカー界の常識を覆す革新的なチームづくりは、いまも語り継がれている。仕掛け人は、後に日本代表を率いたイビチャ・オシム監督である。
当時、井上監督は名伯楽のもとで05年から06年夏までトップチームのコーチを務め、多くのことを学んだ(03-04年はユース監督)。同じチームで過ごした濃厚な1年半は、まるで昨日のことのように思い出せる。
「オシムさんには人間的に鍛えられましたね。コーチングスタッフもミスをすれば、グラウンドを走らされたんです(笑)。『罰走ではなく、考える時間を与えているんだ』って。練習中もピッチだけではなく、いろいろなところに目を配っていました。リハビリしている選手、スタッフもそうです。厳しさのなかに温かみもありました。義理人情に厚く、“昭和のオヤジ”のような人でした」
「決めつけるな。物事は見る側の角度で変わる」
年間に公式戦と練習試合を合わせると、130試合ほどこなした。極めて異例と言っていい。レギュラー組以外の選手たちにも多くの実戦経験を積ませ、最大限の能力を引き出していた。オシム監督は前例主義をとにかく嫌った。いまも耳に残っている言葉がある。
「“何事も決めつけるな”。物事は見る側の角度によって、変わってくると」
ある日、オシム監督からコーチングスタッフ同士で相談し、リーグ戦に臨むベンチ入りメンバーの15人目、16人目を選べと言われたときだった。
「コーチたちで1週間のトレーニングを見て、調子のいい選手を2人選んだのですが、オシムさんにこう言われたんです。メンバーから外した選手の名前を挙げ、「あいつは最近、子どもが生まれたばかりだ。ミルク代を稼がないといけないだろ」と。もっと違う見方もあるよ、ということだったんでしょうね。次の試合で生活面やプライベートも加味してメンバーを選ぶと、『お前たちはどこを見ているんだ。練習でよくなっただろ』って(苦笑)」
卒業旅行での出会い、指導者の道で再会
昔話をしていれば、次から次に記憶はよみがえってくる。オシム監督と初めて出会ったのは、大阪体育大学の卒業を間近に控えた時期だった。大学時代に師事していた祖母井秀隆さん(後にジェフ千葉のGMなどを歴任)と学生10人くらいの仲間でヨーロッパへ卒業旅行に出かけたときである。恩師の旧知の仲であるスロベニア人のズデンコ・ベルデニック氏(後に大宮アルディージャなどで監督を歴任)にコーディネートしてもらい、旧ユーゴスラビア代表のキャンプを見学させてもらった。
「ちょうど90年イタリア・ワールドカップの前でした。ベルデニックさんに『あの選手はユーゴの次代を担うスーパースター候補だ』と教えてもらったのが、名古屋グランパスでも活躍したピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)だったんです。後々、ほかのメンバーをチェックすると、ズボニール・ボバン、デヤン・サビチェビッチらもいたんですよね。その代表チームを率いていたのがオシム監督でした」
練習後にはベルデニック氏の計らいもあり、オシム監督が日本の学生たちの集まるテーブルまで来てくれたという。
「“何でも聞いてくれ”って。でも、そのとき、私はオシムさんの見た目が怖くて、何も聞けなくて……。190cmを超える大男でこわもてでしたから(笑)」
オシム監督のオーラに圧倒された20代前半の井上青年は大学卒業後、指導者になるためにドイツ・ケルン体育大学に留学。本場でアマチュアのチームでプレーしながら、コーチング学などを学んだ。ただ、帰国後すぐに指導者の職に就けたわけではない。Jリーグ元年の93年、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)にはドイツ語の通訳として雇われた。元ドイツ代表のピエール・リトバルスキに付き、チームに帯同。当たり前のようにミーティングにも参加し、ほかに得難い経験を積ませてもらった。
本格的に指導者の道に進んだのは95年から。ジェフの下部組織のコーチとしてスタートし、中学年代、高校年代とさまざまなカテゴリーで指導。よもや学生時代に見たオシム監督と一緒に仕事するとは想像もしていなかった。07年限りでジェフを離れたあと半年間の空白を経て、08年からは大宮アルディージャ(現RB大宮アルディージャ)へ。そこでも、運命のめぐり合わせがあった。選手通訳、下部組織のコーチを務めたあと、学生時代にヨーロッパでオシム監督に引き合わせてくれたベルデニック監督のもとで通訳兼コーチとしても働いたのだ。
学生へエール「応援組だって日本一の監督になれる」
井上監督は以前から興味のあった大学サッカーに身を置くようになり、学生たちにいつも口にしていることがある。
「経験した者勝ちだよ。経験した者にしか得られないものがある」
しみじみと話す言葉には実感がこもる。自身はサッカーのエリート街道を歩んできたタイプではない。今春、卒業していく4年生全員の前で話したことがある。一人ひとりの顔を見ると、ケガで夢をかなえられなかった学生もいれば、望んだオファーが届かずに競技を離れる者もいる。
「努力は報われたほうがいいが、すぐに報われないこともある。たとえ選手として成果を出せなくても、ほかのことでも成果は残せる。いまではなく、数年先、何十年先に努力が身を結ぶケースだってある。自分の人生、自分で納得するまで好きなことを続けてもらいたい。ほかの誰かに決められるものではない。学生時代にずっとスタンドで応援していた人でも、指導者として大学日本一のチームに携われることもできるんだよって」
遠い昔を思い出しながら、57歳は照れ笑いを浮かべていた。信じる道を進んでいれば、人生はきっかけ一つで変わることもある。新シーズンも、夢を追う学生たちと真摯(しんし)に向き合っていくつもりだ。