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特集:駆け抜けた4years.2025

東洋大・嶋村知浩「一番成績のない選手」から主将へ 野球人生が詰まった最後の1打席

東都の名門・東洋大学で主将を務めた嶋村知浩(撮影・小川誠志)

2024年11月16日、17日に行われた東都大学野球1部2部リーグ入れ替え戦は、2部優勝の東洋大学が、1部6位の東京農業大学に連勝し、1部復帰を決めた。2回戦、17-2と大量リードした八回表、代打で登場した主将の嶋村知浩(4年、栄北)がレフトスタンドに2点本塁打をたたき込んだ。

「打った自分が一番びっくり。夢を見ているよう」

八回表1死二塁。「代打・嶋村」の名前が神宮球場内にコールされると、三塁側スタンドの東洋大学応援席からは、この日一番の歓声が湧き起こった。15点をリードし、勝敗の行方と1部復帰は、ほぼ決したと言っていい。それでも、待ちに待った「背番号1」の登場に、東洋大の応援団と部員は沸いた。

2ボール2ストライクからの6球目。待っていた内角のストレートが甘く入ってきた。思い切り振り抜いた打球は、レフトスタンドに吸い込まれていく。二塁まで全力疾走していた嶋村だが、審判が手をぐるぐると回すのを確認すると、三塁側スタンドへ向かって右拳を突き上げた。神宮球場のボルテージは最高潮に。涙を流して喜ぶ4年生もいたという。

入れ替え戦で本塁打を放ち、ダイヤモンドを1周しながら応援席にアピール(撮影・東洋大学スポーツ新聞編集部)

「後輩たちが点差を広げてくれたので、自分は大きいのを狙おうと思って打席に入りました。打った自分が一番びっくり。夢を見ているような感じでした。あんな歓声の中で野球ができる幸せを感じました」。嶋村は打席を振り返り、笑顔を見せた。

スタッフ転向の打診に「通用しないのだろうか……」

嶋村は小学1年のとき、学童野球チームで初めて競技に触れた。中学時代は大宮東シニアでプレー。栄北高校で指導を受けた佐久間信考監督の母校が東洋大だったことや、高校1年だった2018年秋のプロ野球ドラフト会議で東洋大から上茶谷大河(現・福岡ソフトバンクホークス)ら4人が指名を受けてプロ入りしたことから、「自分も東洋大学で野球をやりたい」という気持ちを強く抱くようになった。

東洋大の硬式野球部は20度のリーグ優勝、6度の大学日本一を誇り、数多くの名選手を輩出してきた東都の名門だ。嶋村の高校時代の最高成績は、高校2年夏の埼玉大会32強。スポーツ推薦には実績が足りなかったが、指定校推薦から合格を勝ち取り、東洋大の門をたたいた。

高校時代の実績はないが、覚悟を持って東洋大の門をたたいた(撮影・東洋大学スポーツ新聞編集部)

硬式野球部の同期は、強豪校出身者ばかりだった。「自分は同期の中で一番成績のない選手だと覚悟はしていました。入ってみたら、とんでもない選手ばっかりでした」と苦笑する。「でも、バッティングなら勝負できるのではないか。全力でやるしかない」と考え、毎日の練習に全力で取り組んだ。全体練習を終えた後も、室内練習場で黙々とバットを振り続けた。

1、2年時はベンチ入りの機会が訪れなかった。2年の春には当時の杉本泰彦監督(現・海部高校監督)から、学生コーチもしくはマネージャーをやってほしいと打診された。「選手としては通用しないのだろうか……」と悩みながらも努力を続けた。

転機が訪れたのは2年の冬だった。杉本監督が退任し、井上大コーチが監督に就任。スタッフ転向の話はなくなり、3年春の2部リーグ・国士舘大学との1回戦でついに公式戦デビュー。コーチ時代にBチームの指導をすることが多かった井上監督は、人一倍の努力を積み重ねてきた嶋村の姿を見ていたのだろう。

嶋村が入学した直後の2021年春、東洋大は2部降格を喫している。以降、苦しいシーズンが続いていた。嶋村が3年になった2023年春に2部優勝を果たし、入れ替え戦にも勝って1部復帰。しかしその秋、1部最下位と苦しみ、入れ替え戦にも敗れて1シーズンで再びの2部降格となった。

一時はスタッフへの転向も打診されたが、努力を貫いた(撮影・小川誠志)

姿勢や行動で、他の部員の模範に

新チームのスタートにあたり、井上監督は嶋村を新主将に指名した。下級生に能力の高い選手が多く、嶋村の代の野手には、スタメンで公式戦に出場できる選手が少なかった。嶋村もレギュラーの座をつかみ取るまでには、いたらず。それでも井上監督は「試合に出られなくてもチームをまとめられるのは嶋村」と人間性を高く評価していた。

出場機会が少ない中で名門チームをまとめるのは、簡単ではなかった。当時の苦労を本人はこう語る。

「試合に出てるメンバーの言葉の方が、やっぱり説得力があるんです。特にプレーのことに関しては、自分の言葉では説得力がないので、そこは難しかったですね。ですから、プレーの面は試合に出ている選手に任せて、自分は野球に全力で取り組む姿勢や、寮生活でもしっかり行動することなど、他の選手の模範になることを意識しました」

ベンチからは大きな声を出して、グラウンド上の仲間を鼓舞。自分と同じように出場機会の少ない選手には、励ましの声をかけた。

「井上監督がどのタイミングでどの選手を使いたいのかが、何となく分かるので、『お前、準備しておけよ』みたいな声かけもするようにしました」

奮闘する主将の姿を同級生も後輩たちも見ていた。ルーキーながらショートのレギュラーとして1部復帰に貢献した高中一樹(1年、聖光学院)は、「嶋村さんは練習の時、誰よりも早くグラウンドに降りてきて、練習後のグラウンド整備も最後までやっていました。日頃の姿勢も一番すごかった。入れ替え戦の2回戦で嶋村さんがホームランを打ったときは感動しました。自分も4年生になる頃には、そういう姿を見せられるようになりたいです」と尊敬のまなざしを向ける。

4年の秋に2部優勝を果たし、仲間たちと記念撮影(撮影・小川誠志)

スタンドの同期も涙「まさかお前で泣くとは」

最後の入れ替え戦でも、4年生の野手でベンチ入りしていたのは嶋村だけだった。「嶋村、打ってくれ!」という同期野手陣の思いを背負い、嶋村はバットを振り抜いた。「一番成績のない選手」から努力を続け、最終学年では主将も任された。野球人生最後の打席では、大歓声を背に最高の結果を残し、チームは1部復帰。試合後にはチームメートから胴上げもされた。

「自分のこれまでの野球人生が詰まった1打席だったと思います。同期がすごく喜んでくれて、本当にうれしかった。『まさかお前で泣くとは思わなかったよ』とか言われて(笑)。『野球やってて一番泣いた』と言ってくれた人もいました。自分は仲間に恵まれたと思います。自分の大学生最後の打席が神宮で、あの大歓声の中でホームランを打てた。満足できた大学生活でした」

16年間打ち込んできた野球にピリオドを打ち、春からは機械要素部品を開発・製造・販売するTHKへの就職が決まっている。最高の思い出を胸に、この春からはビジネスパーソンとして新たな一歩を踏み出す。もちろん、仕事にも全力で取り組むつもりだ。

最後の1打席で残した最高の思い出とともに、これからは仕事に打ち込む(撮影・東洋大学スポーツ新聞編集部)

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