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連載:監督として生きる

大阪桐蔭の甲子園初優勝と今は「別物」 当時のメンバー、東洋大学・井上大監督(上)

大阪桐蔭高校時代を振り返る東洋大の井上監督(撮影・井上翔太)

今回の連載「監督として生きる」は、今季から東洋大学硬式野球部の監督を務める井上大さん(49)です。4月4日に開幕した東都大学野球2部リーグでは、初戦で東京農業大学との延長戦を制し、監督として公式戦初勝利を収めました。2021年春に2部に降格し、新監督はまず1部復帰をめざします。全3回にわたる連載の1回目は、甲子園初出場で初優勝を飾った大阪桐蔭高校時代の話です。

各カテゴリーで優勝を経験

井上監督は中学、高校、大学、社会人と各カテゴリーで優勝を経験した華やかなキャリアの持ち主だ。しかし、よくあるエリートコースとは少し異なり、井上監督自身がクローズアップされることは少なかった。

春夏通算9度の甲子園優勝を誇る大阪桐蔭は、いまや高校野球界の王者に君臨している。その栄光の歴史は、1991年夏の甲子園初出場初優勝から始まっている。井上監督は当時の優勝メンバーの一人で、「背番号7」をつけた外野手だった。

1988年に創設された大阪桐蔭。井上たちの学年は4期生にあたる。1期生の今中慎二(元・中日ドラゴンズ)をドラフト1位でプロ野球の世界に送り出していたが、PL学園や上宮、近大附属といった全国レベルの強豪が居並ぶ当時の大阪では、まだまだ存在感が薄かった。

1991年夏の甲子園で初出場初優勝を飾った大阪桐蔭の選手たち(撮影・朝日新聞社)

井上監督は中学時代、大東畷ボーイズに所属し、全国大会で優勝。当時からのチームメートで、後に大阪桐蔭からドラフト1位でプロ入りした萩原誠(元・阪神タイガース)や谷口功一(元・読売ジャイアンツ)とともに日本代表に選ばれ、ボーイズリーグの世界選手権でも優勝している。萩原、谷口という「怪物」2人の影に隠れるが、関西では名前をよく知られた選手だった。いくつかの強豪校から誘いを受けた中で大阪桐蔭を選んだのは、本人によると「県外まで出て行く気もなかったし、桐蔭なら自宅から一番近くて通うのも楽だから」だった。

熱心に誘ってくれた森岡正晃部長(現・大阪学院大高総監督)に掛けられた「甲子園に行けるかどうかはわからんけど、長く野球ができる選手にしてあげるから」という言葉を今もよく覚えている。

「中学生にそんなこと、普通は言わないですよね。珍しい人だなぁ、と。それでちょっと興味を持って行くことに決めたんですけど。言葉の深い意味はわかりませんが、森岡先生の言われた通り、49歳の今もこうして長く野球に関われている。すごく感謝しています」

サインに縛られず「大人扱い」の野球

「井上が行くなら」と、関西の有望選手が続々と大阪桐蔭に集まりはじめた。この代の主将となった玉山雅一、甲子園でノーヒットノーランを達成した和田友貴彦、背番号10番ながらプロ入りした速球派右腕の背尾伊洋(元・読売ジャイアンツ)、夏の甲子園でサイクル安打を記録した澤村通……。そして谷口とともに天理高校(奈良)への進学が有力と言われていた萩原も、大阪桐蔭を選んだ。

能力が高いだけに、我の強い目立ちたがりばかり。やんちゃな選手も多かった。野球の実力でみんなが一目置く萩原が一言を発すればまとまるが、求心力の強い玉山もフォロー役を務めていた。

ただ野球に関しては、先進的だった。長澤和雄監督(当時)は社会人野球に長く在籍していたこともあり、選手には「任せるから自分の仕事をやれ」というスタイル。良く言えば「大人扱い」だった。試合で打席に立ったとき、あまり細かいサインに縛られるようなことはなかった。今、西谷浩一監督とコンビを組む有迫茂史部長がコーチとして技術面をチェックし、普段の学校生活は森岡部長が見る。役割分担がはっきりとしていた。

全体練習は午後6時に終了。グラウンドに照明設備はなく、暗くなったら帰宅するしかない。月曜日は休み。「よくみんなでボウリングに行ってました。他の高校のことを知らなかったので、『高校野球ってみんなこんな感じなんだ』と思ってました」と振り返る。

オフの日は「よくみんなでボウリングに行ってました」(撮影・井上翔太)

首脳陣は「この学年で初の甲子園を」と狙っていた。そのため下級生の頃からレギュラーで起用されていた選手が多い。その甲斐(かい)もあって、91年春の第63回選抜高校野球大会に春夏を通じて甲子園に初出場。準々決勝で松商学園(長野)のエース上田佳範(現・中日2軍打撃コーチ)に5安打で完封されたが、夏の大阪大会も制し、春夏連続出場を果たした。

甲子園は「自分の持っている以上のものを出させてくれる」

夏の初戦となった2回戦は萩原がホームランを放ち、樹徳(群馬)に11-3で勝利。3回戦の秋田高校戦は、2点をリードされた九回2死走者なしから下位打線の4連打で同点に追いつき、延長十一回、澤村の決勝ホームランで4-3と逆転勝ち。九死に一生のゲームに「最後まで諦めないと口では言いますけど、さすがにもう負けたと思ってました。本当に奇跡ですよ。昔から『甲子園には魔物が棲(す)んでいる』と迷信みないなことを言うけど、まさにあれがそうだったんじゃないですかね」としみじみ振り返った。

続く準々決勝の帝京(東京)戦では1点リードの六回、レフトに上がったあわや同点ホームランの飛球を、井上監督がラッキーゾーンの金網をよじ登って捕球する大ファインプレーを見せた。「あれも不思議ですよね。僕は普段、あんなに一生懸命に打球を追いかけることはないんです。ホームランと思ったら、もう追わずに見送る。そもそも守備の練習なんて、そんなにやっていなかったし。それがあの時だけは、あんなプレーが出来てしまった」

準々決勝で披露したホームランキャッチ(撮影・朝日新聞社)

そして次のイニング、球場の興奮が冷めやらない中で打席が回ると、レフトスタンドにホームランをたたき込んだ。「ホームランは狙っていましたよ。夏の甲子園では、ずーっと狙ってました。せっかくだから1本打っておきたかったんで」と本音を明かした。一方で何年か経つと、こんなことも考えるようになった。

「やっぱり甲子園って、自分の持っている以上のものを出させてくれる場所なんですよ。だからプロのスカウトや大学の監督なんかが選手を見る時、そこをわかっていないといけない。あそこ(甲子園で)で成績を残している高校生が、それが本当の力かと言ったら、そうじゃないと僕は思うんです。そういう意味では、僕は地方大会であったり、普段の練習試合を見て判断したいんですよね」

本塁打を放った井上監督。甲子園は「持っているもの以上を出させてくれる」(撮影・朝日新聞社)

初出場初優勝は15年ぶりの快挙

大阪桐蔭は試合のたびにヒーローが生まれ、準決勝は当時2年生だった松井秀喜さんが4番を打つ星稜高校(石川)と対戦し、萩原のホームランなどで7-1と快勝。壮絶な打撃戦となった決勝の沖縄水産高校戦は、最大4点差をひっくり返して13-8。創設4年目にして、深紅の優勝旗を手にした。初出場初優勝は1976年の桜美林(東京)以来、15年ぶりの記録だった。

「僕は野球の神様には恵まれているんです。野球を始めてからずーっと。だからこうやって長く野球にも携われているんだと思います。なかには萩原みたいに、あんなに実力があるのに早く野球をやめてしまう人もいる。もちろん野球の神様だけじゃなくて、周りの人たちの協力とか支えもあってのことですけど。やっぱり僕には長澤監督や森岡先生が合っていたと思うし、そういう人と出会えたことが幸運ですよね」

いま振り返ると「野球の神様には恵まれているんです」(撮影・朝日新聞社)

井上監督に、甲子園で春夏計8試合を経験した中で、一番印象に残っている試合を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「もちろん秋田戦とか帝京戦も印象に残っていますが、一番と言ったら選抜の初戦、仙台育英戦ですね。初めての甲子園で、僕はあまり緊張とかしないタイプなんですが、あの時ばかりは、打席に立った時に足の震えが止まりませんでした。1打席目に運良くヒットが打てて、そこからのびのびとプレー出来たんです。その後の野球人生を考えても、あれが自分にとってのターニングポイントでしたね」

10-0で制したこの試合、先発した和田がノーヒットノーランを達成している。井上監督でさえそれだけ緊張した試合と思うと、記録のすごさを再認識する。「和田も緊張はしていたと思うんですが、とにかくアイツは心臓が強いヤツなんで」と笑った。

甲子園で通算4本のホームランを放った萩原は、プロでは芽を出せずに終わった。萩原に対しては今も特別な感情を持っている。

「(野球の運を)持ってなかった気がします。真面目すぎたのかなぁ。それとも高校で使い果たしちゃったのか。誠は小学校の頃からずっと一緒にやって来て、本当にすごい選手だと思っていました。甲子園で、僕なんかは勢いとかノリで打ってましたけど、アイツは素の力ホームラン4本ですから。僕の中では最高の選手でした。だから『負けたくない』という気持ちでやっていたことが、今につながっている。野球人生って、わからないものですよね」

西谷監督にも「自由に」のスタイルが見える

大阪桐蔭は、井上監督たちの初優勝から次の甲子園出場(2002年夏)まで11年間のブランクがある。甲子園に出場しても上位に進めなかったり、選手がそろっていながら地方大会で敗れたりする時代があった。そして2008年夏に2度目の優勝を果たすと、以降は優勝回数を増やし続けている。「西谷監督も苦労された時期があったんでしょうけど、やっぱり運のある人なんだと思います。なかったら、あんなに勝ててないですから」と井上監督は言う。

「僕のいた頃の大阪桐蔭と、今の西谷監督が作られた、世の中に名をとどろかせている大阪桐蔭はまったく別物と見ています。それでも当時の長澤監督と同じように、西谷監督も『自由にやれ』という指導スタイルのように見えるところもあります。たまにグラウンドにあいさつに行っても、みんな本当に一生懸命練習してますよ。それが当たり前なのかもしれないけど、僕らの頃はサボってばかりでしたから」

ただ、井上監督たちの世代が成し遂げた甲子園初出場初優勝が、大阪桐蔭の歴史の扉を開けたことは間違いないだろう。

名将の強い個性に圧倒されながら過ごした4years. 東洋大学・井上大監督(中)

監督として生きる

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