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連載:監督として生きる

名将の強い個性に圧倒されながら過ごした4years. 東洋大学・井上大監督(中)

亜細亜大とのオープン戦で指揮を執る東洋大の井上監督(提供・亜細亜大学野球部)

今回の連載「監督として生きる」は、今季から東洋大学硬式野球部の監督を務める井上大さん(49)です。2021年春に2部に降格し、新監督はまず1部復帰をめざしています。全3回にわたる連載の2回目は、甲子園初出場で初優勝を飾った大阪桐蔭高校から進学した東洋大時代の話です。リーグ最多の通算542勝を挙げた今は亡き名将・高橋昭雄監督と出会い、その強烈な個性に圧倒されながら4年間を過ごしました。

大阪桐蔭の甲子園初優勝と今は「別物」 当時のメンバー、東洋大学・井上大監督(上)

チームの雰囲気や寮生活に違和感はなかったが

夏の甲子園が終わると、4本塁打を放ったチームメートの萩原誠(元・阪神タイガース)が「ドラフトの目玉」として注目を集めていた。一方で井上監督はプロをまったく考えなかったという。

「プロに行きたいという夢はありましたけど、萩原が身近にいたので、変なプライドというか、アイツがドラフト1位で行くのに、自分は下位指名じゃ惨めだと思って」

当時、進路指導を担当していた森岡正晃部長からは「必ず大学は出ておけ」と言われていた。「将来、何があるかわからん。ケガで野球が出来なくなるかもしれない。そんなときに、大卒なら仕事の選択肢も広がるだろう」と聞かされ、井上も納得していた。

進学先には東洋大を勧められた。エースの和田友貴彦も行くという。当時の大阪桐蔭はまだまだ歴史が浅かったが、東洋大には1期生の頃から選手を送り出す関係だった。

井上監督は、あまり考えることもなく決めた。もともと「地元だから」という理由で大阪桐蔭への進学を決めるくらいなので、関東に憧れる気持ちはなく、関東の大学や東都リーグのことはあまり知識がなかったという。

東洋大には高校野球の強豪校や関西の高校出身者も多く、文化や感覚は近いものがあり、チームの雰囲気や寮生活などにはあまり違和感はなかった。ただ、高橋監督には衝撃を受けた。井上は「絶対的な存在」と表現する。何も言わずに見ていることが多かった大阪桐蔭の長澤和雄監督とは対照的に、高橋監督は常に動き回り、毎日グラウンドに怒声を響かせていた。

全日本大学野球選手権で優勝し、胴上げされる当時の高橋昭雄監督(撮影・朝日新聞社)

「高橋監督に比べたらどうってことはない」

井上監督は1年の春からレギュラーとして起用され、打順も中軸を任された。それだけに高橋監督からの風当たりも強かった。「僕自身の実力が足りなかったのですが、とにかくベンチの高橋監督からの圧がすごくて。試合で打席に立っていても、背中から圧力を感じるくらいのプレッシャーがありました。俺は誰と戦ってんの? って感じですよ」と苦笑する。

プレッシャーから逃げてしまう選手もいる。ただ井上監督は試合に出ている責任感もあり、すべて正面から向き合った。「必死になって受け止めていました。野球が嫌いになりそうでしたもん。もうやめようかなって、何回も思いましたよ」

メンタルが強いはずの井上監督でさえもそうだった。

「いや、メンタルを強くしてもらったんです。あの人以上の人物を、僕は見たことがないですから。野球選手としてだけでなく、会社で社業に就いてからも、厳しい人はたくさんいましたけど、『こんなの高橋監督に比べたらどうってことはないな』と思ってました」

余談だが、高橋監督のプレッシャーをモノともしないつわものが1人だけいた。井上の1学年下で、PL学園から入学してきた今岡誠(真訪、現・阪神タイガース打撃コーチ)だ。入学早々にリーグ戦でホームランを連発し、その後も高いレベルの成績を残し続けた。

「今岡はすごかった。高橋監督のプレッシャーを感じていなかったと思います。というか、監督の偉大さに気付いていなかったのかも。僕らはみんな『宇宙人』と呼んでいましたから」。井上監督は爆笑しながら言う。それくらいの選手でなければ耐えられなかった。

阪神時代、2度のセ・リーグ優勝に貢献した今岡(右、撮影・朝日新聞社)

5季連続の2位、あと一歩足りなかったもの

4年間の8シーズン、東洋大は1年生の春のときに3位で、その秋から3年生の秋まで5シーズン連続の2位。優勝校はシーズンごとに変わるが、東洋大は常にあと一歩で優勝を逃し続けた。

「でも、今になって当時を振り返ってみると、僕らは勝負に対して甘かったんですよ。5季連続2位のうち、2度は最後に優勝決定戦で負けて優勝を逃していますから。それも自分たちのミスで自滅です。やっぱり監督のプレッシャーに負けてるようじゃ、相手にも勝てない。そのプレッシャーをはねのけて、相手と勝負しなきゃいけなかったんです。それくらい強くないと、最後の最後で勝てません。だから僕は、厳しさって必要だと思うんです。高橋監督の下で大学4年間やらせていただいて、その後、社会人で10年間現役でプレーしたのですが、勝負に対しては何のプレッシャーもなかったですもん」

井上監督自身は4年間、リーグ戦にフル出場して常に中軸を打ちながらも、数字の上では目立った成績を残していない。通算94試合に出場し85安打、3本塁打。打率は2割6分弱。3年生の春に一度だけベストナインを受賞している。このシーズンでは4番打者を任され、リーグ序盤は4割を超える高打率で打ち続けたが、後半に下降し、終わってみると2割8分3厘に落ち着いた。

「監督のプレッシャーに負けてるようじゃ、相手にも勝てない」(撮影・井上翔太)

もともと勝負師的な性格で、ここで打てば試合が決まるような場面で打席に立つとスイッチが入るが、点差が開くと集中力を欠くところがあった。そういう選手は、トータルでの成績は残りにくい。加えて当時の東都リーグは、各チームの投手のレベルが高かった。駒澤大学には河原純一(元・読売ジャイアンツ)、青山学院大学には倉野信次(元・福岡ソフトバンクホークス)、亜細亜大学には入来祐作(現・オリックス・バファローズ投手コーチ)と各チームにドラフト1位クラスの投手がいて、打ち崩すのは容易なことではなかった。

成績が出ないときも、責任ある打順を担った

それでも高橋監督の選手起用には信念があった。どれだけ成績が出ていなくても、決して代えることはなかった。打順を下げることもしなかった。井上監督には常に3番、あるいは4番といった責任ある打順を任せ続けた。

「僕からしたら、『えぇー、もう外してくれよ』と思ってるんです。それでも使い続けるから、苦しくてもやらなきゃいけない。そういう意味でも鍛えられました。高橋監督は僕の性格も見抜いていたんだと思います。一度外してしまったら、こいつははい上がって来られないヤツなんだって。それに、ほったらかしにされたら『もういいや』って投げ出しちゃうタイプなんで。だから毎日のように、全体練習が終わってからもグラウンドに残って、付きっきりで相手してもらいました。そうやって見てなきゃ、練習をやらないヤツってわかっていたんですよ。あの人は見ていないようでいて、本当に選手一人ひとりをよく見ていましたね」

試合で打てず、チームも負け始めると、監督のテンションが上がって練習量がどんどん増えていった。

「でも、そこでやらなきゃいけないんです。そこで監督に負けられないんで。疲れているという理由で休んだら負けたことになりますから。そうやって練習が出来る体にしてもらえた気もしています」

インタビューを行った部屋には、全日本を制した記念のユニホームが飾られていた(撮影・井上翔太)

4年生の春、ついにリーグ優勝を果たした。勝ち点5の完全優勝だった。このシーズンの東洋大の上位打線は、以下の通りだった。

1番・今岡
2番・川中基嗣(元・読売ジャイアンツ)
3番・井上
4番・清水隆行(元・読売ジャイアンツなど)
5番・小山豪(日産自動車、帝京高校で92年選抜大会優勝)
6番・古川岳幸(本田技研鈴鹿、PL学園で92年選抜大会ベスト8)

まさにスター軍団といえる陣容だった。

「良い選手をスカウトしていたと思います。ただ、ピッチャーの柱がいなかった。それもなかなか優勝まで届かなかった理由でしょうね。実績からしたら僕らの代は和田がエースなんでしょうけど、肩の状態が良くなかったので。一つ下の塩崎(貴史、広陵高校で91年選抜大会優勝)や二つ下の倉(則彦、常総学院で93年夏の甲子園ベスト4)なんかが頑張っていたんですけど」

いま指導する上での礎となった4年間

最上級生になり、同級生たちとは「絶対に優勝しよう」と言い合っていた。

「下級生の頃は『自分たちの代じゃないからまあいいや』みたいな気持ちがあったんです。それが連続2位という結果につながっていたのかもしれません。4年生になって勝てなければ、もう言い訳は出来ないわけですから」

全日本大学野球選手権では、準決勝で東北福祉大の門倉健(元・読売ジャイアンツなど)を打ち崩せず、延長戦の末に3-4と惜敗。「日本一というのももちろん狙ってましたけど、正直、リーグ優勝で気持ち的にはMAXでしたよね」と本音を漏らす。それを聞くと、続く秋のシーズンはボロボロになって最下位争いをしたのも、なんとなく合点がいく。

「さすがに口には出さないけど『最下位だけ早く回避して早く終わろうぜ』みたいな気持ちがなかったと言えば、うそになります。逆に最下位争いになって、最後まで気を抜くことが出来なかったんですが」

そうした大学時代の経験一つひとつが今、選手たちに指導する上での礎になっている。

「4年間、8シーズン、常に集中して戦わなきゃいけない。それとやっぱり『上の代が勝ったってうれしくねえよ』みたいな選手たちでは勝てないと思うんです。下級生でも、本気で優勝したいって思えるようなチームにしなきゃいけない。その点、今の選手たちは学年を超えて仲が良いんです。もちろんそれは良いことで、こういう時代なんだなって見ていて思いますね」

大学時代の経験がいま、選手を指導する上での礎になっている(撮影・井上翔太)

まさかの「サイクルオーバー」

甲子園の印象が強かったせいか、大学でも社会人でも、井上監督にはファンが多かった。それも野球をわかっている年配の人たちだった。「よく玄人好みって言われたんですよ」と言う。ただ職人的なタイプでもなく、やることは派手だった。高校時代は甲子園でホームランキャッチ。大学ではリーグ戦で「サイクルオーバー」があった。

ホームラン、三塁打、単打と打ち、あとは二塁打を放てばサイクルヒットだった。外野手の間を抜いた井上は、二塁ベースを蹴って三塁まで到達してしまった。サイクルヒットを超える、サイクルオーバーだ。大きくリードした試合展開で、次の塁を狙わなくても、誰も文句は言わなかっただろうし、むしろ大記録で盛り上がっていただろう。高橋監督もベンチで「お前、バカかよ」と笑っていた。「そりゃないよ、と思いましたね。だって(次の塁に)行けるのに行かなかったら絶対に怒られるだろうと思って、必死に走ったのに」と悔しんだ。

やり残した宿題を提出するように、松下電器(現・パナソニック)に進んだ社会人野球時代、2001年の都市対抗でサイクルヒットを達成している。

「あの時の教訓があるので、無理せず、止まりました」と井上は笑った。

高橋監督と杉本監督の「中間」スタイルで、1部に復帰を 東洋大学・井上大監督(下)

監督として生きる

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