野球

連載:監督として生きる

甲子園は「行って当たり前と…」 悔しさが指導の原点に 拓殖大・馬淵烈監督(上)

ベンチに戻ってきた選手たちに指示を送る(撮影・井上翔太)

東都大学野球リーグの2部に所属する拓殖大学で、2020シーズンから指揮を執る馬淵烈監督(33)は、明徳義塾高校(高知)の馬淵史郎監督を父に持ちます。歩き方や選手に指示を送っている姿には、父親の面影を感じることも。「まだ駆け出しですから、東都の他校の大監督から、毎試合勉強させてもらってます。修業だ、勉強だという気持ちしかないですね」という馬淵烈監督。連載「監督として生きる」で2回に分けて、選手や学生コーチとの関係性や指導者像に迫ります。前編は、父と過ごした高校時代までを中心に振り返ります。

船で通った少年野球時代

中高一貫の明徳義塾敷地内で生まれ育った馬淵烈監督にとって、将来は野球部に入り、甲子園出場をめざすことは、物心が付いた頃からの自然な流れだった。「寮のドア1枚を隔てたところに、家があって、父は監督。他のスポーツを選べたんでしょうけど、全く考えなかったですね」。一緒に暮らしている父や、身近にいる部員たちが甲子園で活躍する姿に、子どもの頃から憧れた。

小学校低学年のときは、部員たちと柔らかいボールを使って遊んでいた。学年が上がるにつれて、一緒にランニングメニューをするようになった。小学校4年から、地元の少年野球チームに加入。当時は、定期船で通っていたという。「明徳の寮から坂を下に降りていくと、内海が、ぐーっと広がっているんです。車で内陸を大回りすることもできるんですけど、両親も忙しい。船の方が30分ぐらいで着いて、誰の力も借りずに、子どもたちだけで行けるんで。でっかい船とすれ違うときは、めっちゃ揺れましたね」。寝坊したときに、船着き場まで2kmほど走って向かったことが、思い出に残っているという。

「この春もちょっと歯車が狂ったら、最下位だと思っていました」(撮影・井上翔太)

甲子園優勝メンバーにスイングを教わる

明徳義塾中学に入ると、少しずつ「馬淵監督の息子」であることを意識せざるを得なくなった。

基本的には同じ敷地内にある中学生向けの寮に入っていたが、たまに家に帰ることもあった。自身が中1のとき、森岡良介さん(元東京ヤクルト・スワローズなど)らを擁した明徳義塾は、第82回全国高校野球選手権大会で初優勝。当時、2年生でレフトのレギュラーだった沖田浩之さんから、バッティングを教えてもらうことがあった。

「帰ったときに、沖田さんが親父に呼ばれて『お前、バット振ってみろ。お手本を見せてみろ』って言われて、沖田さんが振っているのを『ありがとうございます』という気持ちで見ていました」

ただ一方で「親父がいるから試合に出られるんだろ」と、快く思わない中学の先輩もいた。

帝京平成大の河野和洋監督(右)は明徳時代の先輩だが、「5敬遠の記憶はない」(2020年、撮影・朝日新聞社)

中学生では処理できない、先輩の視線

「スーパー先生権力、って言われてましたね。高校生ならまだ精神的に大人になってますけど、中学生のメンタルでは、処理しきれなかったです。他にも明徳の先生の子どもが選手としていましたけど、やっぱりみんな悩んでました。今となっては、いい勉強をさせてもらったと思いますけど、当時は悔しかった思いが強かったですね」

このとき、明徳中の監督を務めていた狭間善徳さん(明石商業高校監督)に現状を相談したこともあった。一緒に対処法を考えるうち、選手の立場としては「実力で試合に出る」という決意を固くするほかなかった。「力があるからレギュラーになって、周囲を黙らせる。だから圧倒的に努力するしかないなと思いましたね」

中学の最上級生になったときは、「3番・ピッチャー」を任されるようになった。ただ全国大会への道のりは険しく、高知県大会の準決勝で敗れた。1学年上と1学年下は、いずれも日本一。そこに挟まれた世代となってしまった。

審判に選手の交代を告げる。「今年は今年で課題がいっぱいあります」(撮影・井上翔太)

「華やかな世界がある一方、勝負の厳しさ」

明徳義塾高校に進むと、本当に監督と選手の関係になった。最初は違和感があった。「親父に敬語でしゃべるって、できます? でもしょうがないですよね、監督ですから」

高校でも全国の舞台には、縁がなかった。ベンチ入りメンバーではなかったが、1年夏は当時の戦後最多記録となる8年連続出場を決めたにもかかわらず、不祥事で出場辞退となり、幻に消えた。そこから低迷が続き、主将として臨んだ最後の夏は、高知大会の決勝で涙をのんだ。

「甲子園は身近な存在でしたし、『行って当たり前』だと思ってたんです。でも何年も連続で出場する裏には、敗者がいたんだ。行けないチームがあったんだということを、初めて知ったんですよね。華やかな世界がある一方で、そこで負けて悔し泣きをする。勝負の厳しさというか、いいことだけじゃないことは、身をもって知りました」

明徳義塾時代(右端)は、父の史郎さん(左端)のもとで野球に打ち込んだが、甲子園には手が届かなかった(撮影・朝日新聞社)

このときに感じた悔しい思いが、指導者としての原点となる。

指導者は自分だけ、だから学生コーチや選手の成長がある 拓殖大・馬淵烈監督(下)

監督として生きる

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