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連載:監督として生きる

JR三ノ宮駅で培った「コミュ力」を指導に生かす 京都大学・近田怜王監督(下)

選手の交代を告げる京都大学の近田怜王監督(撮影・すべて朝日新聞社)

京都大学の近田怜王(れお)監督は、兵庫・報徳学園高校のエースとして3年夏の甲子園でベスト8に入り、2008年秋のドラフト3位で福岡ソフトバンクホークスに入団した。だが、分厚い戦力の中で頭角を現すことができず、1軍での登板がないまま、12年秋に戦力外通告を受けた。その後、トライアウトを受験。それを知ったJR西日本の後藤寿彦総監督(当時)から声がかかった。

勝ち点2の躍進、原点は選手と約束した「当たり前」 京都大学・近田怜王監督(上)

電車が遅れて怒られるのが「新鮮」

「後藤さんは、僕が高校時代に甲子園で投げた試合の解説をしていたそうで、気にかけてくださった。『指導者をめざすなら、社会人野球を経験するのはプラスになる』と」

JR西の野球部では都市対抗野球にも出場し、3シーズンで引退した。15年冬から社業に就いた。

まず、神戸市のJR三ノ宮駅で駅員を務めた。意外なことに、電車が遅れてお客さんから怒られることが「新鮮だった」という。「電車が遅れると、すごく怒られるんですよ。自分がやらかしたわけでもないのに。ただ、僕は野球のプレー以外で怒られたことがなかったので、めちゃくちゃ新鮮で楽しいというか」

「そこで頭を下げて、話をすると、お客さんも理解してくれて、気持ちよく帰ってもらえることがある。コミュニケーションを繰り返していくことで、『ああ、こういうことで人は怒っているのか。こう話すことで、なだめられるんだな』といったことが理解できるようになった」

兵庫・報徳学園時代は、甲子園で活躍した

車掌の資格を取るため、猛勉強で発熱

そんなサラリーマン経験が、今の野球指導にも生きている。

「選手が何を求めているかを察知したり、何に悩んでいるのかを聞き出したりと、コミュニケーションの面で役立っています。人間関係で言えば、例えば審判にボークを取られると、投手は不満な顔をしますよね。不満を表して審判の印象を悪くして、それがチームのためになるのか、と。そんな話をします。でも、僕が野球しかやっていない人間だったら、選手と一緒になって審判に文句を言っていたかもしれません」

余談だが、車掌の資格をとるために猛勉強したことも、いい思い出だ。運賃の計算、切符の種類、レール幅、鉄道の歴史、法規法令……。「研修所に1カ月間、泊まり込みで勉強するんですけど、大変でした。中間試験があって、約100人の中で下から3番目やったんですよ。これはやばいと思って、初めて勉強しすぎて熱を出しました(笑)」

試合後のミーティングでは、熱っぽく選手に語りかける

中継ぎの経験から力を入れる球数管理

京大のコーチに就任したのは17年1月。JR西の上司に元京大監督の長谷川勝洋さんがいて、指導を打診されたのがきっかけだ。

「レベルが低いと聞いていたので、練習を見たときはびっくりしました。併殺は完成させるし、普通やんと。一番驚いたのは、選手たちがワイワイ楽しそうに野球をやっていた点です。僕が経験してきた『耐えながらやる野球』とは違いました」

コーチとして3年目、19年秋には4位に躍進した。投手陣の指導で力を入れたのは、プロでの中継ぎ経験を踏まえた球数管理だという。

「ブルペンで投げ過ぎてはいけない。不安だからと投げてしまっては、マウンドに上がったときには疲れている。割り切って減らしました」

練習では、自らその左腕を振って打者を評価する

また京大には、他大学のように140キロ台を投げる投手も少ない。「例えば直球が110キロしか出ない投手には、逆にもっと遅い直球を投げてみたらと提案しました。直球もスライダーもフォークも全部100キロなら打ちづらいよと。もちろん、普段の練習で球威を伸ばすトレーニングをしながら、ですけど」

そんな指導が徐々に浸透し、京大は力をつけてきた。20、21年の助監督を経て監督に就いた近田監督は振り返る。「僕は高卒だけど、学生とは年齢が近いこともあって、壁とか気後れはなかったですね」。選手たちもコーチ、助監督時代からの流れで「近田さん」と呼んで親しんでいる。

32歳の青年監督と秀才野球部が、大学球界に新風を吹き込んでいる。

監督として生きる

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