ラグビー

連載:監督として生きる

10年後、20年後の未来を見据え、指導も退任の決断も 帝京大学・岩出雅之監督3

帝京大学の岩出雅之監督は10度目の大学日本一を決めた直後に退任を表明した(撮影・朝日新聞社)

帝京大学ラグビー部を26年間指導し、関東大学対抗戦と全国大学選手権をともに10度制した岩出雅之監督(64)。連載の最後は、チームも指導者としてもまだまだ余力を残した中で退任を決意した理由などを聞きました。

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コツコツ努力、学生スポーツで味わう感動の1ページ

「チーム充実、一番いい時に渡せる」

1月9日、第58回全国大学選手権の優勝会見の最後、岩出監督は「ちょっといいですか……」と断りを入れた上でこう話した。

「いろんな考えを持って大学とも相談して、勝っても負けても今日で監督を終わりにしようと思っていた。26年間、監督をさせてもらったが、帝京大の監督はこの試合で引退させてもらいます。後任も決まっているので、次の監督がしっかり頑張ってくれると思います。一番、チームが充実して、一番いいときに渡せたと個人的に思っています。ありがとうございました」

関東対抗戦も10度目の優勝。選手を温かく迎える(撮影・斉藤健仁)

まず、今季で監督を辞めようと思った意図をあらためて聞くと「区切りとなる65歳まではもう1年ありますし、あと2~3年は正直、意欲を持ち合わせています。ただ後任の監督が『やりたい』という気持ちを一番、持っているときにやらせてあげることが一番です。また実際に僕があと2~3年年やるとしても、これから20年、背負ってもらうことを考えたら早くやらせてあげたほうが最初の1~2年の経験が活(い)きると思い、昨年の12月に決断しました」と話した。

数年先ではなく、10年後、20年後、その先の帝京大学ラグビー部を考えての決断だった。

岩出監督は、いろんなタイミングがある中で何人かに絞って後任監督候補者にアプローチしていたという。大学側や、後任の監督の人生、家庭などを巻き込み決断しないといけないことがある中で、コミュニケーションを取りつつ、母校愛もあり力量がある指導者が「やる」と決めてくれたという。

岩出監督自身はラグビー部の肩書きはなくなり、直接的な指導からは離れるものの教育者として帝京大学には残る。後任監督の具体的な名前は3月10日の会見で発表される。岩出監督は後任監督に「○○流を出してもらうためにも原理原則は変えない方がいい。その見極めは簡単ではないと思うから、もしアドバイスがほしかったら言ってね。相談に乗るよ」と話している。

日本体育大学で主将、八幡工高を花園常連に

和歌山県出身の岩出監督は新宮高から日本体育大学へ進み、フランカーとして大学日本一に貢献、主将も務めた。教員を志し、滋賀県で採用されて、中学校の教諭やバスケットボール部の顧問などラグビーと関われない時期もあったが、八幡工高を花園(全国高校大会)の常連校に導き手腕を発揮した。高校日本代表などの指導を経て、「大学でラグビーを指導したい」という思いから、1996年に帝京大学ラグビー部の監督に就任した。

最初こそなかなか結果がでない時間が続いたが、日本代表HO(フッカー)堀江翔太(埼玉)がキャプテンだった2007年度からは19年度以外の14シーズンは大学選手権でベスト4以上の常勝軍団に。もちろん09年度からの9連覇は前人未踏の金字塔である。

流大主将(前列中央、東京SG)の時は圧倒的な強さでV6を達成した(撮影・上田潤)

「40代は若かったです。遡(さかのぼ)れば遡るほど目の前のことだけを一生懸命にやっていました。今、自分が1年生に言っていることが、4年生になって活きるのか、20代、30代で活きるのか。目の前のことも大事にしながら、学生たちの4年間を大切にしつつ、それだけでなく未来を見据えるというスタンスに変わっていったことが結果につながったんじゃないかなと思います」(岩出監督)

岩出監督がよく覚えていることがある。それは後に日本代表になって3度のワールドカップにも出場することになるFW第三列だった堀江がキャプテンの代のことだった。

「春先に、堀江らとチームの目標に関して打ち合わせしていて、『なぜそんなに勝ち負けにこだわるのか』という答えを求めると、漠然と抽象的だけど『幸せに向かっていこうよ』という話になりました。今季、細木(康太郎)主将たちに話した『正しい方向に向かっていこう』という言葉に似ていますが、自分たちが幸せに向かっているんだったら、失敗してもいいじゃないかと思うようになりました」(岩出監督)

「ダブルゴール」を求めて

その頃から岩出監督の中では「ダブルゴール」という考えを柱に指導を始める。「目先の勝負にすごくこだわっていると思われがちですが、そうではないのです……。4年間の大学スポーツとして、結果を含めて活動をしっかりやりますが、それは実際、未来につながっていく。常にこういう考えの下に練習、学生の全般的な生活の基盤軸を置いたことが大きかった」と語気を強めた。

最近15年間で14回の大学選手権で準決勝を越えているだけでなく、ラグビー日本代表やリーグワンで活躍する選手を多数輩出できたのも、こうした監督の信念に基づく指導が大きかったというわけだ。

V5の時の主将の中村亮土(右、東京SG)とV7の坂手淳史主将(埼玉)。日本代表に欠かせない(撮影・朝日新聞社)

「勝負事ですから競争があり、100人を超える選手が試合に出ることはできない。それはそれで現実としつつ、だからこそ、そこの中にもまたダブルゴールの意味がある。腐らずに挑戦し続けるかどうかが未来にもつながっていくし、そういった価値観を文化にすることができる。

また苦労しているときや大変なときに、どれだけ寄ってあげるか、寄り添える位置で見守るようにもしています。でも130人の部員全員に暖かい愛を注いでいるつもりでも、そう思ってもらえないことが常ということは覚悟しています。だから僕らはできることを、今の段階で精いっぱいサポートし、今と未来に繋(つな)がるようなアプローチをしていくことを大事にしています」(岩出監督)

卒業式で岩出監督はよく「結果として幸せな4年間だったかもしれないけど、もっと幸せな未来はこれからにある。そういう人生にしろよ。そうでないと過去のことばっかり話し出してしまう。いつも、今が幸せとなるような未来になるように頑張ってほしい」という言葉を贈るという。

「大学生活は大切な4年間ですが、大切な未来のために生きていくための4年間にしてほしい。学生時代が宝物になってもいいけど、過去だけが自分の人生の宝物じゃなくて、そこにすがるのではなく、挑戦し続ける未来にしてほしい。何よりそうできる自分を支え続けるような若者でいてほしいし、それから年を追うごとにいい味を出した人生にしてほしい。それが僕は幸せに向かっていくことかなと思っています」(岩出監督)

初優勝のインパクト、教育界に貢献を

あらためて大学でラグビーを指導した26年のキャリアについて、岩出監督は「四半世紀、帝京大ラグビー部の監督をやらせていただきましたが、僕もここまでやらせていただけると思ってなかった。失敗も多くありましたけど、少しずついい経験をさせてもらって、いいことに繋がって本当に充実した26年になった。贅沢(ぜいたく)な監督人生だったのではないかと思います」としみじみと振り返った。

過去26年間、監督として、どの試合が印象に残っているかと問うと「今回の優勝も9連覇の時も、どの優勝にも毎回、思い入れはあります。連覇のときは連覇の嬉(うれ)しさがあり、いろんな醍醐味がありました。でも結果、優勝が続いてしまったので、やはり初優勝したときのインパクトが一番、大きかったです。学生たちの爆発するような喜びと同じように僕らも内心では嬉しかったですね!」と大きな笑顔を見せた。

2009年度に初の大学日本一になった時は51歳だった(撮影・細川卓)

「僕はまだ教育界にいますから、自分にエネルギーがあるなら、教育界できちっとしたことをやりたいなと思っていますし、そういう方向でいます」。64歳となった岩出監督はラグビーという枠組みではなく、今後も教育者として若者のサポート、手助けとなる活動を続けていく。

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