甲南大LB木村海晴 大けが重なり4度の手術、あきらめなかったから仲間と笑えた
アメリカンフットボールの関西学生リーグ1、2部の入れ替え戦は昨年12月14日にあり、2部2位の甲南大学レッドギャングが28-14で1部7位の桃山学院大学を下し、2年ぶりの1部復帰を決めた。ディフェンス第2列のLB(ラインバッカー)としてチーム2位の7.5タックルを記録した木村海晴(みはる、4年、仁川学院)は、入学直後に大けがを負い、2年生の冬にも負傷。計4度の手術を経て、ようやく3年の夏から本格的に戦列に加わった。小1で始めたフットボールを諦めようかと考えた時期もあったが、仲間たちの支えもあって最後は心から笑えた。
入れ替え戦で繰り出したトリックプレー
甲南大は2023年を1部で戦ったが、入れ替え戦で2部の大阪大学に0-3で敗れて転落。24年の秋シーズンはリーグ戦の上位対決が始まるとオフェンスが攻め手を欠き、第4節の京都産業大学には10-7の辛勝。続く格上の同志社大学戦に14-14と引き分けられたことで少し気が緩んだ面があり、第6節の大阪公立大学戦で7-9と初黒星。ここで立て直し、最終戦で龍谷大学を13-7と破って入れ替え戦までこぎ着けた。桃山学院との入れ替え戦は、久々にオフェンス、ディフェンス、キッキングの3部門がかみ合い、甲南不利の下馬評を覆した。
第2クオーター(Q)に入ってすぐ桃山のRBに先制の独走タッチダウン(TD)ランを許したが、甲南LB大島智則(4年、宝塚東)が相手のパスを奪い、25ydのリターンTD。7-7に追いついた。後半最初の甲南オフェンスでルーキーQB阪本幸之助(箕面自由学園)が75ydの独走TD。14-7と勝ち越すと、直後の相手オフェンスで木村がインターセプトを決める。このチャンスにQB阪本が2023年の1部のリーディングレシーバーである福田竜飛(4年、箕面自由学園)にTDパスを決め、21-7と突き放した。
21-14で迎えた第4Q終盤、甲南が敵陣へ入った。ゴール前28ydからの第4ダウン11yd。フィールドゴール(FG)の隊形にセットした。ディフェンスの選手である木村だが、キッカーのためにボールを置くホルダーも兼任していて、いつも通りボールから7yd後方にセットした。木村はスナップされたボールを少しジャッグルしたが、何とか地面にボールをセット、と思いきや、左へ走り出したキッカーの森元諒陽(あさひ、4年、大阪学芸)へトス。FGフェイクのトリックプレーだった。森元は無人の左オープンを駆け抜けて攻撃権を更新し、ゴール前4ydで外へ出た。最後は2023年に1部でラン部門3位の記録を残しながら、ラストイヤーはけがに苦しんだRB下田宗太(4年、滝川二)が3ydを持ち込み、試合を決めるTD。そしてレッドギャングに歓喜の瞬間が訪れた。
「1年前に入れ替え戦で阪大に負けて、目の前でビクトリーフラワーをやられて、それまで味わったことのない感情が湧いてきました。1年頑張って阪大に勝って1部に上がろうと。けがに苦しんだ4年間でしたけど、最後は両親を始め支えてくれた人たちに恩返しできる形で終われてよかったです」。木村は満面の笑みでそう言った。
入学まもなくの練習試合で膝を大けが
兵庫県西宮市で生まれ育った。物心つく前から、木村がフットボールをやることは決まっていた。立命館大学出身の父・光昭さんは野球に打ち込んできた人だったが、QB高田鉄男やWR木下典明らによるパンサーズの黄金時代を目にして、息子にはアメフトをやらせたいと強く思ったそうだ。待望の長男として生を受けた木村は、幼いころから父に連れられてアメフトの試合観戦に行った。木村は「なんか人がぶつかってるな、と思っただけでした」と笑う。小学生になるときに専門店の「QBクラブ」に連れて行かれて防具一式を買ってもらった。気づけば小学生タッチフットボールクラブの上ヶ原ブルーナイツでフットボール人生が始まっていた。
中学生になると兵庫ストークスに入った。そこには2024年度に関西大学カイザーズのキャプテンを務めた須田啓太がいた。須田とは家が近く、小中学校の同級生でもあったが、チームメイトになったことでさらに仲よくなった。木村は高校受験で啓明学院に不合格。仁川学院でフットボールを続けることになった。ポジションはワイドレシーバー(WR)兼ディフェンスバック(DB)だった。「昭和のフットボールでした」と木村。オフェンスはセットバックからのランをひたすら続けるチームで、3年の秋は県予選のトーナメント初戦で県立星陵に10-12で敗れ、高校フットボールが終わった。
上ヶ原ブルーナイツで1学年上のQBだった竹原隆晟や高校の先輩がいたこともあり、当時2部だった甲南大学への進学を決めた。憧れだった大学フットボールの世界に足を踏み入れた矢先に、状況が暗転する。入学してまもなくの練習試合にDBで出たとき、相手の低いブロックをまともに食らってしまい、膝(ひざ)に大けがを負った。医師には「少なくとも2回の手術が必要で、アメフトを続けられるかどうかは分からない」と告げられた。これまで大きなけがとは無縁だったこともあり、一気に谷底へ突き落とされたような気持ちになった。
そんなとき、関大一高から関大に進んでいた須田は「けがはチャンスやから。体を強くして戻ってきたら、もっと活躍できるから」と言ってくれた。木村は須田が中3のときに大けがを負ってから、同世代トップクラスのQBに成長するまでの姿を見ていたから、その言葉がスッと入ってきた。もちろん甲南の同期や先輩も親身になって励ましてくれた。
元日本代表WRの前田直輝さん(現・Xリーグ胎内ディアーズ)が、膝の大けがから10カ月後に復帰した試合でタッチダウンを決めたという記事を読むと、「俺もできる」と感じ、つてを頼って前田さんと電話で2時間もしゃべらせてもらった。「そうやっていろんな人にお世話になるうち、復帰して活躍するのが恩返しやと思うようになりました」。キツいリハビリにも耐えた。その間、レッドギャングは1部復帰を果たし、木村は2年生の12月に約1年半のときを経て戦列に戻った。2部の大阪公立大との入れ替え戦では、高校時代から経験のあったキック時のホルダーとしてだけ出場。36-26の勝利を支えた。
2度目の復帰初戦で親友・須田啓太のパスをカット
1部に残って「さあこれから」というところで、再び試練が木村を襲う。入れ替え戦の1カ月後に再び膝を痛めたのだ。最初のけがと合わせると、4回もの手術を受けることに。「さすがに『もうアメフトはできひん体なんやな』と思いました」と振り返る。このときばかりは周りの人たちも「続けたらええねん」とは言わなかった。「僕自身が考えなアカンことやねんなと。小学校1年からやってきて、小中高のチームメイトが大学フットボールの世界で活躍してるのに、このままやめてしまうのは違うなと思って、またリハビリを頑張ることにしました」
そして3年の夏、2度目の復帰を果たした。3年目にして初めて出場する秋のリーグ戦。DBのスターターとして迎えた初戦の相手は、須田がエースQBとして君臨する関大だった。「やったろう」。木村は燃えていた。DBの中でもフィールドの中央付近で「最後の砦(とりで)」となるSF(セーフティー)として、試合を通じて須田と向き合った。7-14で迎えた第2Q終盤、関大に自陣へ入られたところからの第3ダウン8yd。須田の投じたミドルパスに飛び込んで左手でカット。ほとんど何もできなかった2年あまりの思いがあふれ、何度もガッツポーズを繰り返した。須田は試合後に「インセプされたかと思ったわ」と苦笑いで言った。後半は地力の差が出て突き放されたが、木村のフットボール人生に最も深く刻まれる試合になった。
ただ、2年以上のブランクは大きかった。「3年のシーズンは長年の勘だけでやってました。1部ではそんなんじゃまったく通用しませんでした」。1勝5敗1分けの7位で2部の大阪大学との入れ替え戦に回ると、0-3で敗れて2部に転落した。
ラストイヤーでDBからLBに転向
DBとしてやってきた木村は春合宿からアウトサイドのLBにコンバートされた。LBの人数が足りないことと、けがをしてから木村のスピードが少し落ちていたのが要因だった。少しオフェンスまでの距離が近くなるだけで、これまでと景色がまったく違う。自分のことで精いっぱいになりすぎて、周りが見えずにミスをした。そんなときに支えてくれたのは、OBで就任したばかりの小田貴洋監督だった。「ちょっとずつレベルを上げていったらいいから。お前やったらいけるから」。ずっと前向きな言葉をかけてくれた。今シーズンのディフェンスが安定していたのは、小田監督が始めた「タックルサーキット」という練習が大きかった。3種類のタックル練習を、間を空けずにポンポンやっていく。ハアハア言いながらも、集中してタックルを繰り返すうちにディフェンスの力が上がっていった。
さらに木村は春シーズンの最終戦からインサイドのLBを任されるようになった。毎プレーのように大きなOL(オフェンスライン)と戦わなければならない。「OLのブロックを処理してボールキャリアーまでいく動きが全然ダメで、秋のシーズン終盤になっても必死でそこをやってきました」。練習の前後にキャプテンでOLとDLの両面で出場している疋田敬久(4年、箕面)に頼んで当たってもらった。体重72kgの木村は112kgの疋田にぶっ飛ばされながら、当たり方を試行錯誤していった。「体を慣れさせるために一番強いヤツと練習しました。ヘッドコーチの砂川(敏樹)さんが手の使い方からすべて教えてくださったおかげで成長できたと思います」
入れ替え戦でインターセプトリターンTDを決めた同期のLBの大島からも、いろいろ教えてもらった。「大島のやってるテクニックを盗ませてもらったのもいくつもあります。学部も同じでずっと一緒にいたんで、試合中の急なコミュニケーションもうまくできました」
選手が40人あまりと少ない甲南は試合の終盤に体力負けしないよう、走り込みに力を入れてきた。今シーズンはとくに春から走りまくり、走り抜いた自信も選手たちの中に蓄積されて秋のシーズンを迎えた。前述のようにオフェンスが苦しんだ時期もあったが、入れ替え戦も含めた8試合で平均失点8.3とディフェンスが崩れず、2年ぶりの1部復帰で終えられた。
大阪公立大戦でLBの前後のゾーンを狙うパスを決められ続けた反省から、徹底して対策を打った。そして入れ替え戦出場を決めたリーグ最終戦、入れ替え戦と木村がインターセプトを決めた。春にLBにコンバートされた当初はOLと当たるのが怖かった。でもそこから逃げず、ボロボロになりながら当たりの練習を繰り返したから、少しずつ余裕を持ってプレーできるようになった。チームの運命を大きく左右した二つのインターセプトは、木村のLBとしての成長の証しだ。こんな4年生のいるチームはしぶとい。
海のようにでっかく、きれいに晴れた心を
最後の秋のシーズン中は月に1回のペースで兵庫県丹波篠山市へ出かけた。須田と、もう一人の親友と3人で。須田が自慢のキャンプグッズの数々を持ってきて、食べて飲んで話した。話し込んでいると、須田のキャプテンとしての苦悩が言葉ににじんでくる。「頑張っとんな。俺もやらな」。木村はいつも気持ちを一段階上げて、フットボール漬けの毎日へ戻っていった。
「4回も手術した僕を一番近くで見守って、助けてくれた両親に感謝しています。それと同期ですね。2年間もいなかったヤツが戻ってきて急に試合に出るってなったら嫌な気持ちになってもおかしくないと思うんですけど、そんなことは何も言わずに温かく迎えてくれてプレーに集中できました。ほんまに感謝しかないです」
海晴という名前は「海のようにでっかく、きれいに晴れた心を」との父の思いが込められているという。どん底の時期を2年も経験したが、いろんな人に支えられて晴れ晴れとした笑顔で終われた。