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連載:4years.のつづき

甲南大アメフト部OB福島雅弘さん(上)スポーツ推薦1期生として奮闘、43歳で難病に

雨の中、コーチを務める山口東京理科大の選手と母校の後輩たちの合同練習を笑顔で見守る福島雅弘さん(近影はすべて撮影・篠原大輔)

大学生アスリートが競技に打ち込んだ4年間は、のちの人生にどんな意味を持ってくるのか。甲南大学アメリカンフットボール部「レッドギャング」のOBである福島雅弘さん(51)は43歳のとき、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の診断を受けた。いまは人工呼吸器をつけ、山口県宇部市の自宅で療養している。福島さんは「こういう病気になって死をリアルに感じたとき思い出すのは、やはりあの4年間でした」と振り返る。

2021年から山口東京理科大のコーチ

6月下旬、福島さんは六甲アイランド(神戸市)にある甲南大学のグラウンドに車いす姿でやってきた。2021年から山口東京理科大学アメリカンフットボール部「ボールパイソンズ」のコーチを務めていて、福島さんが甲南大に合同練習を依頼し、実現したからだ。

最初にクラブハウスの一室で両校部員の顔合わせがあった。ALSは体を動かすための神経が障害を受け、少しずつ全身の筋肉が動かなくなる病気で、福島さんは目や口元など一部の筋肉しか動かせず、話すことも書くこともできない。事前に福島さんが視線入力装置で用意したあいさつ文を妻の真理さん(46)が読み上げた。

合同練習の顔合わせで福島さんのあいさつを代読する妻の真理さん(右端)

「わたしが2021年から関わっている山口東京理科大学アメリカンフットボール部は、2016年の創部と誕生してから10年にも満たない若い組織です。そこで、歴史もあり、長年にわたって学生アメフト界のトップリーグでしのぎを削ってきたレッドギャングとの交流を通じて、プレー面の技術的なことだけでなく、大学スポーツにおける組織の在り方から、具体的なチーム運営までを学ばせていただこうと思いました。未熟者ばかりですが、レッドギャングの皆さん、どうぞよろしくお願いします」

次に福島さんはアメフト部の部室へ。入るのは卒業以来だったが、すぐに自分が荷物を置いていた場所を目でとらえ、笑顔になった。福島さんは透明文字盤を介して「不思議なほど変わってなくて驚きました。僕はにおいが分からないからよかった」と笑わせた。部室のすぐ近くにはシャワールームが。福島さんと浪速高校(大阪)時代から7年間一緒にアメフトに取り組み、合同練習を見守った西尾陽樹さん(50)が、当時のエピソードを教えてくれた。「めっちゃ筋トレが好きな先輩がいらっしゃいまして、僕と福島がよくその方にお誘いいただいたんです(笑)。ほんまに限界までやるんで、終わったら腕が上がらへん。シャワールームに入るんやけど自分では頭を洗えないから、福島とお互いに洗いあいました(笑)」

卒業以来で入った部室で。「不思議なほど変わってなくて、笑えるほどうれしかった」

中四国学生リーグ2部の山口東京理科大からはヘッドコーチと選手3人、マネージャーの計5人が参加。関西学生リーグ2部の甲南大には高校時代からのフットボール経験者も多く、当たりやプレースピードでは大きな差を見せつけられていたが、それぞれが必死に食らいついた。そして雨の中、最後のメニューとなったシャトルランでは負けていなかった。練習後、福島さんの周りに集まった山口東京理科大の選手たちが「初めての練習もあって勉強になりました」「久々に燃えたぎるようなものがありました」と感想を口にすると、福島さんは「ええやん。そのために来たんやから。はよ風呂入れ!」と返した。

身の回りの世話をしてくれる学生は透明文字盤を手に、福島さんの視線に全集中

中学まで野球少年、黒田博樹さんとバッテリーも

もともと福島さんは野球少年だった。広島東洋カープやメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースでピッチャーとして活躍した黒田博樹さん(49)とバッテリーを組んだこともあった。しかし高校野球の道には進まず、浪速高でアメフトを始めた。前出の西尾さんが振り返る。「僕はアメフトやろうと思って浪速に行きました。入学して間もなくアメフト部の練習を見てたら、『アメフト部入るん?』って話しかけてきたヤツがいた。それが福島との出会いです。ほんで『明日から一緒に行こう』って話になったから授業が終わってアイツの教室行ったら、おらん。聞いたら『もう部活行ったで』って。なんでやねん、と。高校時代からそういうタイプなんです」

福島さんはQB(クオーターバック)になり、西尾さんはDB(ディフェンスバック)に。同じ代にはいい選手が何人もいて、「3年のときに(秋シーズンに高校日本一を決める)クリスマスボウルへ行こう」と言い合っていた。高3の春は大阪の準決勝で箕面自由学園に大敗。それでも「この代は強い」と思ってくれた強豪大学出身のOBが練習に来てくれるようになった。「打倒箕面自由」で夏合宿は食事の時間も惜しんで練習した。照明が消えても走ることはできる、と夜遅くまで練習は続いた。

ある日、夜のランメニューの途中で西尾さんがひざに手をついていると、福島さんが近寄ってきて、「うつむくな、後輩らが見てる」とささやいた。福島さんにはそういう厳しさ、アツさがあった。待ちに待った秋の大阪府大会で再び箕面自由学園と対戦。リードして最終盤を迎えたが、逆転負けを喫した。これで福島さんと西尾さんの高校フットボールは終わった。箕面自由学園は高校日本一まで上り詰めた。

福島さんとともにスポーツ推薦1期生としてレッドギャングに入った西尾陽樹さん。トークが巧みだ

努力を決して人に見せなかった

その1991年、甲南大学アメフト部はスポーツ推薦入学の1期生3人を探していて、浪速高からは福島さんと西尾さんが受験することになった。そしてそろって進学が決まった。当時甲南大のヘッドコーチだった阿倉智明さんは、こう振り返る。「福島君を初めて見たのは高2のとき。細かったけどスピードランナーであり、コンタクト時の追い切りのよさが印象的でした。ただがむしゃらに前へ。決してあきらめない。受験資格ギリギリの成績で本番を迎えて、筆記試験のあと笑顔で私に『できませんでした!』と報告してくれた。常に『何とかなる』と思ってるんだなと、不思議なたくましさを感じました」

1992年春に甲南大へ入学すると、福島さんはRBになった。レシーバーとしても起用され、時にランの動きからパスを投げた。1年生から試合には出たが、阿倉さんによると「当たることを恐れないから、どうしてもけががついて回った」。次に記す福島さんの個人記録からも、そんな4年間が読み取れる。

1年生(関西学生2部Aブロック5勝1分け)
ラン 3試合9回55yd、1TD
パス捕球 1回21yd
2年生(2部Aブロック6戦全勝)
ラン 2試合11回99yd、2TD
3年生(1部3勝4敗)
ラン 6試合27回63yd
パス 1投1成功18yd
パス捕球 2回9yd
キックオフリターン 5回48yd
4年生(1部3勝4敗)
ラン なし
パス 1投0成功、1INT
パス捕球 6回23yd
キックオフリターン  7回99yd

福島さんは決して努力を人に見せなかった。西尾さんが言う。「講義が休講になると、クラブハウスのトレーニングルームへ行って一人で筋トレやってました。ほかの部員が練習に出てくると、何げない顔をして話に交じってる。仲間内でトレーニングの話になると、『もうええやん、そんなん』って。めんどくさいでしょ(笑)」

3勝4敗で終えた4年生のリーグ最終戦直後に同期で(70番の選手の左上が福島さん、西尾さん提供)

阪神大震災で始まった大学ラストイヤー

4年生になる前の1月17日に阪神大震災に見舞われた。レッドギャングの多くの部員やスタッフが被災し、チアリーダーの田中舞さんが亡くなった。グラウンドのある六甲アイランドには仮設住宅が立ち並んだ。「アメフトやってる場合ちゃうんちゃうか?」との声もあり、不安だらけの新チーム始動だったが、新監督に就いた阿倉さんが「苦難のときだからこそ、平常通り活動していく」との姿勢を打ち出し、約120人の部員たちは前を向いた。いろんな思いを抱え、本番の秋のシーズンを迎えた。

リーグ2戦目の関西学院大学戦では15-3とリードして試合を折り返した。副キャプテンの福島さんはトリックプレーからのパスをインターセプトされたが、レシーバーやリターナーで奮闘。大金星への期待に西宮スタジアムの甲南ファンは盛り上がったが、終盤に逆転されて15-30で敗れた。前年大学日本一の立命館大学にも15-31と食い下がり、挑戦者魂は示した。

このシーズン後、アメフト専門誌の読者投稿ページに「命の恩人」というタイトルの文章が載った。自殺を考えたことがあったという女性による投稿だった。関西学生リーグの試合を観戦に行き、負けたチームの選手たちが人目もはばからずに泣く姿を見て「どんな心境なんだろう」と思ったとき、「死のう」なんて思っていた自分が恥ずかしくなった、という内容だ。その中に「震災のダメージも小さくなかった甲南大もなんと強かったことでしょうか」との一文があった。西尾さんは「あれはほんまにうれしかった」と振り返る。大学生活の最後に平坦(へいたん)でない1年をともに過ごし、闘い抜き、福島さんら30人の同期には特別な絆ができた。

甲南大との合同練習で緊張気味にあいさつした山口東京理科大の部員たち
甲南大アメフト部OB福島雅弘さん(下)仲間との「終活」、みんながくれた生きる勇気

4years.のつづき

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