北野建設・松岡晃輝(上)走り幅跳びを「ロジカルに追求」した大東文化大学での4年間
大東文化大学時代に陸上競技の走り幅跳びに取り組み、卒業後は北野建設で陸上とボブスレーの「二刀流」として奮闘している選手がいる。松岡晃輝(まつおか・こうき)。今回の連載「4years.のつづき」前編では、「最高に苦しくて、最高に楽しかった」と振り返る大学までの陸上人生をたどる。
当初は陸上競技に魅力を感じていなかった
松岡は東京都板橋区出身。幼い頃からぜんそくがあり、肺や心肺機能を強くするために、小学1年から6年まで水泳に取り組んだ。並行して小学2年からドッジボールも始め、地元開催の規模が大きい大会で4位。昼休みはドッジボール、放課後は鬼ごっこと体を動かすことが大好きで、性格は「負けず嫌い」。当時から勝つことにこだわり、闘争心が強かったという。ドッジボールではキャプテンを務め、「みんなを誘って練習して、引っ張っていった」。積極的に関わり、チームを一つにまとめていた。
中学では球技系の部活に入りたいとも考えていたが、1学年先輩からの誘いで、陸上部に入部した。「陸上競技には魅力を微塵(みじん)にも感じていませんでした」と笑い、「3年間楽しくやれればいいや」と考えていた。走り幅跳びを始めたのは、中学1年の時。当初は100mをしていたが、他に速い選手がいたため、顧問の先生から「走り幅跳びの枠が余っている」と言われたことがきっかけだった。
頭角を現したのは、中学2年の10月に行われた東京都中学校支部対抗陸上競技選手権だった。6m08(追い風1.4m)のハイスコアで優勝。スプリントの力や筋力が増したことが要因と振り返る。
一方で「足からの着地になってしまっていた」という課題もあった。克服するため、高跳び用のマットに向かって1日100本の着地練習を行った。すると、中学3年の7月に行われた全日本中学校通信陸上競技東京都大会の予選で6m63(追い風0.1m)をマークし、自己ベスト更新。優勝に結びつけた。全日本中学校陸上競技選手権で「緊張はなかった」と振り返り、顧問の先生からも「なんで堂々とアップできているのか分からない」と言われるほど冷静だった。
中学での3年間について「こんなに伸びるとは思っていなかった」と驚きを隠さない松岡。また陸上部の仲間はオンとオフがはっきりしており、普段はワイワイ楽しむが、やるときはしっかりやるチームだったことも、松岡にとっては大きかった。
腹筋・背筋・腕立て伏せを1日1000回に増やした高校時代
高校は日本工業大学駒場高校へ。「7m超え」を目標に掲げた。松岡以外はほぼ推薦で入学しており、競技力や人間力が非常に高かったと言う。「負けず嫌いがいっぱい集まった高校だと思った」
松岡は中学時代に1日500回ずつこなしていた腹筋や背筋、腕立て伏せを高校で1000回に倍増。また他の選手の動きも勉強して、自分のものにしていた。すると高校2年の4月に7m08(追い風0.7m)を記録し、U18日本陸上競技選手権への出場権を手にした。1年後には7m20(追い風0.9m)まで記録を伸ばし、着実に成長を遂げた。
ただ、活躍の裏でけがに苦しむことも多く、試合中に腰やひざなどに痛みが出ることもあった。そのたびに「絶対に見返してやる」という強い意志で自らを奮い立たせ、無心で挑み続けた。中学、高校ともにキャプテンを務め、練習からリーダーシップを発揮した。後輩には自身のけがの経験を伝え、治療やケアについてのアドバイスを送った。
大東文化大を選んだのは、高校の先輩にあたる安田圭吾(住友電工)に憧れたからだ。安田は短距離専門だったが、「弟子のような存在としてかわいがってもらい、けがで落ち込んでいたときも慰めてくれた」と松岡は言う。大学では走力を強化したいとも思っていた。入学が決まると、練習会や合宿に参加。大東文化大は「とても活気があり、中高よりもさらにワイワイしていたし、この環境で練習してお互いを高め合うのはいいなと思いました」と話す。
大学4年間での目標は「自己ベスト更新」。しかし、大学1、2年のときはけがが続いて、記録が振るわず。その中でも佐藤真太郎監督のもとで自重トレーニングやウェートトレーニングに励み、監督から出される補強メニューにも「追い込むことが好き」と楽しんでいた。
大学ラストイヤーは副主将と跳躍ブロック長
大学2年、3年と関東インカレ2部走り幅跳びに出場し、大学2年は7m26(追い風3.5m)で4位入賞、大学3年では7m17(追い風0.4m)で2位に入った。活躍の一方で、けがの影響もあって思うような結果ではなかったと話す。「自己ベストより下回る記録だったので、納得はいっていない。チームに点数を持っていきたいという思いで跳んでいた」と振り返る。
ラストイヤーでは陸上競技部の副主将と跳躍ブロックのブロック長を務めた。主将は假屋直幹(かりや・なおき、現・北野建設)で「假屋選手は僕よりしっかり者で、言う時は言う」と松岡。そのリーダーシップを尊敬するとともに、一緒にチームを引っ張った。最後の関東インカレでは、7m62(風0m)の自己ベストをマークし、準優勝に輝いた。「正直ほっとしました。全日本インカレの標準記録を切れたことで肩の荷が下りました」と振り返る。その年9月の日体大記録会では7m82(追い風1.8m)とさらに自己ベストを更新し「まさか日本選手権の標準記録を切れるとは思っていなかった」と驚きを語った。
物腰が柔らかく、接しやすい雰囲気
大学4年間で「自分の動きだけでなく、そもそも走り幅跳びには何が必要なのか。ひたすら追求できたし、人間的な面でも成長できた」と松岡は言う。伸び伸びとやりたいことができる大東文化大学陸上競技部の良さを存分に味わうだけでなく、在籍したスポーツ科学科では「専門的な用語や陸上競技関係の論文を見ていく中、データに基づいて、陸上競技をロジカルに追求できた」と学んだ知識も陸上に生かしていった。
食事面では「母がアスリートよりのご飯を作ってくれて、自分自身を成長させてくれた。本当にやりたいことを、伸び伸びやらせてくれたことに感謝しています」。母への感謝の気持ちを伝えるとともに、「今の体ができたのは(佐藤)真太郎先生のおかげ」と恩師への感謝も語った。「今でも自分で練習するときは、大学のメニューを参考に組み立てていて、自分自身で考える力が身についた」
松岡は、物腰が柔らかく、接しやすい雰囲気がある。だからこそ、みんなから慕われているのだと感じた。また負けん気の強さも人一倍あったから、競技での飛躍にもつながった。指導者や仲間、家族の支えに感謝しながら、社会人でも更なる活躍を遂げることとなる。