皇學館大・寺田夏生監督(上)仲良しの先輩とアツい前田康弘監督に導かれ、國學院大へ
今回の連載「監督として生きる」は、皇學館大学駅伝競走部の寺田夏生監督です。國學院大學1年時に箱根駅伝で10区を任され、シード権を争う中、フィニッシュ直前でコースアウト。この地点は駅伝ファンの間で「寺田交差点」と呼ばれています。2023年7月、監督に就任して今年11月の全日本大学駅伝にも出場。3回連載の前編は主に、指導者を志したきっかけについてです。
合宿地に野尻湖を選んだ理由
8月下旬、長野県信濃町の野尻湖であった皇學館大の夏合宿。寺田監督は1周15.3km+5kmの距離走を行う選手たちをマウンテンバイクで追いかけていた。就任直後の昨夏は三重県の志摩市や岐阜の御嶽で夏合宿を張っていたため、野尻湖のコースは選手たちにとって初めてのこと。「今は走り込みの最終段階です。タフなコースで、故障がちょっと怖かったんですけど、しっかりと練習をやりきってほしいので、あえてきついところを選びました」と合宿地に決めた意図を明かす。
この合宿には1~3年生が参加していた。「4年生は、ここでケガしてしまったらかわいそうだなと。御嶽や伊勢で各自、最後の脚作りをやってもらっています」と寺田監督。今年の4年生は、主将の毛利昂太(神港学園)や岩島昇汰(益田清風)、藤川創(伊賀白鳳)、浦瀬晃太朗(鎮西学院)ら力のある選手がそろっており、その分、3年生以下が4年生に頼りすぎている部分があったという。「特に3年生に、もう少し上級生としての自覚を持ってほしい」という思いも込めた。
「3年生は、もともとポテンシャルの高い子が多い学年なんですけど、大事なところで体調不良だったり、ケガをしたりする子が多いんです。悔いを残してほしくないですし、やっぱり下級生は上級生を見てるので。ここで彼らが頑張ってくれたら、1、2年生は『僕たちも』という気持ちになってくれる。そういう狙いも含めて、今回はこういったチーム編成になりました」
体育教師を志すきっかけとなった中学時代の恩師
國學院大に入ってからしばらくは、体育の教員をめざしていた。これは陸上を勧めてくれた中学時代の恩師の影響が大きいという。「もともと野球をやっていたんですけど、持久走大会でたまたま1500mが速くて、体育の先生から『大会に出てくれないか』と誘われたんです。中学って、やればやるほどタイムが伸びるので、少しずつ陸上で勝つ楽しさを覚えていきました」。800mと1500mの2種目で全日本中学校選手権にも出場した。
人事異動があり、陸上の世界に引き込んでくれた恩師の指導は、1年間しか受けられなかった。厳しくて恐れられる存在だったが、異動時のスピーチで先生は男泣きし、生徒たちも涙に暮れた。自身も泣きかけた記憶があるという寺田監督は「こういう先生になってみたい」という思いを強くした。
「野球はそんなに才能がなかった。陸上ならもっと上をめざせるんじゃないか」と、高校は推薦で地元長崎が誇る駅伝の強豪・諫早高校へ。ただ、周りのレベルが高く、練習についていくのが精いっぱいだったという寺田監督は、「陸上をやめたい」と思うようになった。体育の教師になるという夢も忘れ、高校を卒業したら「就職しよう」。そこへ、國學院大から推薦の話が来た。前田康弘監督がわざわざ長崎まで足を運んでくれ、フレンドリーな雰囲気の中に〝アツさ〟を感じた。
1学年先輩で、國學院大に進んだ中山翔平さんの存在も大きかった。「中山さんとは中学も一緒なんです。仲の良い先輩から電話がかかってきて『もう1回一緒にやろうよ』と言ってくれて、『やります』と」。國學院大のパンフレットを見て、教職も取れることも知り、「箱根駅伝と体育の先生をめざしてみよう」と競技継続を決めた。
國學院大で徐々に「競技を極めてみたい」と思うように
覚悟を決めて、というよりは、自然体で國學院大に進んだ寺田監督だったが、1年目からチームの将来を担う存在と目されていたのだろう。
1年目の夏合宿。前田監督から「将来はどうするんだ」と聞かれると、「実業団には行かずに、学校の先生か一般就職を考えてます」と答えた。すると、前田監督から「チームの中心になっていく選手が上のレベルをめざさないんだったら、チームも成長しない」と諭された。寺田監督自身、当時は実業団で通用するレベルだと思っていなかったようだ。しかし前田監督から選択肢を示され、「ちょっとずつ意識していきました」。教職の道には進まず、「競技を極めてみたい」という気持ちが芽生えた。
1年時から箱根駅伝予選会の出走メンバーに選ばれ、チームは2位で通過。入学当初は「走る距離が増えたので、めちゃくちゃきつかった」と振り返るが、何より箱根本戦に向けて当時の4年生たちが作り出す雰囲気に感化された。「自信を持って先輩たちが臨んでいたので、僕は頼もしい先輩たちに乗っかっていく感じでした。予選会も緊張せずに臨むことができました」
そして迎えた2011年の第87回箱根駅伝。4年連続で走ったうちの最初の箱根路で、今なお語り継がれる印象的なシーンを生み出してしまう。