日体大で箱根駅伝V・谷永雄一さん 指導者として「それ以上にうれしい瞬間」を求めて
今回の「M高史の陸上まるかじり」は谷永雄一さんのお話です。日本体育大学では3年連続で箱根駅伝に出場し、4年生の時はアンカーで総合優勝のフィニッシュテープを切りました。現在は東海大学付属熊本星翔高校女子駅伝部の監督として指導者の道に進まれています。
3000mで鹿児島県の高校記録を樹立
熊本県上天草市出身の谷永さん。「中学はバレーボール部でしたが、走ることが好きで中体連の800mを走る機会がありました。その走りを見た、当時・出水中央高校の本川一美先生に声をかけていただきました」ということで鹿児島県の出水中央高校に進学しました。
「入学した時に玉目隆博先生に代わられまして、高校3年間は玉目先生のご指導を受けました。中学時代はもっと走りたいという気持ちで、高校で走れる喜びを感じ、存分に走ることができました」
3000mでは当時の鹿児島県の高校記録を樹立しましたが、「すぐに2学年下の市田孝選手(現・旭化成陸上部)に抜かれてしまいました(笑)」。鹿児島県には、後に全国高校駅伝優勝を飾る鹿児島実業高校をはじめ、強豪校がそろっていました。
「僕たちも勝ちには行ったんですが、なかなか難しかったですね。ちなみに出水中央高校が昨年、都大路初出場を決めたのですが、監督の玉目先生の1期生という自負もあるので純粋にうれしかったです」。出水中央高校は今年も都大路行きを決め、初出場から2年連続出場となりました。
「自分の中ではうまくいった高校3年間でしたが、もう少しこうしておけばよかったという点もあります。競技を始めたばかりの若造でしたし、競技に甘かった部分もあります。いま指導者の立場になって思いますね。この立場に立って気づくことが増えました」と振り返ります。
シード権を争うアンカーのプレッシャー
高校卒業後は日本体育大学に進みました。「中学の恩師、そして高校の恩師・玉目先生も日体大のご出身ということで、そういう先生方に憧れていましたし、最終的に指導の道にいきたいと思っていました」
日本体育大学では寮生活。「高校時代から寮生活は経験していました。掃除、食事当番など最初は厳しかったですが、想像していたより先輩たちが優しかったです。ただ、もう1回やれと言われたらどうかなと(笑)」
箱根駅伝は2年生からメンバー入り。「10人に入るかどうかというところでしたが、調子はよかったのでなんとか入れるかもしれないと思っていました」。谷永さんはアンカーの10区を任されました。この時の10区は、今も毎年のように映像が流れ、語り継がれる「寺田交差点」と呼ばれるあの年でした!
谷永さんは12位で襷(たすき)をもらい前を追いかけ、8位集団でレースを進めます。青山学院大学・小林駿祐さん、國學院大學・寺田夏生さん(現・JR東日本ランニングチーム)、城西大学・甲岡昌吾さんと4チームで終盤までもつれる激戦。1チームだけシード権を逃してしまうという極度のプレッシャーの中、大手町のフィニッシュが近づいてきました。
「いかに最後まで余裕を持って走れるか、と思っていました。最後のたたきあいには自信がありました。あの中から1チームが落ちるということで相当なプレッシャーでしたね。(運営管理車からの指示は?)2年生の時はほとんど聞こえなかったですね。日本橋を過ぎて、最後にちょっとしたトンネルがあるのですが、あのあたりからペースが上がっていきました。中継車が(右に)曲がっていったところで、寺田くんも曲がっていったんです。真っすぐ走らなければいけないのはわかっていたんですが、つられてしまって『あれ?』と思って一瞬止まって、すぐにダッシュしました。生きた心地がしなかったですね(笑)。終わってから安心しました」
8位・日体大、9位・青学大に続いて、10位には國學院大が滑り込みました。ちなみに11位・城西大のアンカーで、悔し涙に暮れた甲岡さんですが、いまは谷永さんが監督を務める東海大星翔高校でコーチをされています。シード権をめぐる激戦を演じたライバルが、今では同じチームで監督とコーチとして、一緒に指導されているのもご縁ですね!
アンカーとして箱根駅伝総合優勝に貢献
3年生の箱根では、往路の4区を任された谷永さん。「出口和也先輩、野口拓也先輩(コニカミノルタ陸上競技部コーチ)といった強い先輩が卒業された年ですね。当時、1区から3区まで服部翔大(現・日立物流陸上部)、本田匠、矢野圭吾(現・花王陸上競技部)ときて、次が僕で、ものすごいプレッシャーを感じていました。下手なレースはできないと思っていたのですが、撃沈してしまいました」と区間14位と悔しい走りに。チームも総合19位で、翌年は予選会からのスタートとなりました。
箱根の復路が終わった後、当時の別府健至監督(現・日立物流陸上部監督)がミーティングを開き、そこから意識が変わっていきました。
服部さんが3年生ながら主将に。「(3年生主将ということで)正直、やっぱり4年生から主将を出したかったというのはあります。でも、何よりも服部を支えるというのが4年生がやらなければいけないことで、4年生が一枚岩になって服部を支えていこうと団結しました」
この年はさまざまな改革も行われました。「原健介トレーナーによるBCT(ベース・コントロール・トレーニング)を導入したり、西脇工業高校でご指導されていた渡辺公二先生がアドバイザーとしていらしたり、いろいろな改革があった上で、別府監督を信じてついていこうと気持ちよくついてくことができました」
都大路を何度も優勝に導いた渡辺先生は「基本の『き』」を徹底して言葉にされました。「長距離選手にとって食事、睡眠、努力が必要。そういう話を徹底的にしてくださいました。今は指導にも生かさせていただいてます」
6月の全日本大学駅伝関東地区選考会で「全員失敗せずに走れたことで手ごたえを感じました」と早くも変化を感じられました。10月の箱根予選会を圧倒的な力でトップ通過を果たし、迎えた箱根駅伝。最上級生として挑んだ谷永さんは、2年生以来となるアンカー10区を任されました。
「2年生でアンカーを走らせていただいて、アンカーに対する印象、イメージはよかったので監督にもアンカーを走りたいとは伝えていました。特に緊張などはなかったです」
往路では突風ともいえる暴風が吹き荒れる中、山上り5区で主将・服部さんの快走もあり、日体大が往路優勝を飾りました。「復路の選手たちの調子もよかったので、リラックスして待つことができました」
2位・東洋大学と3分48秒差で、10区の谷永さんは襷を受け取りました。「調子もよくて最初から飛ばしていったら別府監督から『抑えろ抑えろ』と(笑)。安全運転でいきました。最後ペースを上げていって区間2位だったのですが、区間賞の後藤田(健介)選手(当時・駒澤大)とは27秒差だったので、最初から攻めればもしかしたらとは思いましたが、チームの総合優勝の方が大事なので、これでよかったかなと思います。順位を決定する区間ですので」。谷永さんは区間2位の力走で栄光のフィニッシュへ。日体大は実に30年ぶりとなる総合優勝。前年19位からの大幅ジャンプアップとなりました。
「あの瞬間ほどうれしかったのは、人生の中で今のところないですね。大学4年間は一生のうちでも、これほど濃縮した時間があるかどうかという4年間でした。今でも夢に出てきます(笑)」と谷永さんにとっての4years.をふりかえられました。
選手に「都大路」をプレゼントしたい
大学卒業後、教員・指導者の道へ進まれた谷永さん。東海大学付属熊本星翔高校で最初は、陸上部の長距離ブロックという形で指導がスタート。その後、女子駅伝部として本格的に強化が始まって今年で4年目となります。
「最初は、今まで考えていた自分のものさしに当てはめて指導していたのですが、なかなかうまくいきませんでした。人それぞれ性格もあるので、勉強していかないと通用しないですね」と指導方法も変えていったそうです。
現在はチームの様子をInstagramで発信。投稿では競技結果の報告だけでなく、生徒さんたちの元気で明るい雰囲気が伝わってきます。「やるべきところはしっかりやって、楽しむところはしっかり楽しんで」と話す谷永さん。
20年、21年と2年連続で九州高校駅伝にも出場。熊本県は強豪校がひしめきますが、着実に力をつけてきました。「指導のやりがいは、生徒が結果を残してくれた時と、卒業してからも寄ってきてくれる時ですね。そこにやりがいを感じますし、やっていてよかったなと。生徒の成長を感じるのは指導者冥利(みょうり)に尽きますね。(今後の目標は)近いうちに全国高校駅伝に行けたらなと思っています。人生で1番うれしかった瞬間は『箱根の優勝』と言いましたが、それを上回る瞬間はそこかなと思っています!」
生徒さんたちから都大路行きをプレゼントされてほしいですね、とお伝えしたところ「プレゼントしてほしいのもありますが、僕もこどもたちに(都大路行きを)プレゼントしてあげたいですね。せっかく星翔高校を選んで来てくれていますので」
取材に伺った日も、朝練習で朝早くから選手の皆さんの走りや動きを真剣に見つめる谷永さんの姿に、陸上への熱い気持ち、選手の皆さんへの情熱が伝わってきました。箱根総合優勝のアンカー以上にうれしい瞬間を味わう日に向け、谷永さんも指導者として現状打破し続けています。