陸上・駅伝

東海地区から全国へ、5000m日本人学生最速への軌跡 皇學館大・川瀬翔矢(上)

昨年11月の八王子ロングディスタンスで積極的にトップに立つ川瀬(撮影・藤井みさ)

新型コロナウイルスの影響で4月以降のレースが行われていないが、現役で5000mナンバーワンの記録を持つ日本人学生は、箱根駅伝に出場でき、高校長距離上位選手がこぞって進学する関東の選手ではない。三重県にある皇學館大学4年生の川瀬翔矢(近大高専)。彼は昨年、13分36秒93で走っている(※)。東海地区で川瀬が強くなれたのはどうしてなのか。簡単に答えが出るテーマではないが、その点を意識しながら川瀬の皇學館大での3シーズンを2回にわたり振り返る。前編は昨年11月の記録ラッシュと、大学1年の快進撃について。

※室内では東海大の塩澤稀夕(現4年、伊賀白鳳)が今年2月に13分33秒44を記録した。室内の記録も会場の条件次第では世界記録や日本記録として公認されるが、陸上競技の記録としては通常、屋外とは区別して扱われる

怒濤の進撃を見せた昨年11月

2019年11月。川瀬が見せた関東勢に引けを取らない快記録の連発は、駅伝ファンの記憶に残っていることだろう。

月頭(11月3日)の全日本大学駅伝は2区で区間11位だったが、2週間後(17日)の日体大長距離競技会5000mでは13分36秒93、翌週(23日)の八王子ロングディスタンス10000mでは28分26秒37をマークした。5000mは相澤晃(東洋大4年、現旭化成)の13分34秒94に次いで、日本人学生ではシーズン2番目のタイム。10000mは田澤廉(駒澤大2年、青森山田)、塩澤稀夕、浦野雄平(國學院大~富士通)、伊藤達彦(東京国際大~Honda)ら、学生のビッグネームたちと同レベルだった。

川瀬はその2レースを「動きすぎて怖いくらいでした」と振り返る。

「説明しにくいのですが、『動かす』というより『脚を回したら進んで行く』、と言った方がいいかもしれません。日体大の4~5日前の練習で2000m2本をやったときも、今までになかった5分34秒と5分29秒で行けていたのですが、それと比べてもやばかった。緊張もしていましたがリラックスもできていました。(1500mの日本選手権優勝者の戸田雅稀=サンベルクス=ら)メンバーもよかったですし、歓声もすごくて高揚感があって。楽じゃないけどキツさも感じなかったですね」

関東で戦うトップレベルの学生たちと肩を並べるタイムだった(撮影・藤井みさ)

日体大での川瀬は一種のゾーンに入っていたのだろう。と同時に、東海地区のレベルをすでに超越した存在になっていた。5000mは10月に13分49秒24を出し、東海学生記録を40年ぶりに更新していたが、日体大で再度更新し、翌週の10000mでも東海学生記録を39年ぶりに約12秒更新した。

両種目の東海学生記録を持っていた川口孝志郞は、中京大在学中に全日本大学駅伝の3区(当時は23.5kmの最長区間)で区間賞を3年連続で取り、卒業後の1983年にびわ湖マラソンで優勝。同年の第1回世界陸上代表に選ばれた東海地区のレジェンド的なランナーだ。

「東海学生記録は一つの基準だとは考えていましたが、それよりも13分43秒00の日本選手権5000m標準記録を絶対に破りたいと思っていました」

川瀬が見ていたのは日本のトップで戦うこと。東海学生記録はそこに向かう過程で、一つの目安にすぎなかった。

1500mの好成績が全国で戦う自信になった1年次の前半

いつから東海地区より、全国で戦うことを意識するようになったのか。川瀬の場合、一つのきっかけで変わったわけではない。

だが1年次前半の、1500mの戦績が影響したことは本人も認めている。5月の東海インカレを3分56秒95で優勝すると、6月の日体大長距離競技会で3分47秒46と自己記録を9秒近くも更新。そして7月のトワイライト・ゲームスでは3分46秒26にタイムを縮め、木村理来(東海大2年、現愛三工業)に次いで2位に入った。日本のトップクラスだった楠康成(小森コーポレーション、現阿見AC)にも勝っている。残り1周でスパートし、最後の直線で木村にかわされるまで先頭を走った。

そのレースでは同学年の塩澤稀夕にも先着した。同じ三重県出身で、高校時代にも川瀬は1500mで一度だけ勝ったことがあったが、インターハイと国体の5000mで入賞した塩澤とは力の差は明らかだった。お互いに進学して環境が変わったばかり。万全ではなかったとしても、塩澤に勝ったことは自信になった。

入学直後の2017年4月、朝練で走る川瀬(写真提供:皇學館大学陸上部)

「入学したときの意識は、全国で『戦いたい』でした」と川瀬。実際、入学前から全国で戦うことが目標だと、はっきりと口にしていた。

「1500mで結果が出て、徐々に全国でも『戦える』に変わってきました。トワイライトもそのうちの一つだったことは確かです。全国で戦うことを意識しすぎるのではなく、練習や日常生活など、やることをやっていけば結果が出る、と思えるようになりました」

1500mは高専時代に一度だけ、三重県国体選考会で塩澤に勝っている種目。皇學館大の日比勝俊監督は「輝いた経験のある種目」で自信をつけさせようとした。

5000mでは記録こそ平凡だったが、5月のゴールデンゲームズinのべおか(GGN)の9組でトップを取った。日比監督は「気温が29℃くらいありました。高専では暑さに弱かった川瀬には自信になったでしょう。飛躍への序章になったかもしれません」と評価しているレースだ。

GGNで組トップになった川瀬。大学に入学してすぐのレースで自信をつけた(写真提供:皇學館大学陸上部)

5000m13分台につながった夏合宿

1年次は夏の合宿もターニングポイントとなった。日比監督は日本大学、Hondaで選手として活躍し、実業団の八千代工業などで指導経験を持つ。その日比監督のアドバイスを受けている実業団選手(大西毅彦・当時アラタプロジェクト)を皇學館大の合宿に招き、川瀬がマンツーマン的に一緒に練習を行った。川瀬と大西は走りのタイプが似ている選手で、川瀬は「動きを重視して練習した」ことが、9月に5000mで13分台(13分54秒32)を出すことにつながったという。

「驚くようなタイムで練習したわけではないんです。大きく変わったのは腕振りですね。日比監督から手首をしっかり使うように言われて、大西さんの手首の使い方と走り全体を見本にさせていただきました。部屋も同じで、日本選手権の経験や練習のやり方などの話も参考になりました」

“ぎりぎり”の全日本大学駅伝1区出場

そして11月には、皇學館大が初出場した全日本大学駅伝の1区を走った。距離は14.6km。レースで走るのは初めての距離で、トラックの10000mを含めても10km以上は約1年ぶりだったが、川瀬は区間10位と予想以上の結果を残した。

日比監督は「関東の大学ならあり得ない練習でした」と舞台裏を明かす。

「2つの気持ちが私の中にありました。成功体験を続けてきただけに、ここで失敗させたくない。短い距離の区間に起用する選択肢もありました。しかし勢いでと言ったら語弊がありますけど、ぎりぎり行けるかもしれない。確実に15kmを走れる練習ではありませんでしたが、これならぎりぎり走れるのではないか、という練習です。川瀬も当日のアップが終わって、5kmが14分20秒台、10kmが28分50秒台の通過になったとしても、『(先頭集団で)行きたい』と言ってくれました。私も足を残せとか、落ち着いて行こうとか一切言わず、川瀬も思い切り走って11kmの上りまで集団に食い下がってくれた。上り終わって相澤(晃・東洋大2年、現旭化成)がスパートしたときに一気に離されましたが、よく粘って走りきりましたね」

川瀬(右から4番目)はぶっつけ本番でも粘って走りきった(撮影・朝日新聞社)

川瀬がトラックだけでなく、ロードも走れる可能性があることを1年次の全日本大学駅伝で示したのである。

しかし2年次の全日本大学駅伝を、川瀬は走っていない。出雲全日本大学選抜駅伝(1区区間13位)の後、体調を崩してしまったからだ。全日本大学駅伝だけでなく、2年次は停滞といえるシーズンだった。いきなり記録が伸びた選手によく見られるパターンに、川瀬も陥っていた。

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学生ラストイヤー、目指すは10000m27分台 皇學館大・川瀬翔矢(下)



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