大学陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years. 2020

人生を変えた3000m障害との出会い 東海大・阪口竜平(上)

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阪口は大学2年までは5000mをメインに取り組んでいた(写真は2017年の日本インカレ、本人提供)
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東海大学の「黄金世代」の一人でもある阪口竜平(4年、洛南)は、昨年の関東インカレ、日本選手権3000m障害のチャンピオンだ。今年開催される東京オリンピックへの出場も夢ではない。だが競技との出会いは遅く、偶然だとも言う。卒業のタイミングで大学時代を振り返ってもらった。

「お前が東海大に行っても、駅伝を走れないぞ」

阪口は中学3年生のときに陸上を始めた。もともと向いていたのか、京都の強豪校・洛南高校に推薦で入学することもできた。だが、高校では目立った結果は残していない、と本人は言う。「高校のときはとにかくけがが多い選手でした。継続して練習もできないし、戦えても京都の中だけでした」

京都インターハイでは優勝するが、近畿インターハイでは10位どまり。全国ではまったく戦えない。京都の2学年上の川端千都(かずと、現・コニカミノルタ)が東海大に入って駅伝を走っている姿を見て、自分も東海大に行きたいなと考えた。漠然と「年を重ねるごとに強くなって、4年目で花開けばいいな、最終的には箱根駅伝を走りたいな」ぐらいの思いだった。

1月、全国男子駅伝で応援に手を振る阪口(撮影・安本夏望)

高3の秋以降、駅伝シーズンになって都大路の「花の1区」で5位に入るなど、だんだん結果がついてくるようになったが、洛南高校の奥村隆太郎監督からは「お前みたいな選手が東海に行っても、駅伝を走れないぞ」と言われるレベルだったそうだ。「でももし選手として走れれば、(箱根駅伝)初優勝のメンバーになれるかな」と思い、東海大の門をたたいた。

スピードを磨き、13分台で手応え

阪口と同学年には、高校時代から結果を出していた關颯人(佐久長聖)、鬼塚翔太(大牟田)、館澤亨次(埼玉栄)の「ゴールデンルーキートリオ」がおり、そろって東海大に入学。彼らの学年は「黄金世代」と呼ばれた。入学してからは、とにかくスピードを磨くことに焦点をあてた。短い距離のスピード練習なら他の選手に勝てる、という手応えもあった。

関東インカレに出場したい。そう考えたとき、5000m、10000mでは厳しく、1500mの枠が1つ空いていた。参加標準記録まであと0.5秒だった阪口は、自分から「やらせてほしい」と志願。インカレ出場を果たし、2位となった。「いまじゃ1500mなんて考えられないですけど」と笑う。結果を残せて、U-20世界選手権にも1500mの代表として選ばれ、スピードを磨いたことが少しずつ生きてきていると実感できた。

切磋琢磨する同期。2年時は箱根駅伝に8人が選ばれた(写真は本人提供)

阪口のひとつめの転機は1年生の夏にやってきた。それまでほぼ1500mをメインに走ってきたが、ホクレンディスタンスチャレンジ深川大会で5000mにエントリー。そこで自己ベストを14分16秒から13分51秒69に縮めた。5000m13分台は、長距離に取り組む選手には一つの目標となる数字だ。自分にもいけるのでは。自分の可能性、手応えを感じられた瞬間だった。さらに上を目指したい、という気持ちも芽生えた。

13分51秒は当時、同学年の中で最も速いタイムだった。しかしその直後のレースに關が、次の深川大会で館澤がそれを超えてきたりと、同期で切磋琢磨(せっさたくま)する環境になった。「それまでは下の方で埋もれてたけど、こいつらともやっていけるなという気持ちになれました。彼らと一緒に練習できる環境があったので、積極的に取り組めるようになったというのもあります」。それまで、練習に対して「キツい」などとネガティブにとらえていたが、彼の中で「もっと強くなりたいから取り組む」というポジティブなものに変わりだした。

着々と結果を残した阪口は、1年から出雲駅伝と箱根駅伝のメンバーにエントリーされる。しかしこのときは実際に走ることはなかった。「終わってから、本当に『箱根駅伝を走りたいな』と思うようになりました。それまではなんとなくだったのが、『絶対に走らなきゃいけない』に変わったんです」

「なんとなく」やってきた人生のターニングポイント

いまでこそ3000m障害で東京オリンピックを目指している阪口だが、高校時代から取り組んでいたわけではない。初めてレースにエントリーしたのは大学2年生の夏、ホクレンディスタンスチャレンジ網走大会だ。これがふたつめの転機であり、その時は思いもよらないことだが、人生を変える決断となった。「なんか楽しそうだしやってみたいなと思って。西出先生(仁明・のりあき、東海大陸上部コーチ)に言ってみたら『5000mの標準切ってれば出られるから、出てもいいぞ』って言われて。出たら、8分37秒64の東海大記録で走れました。そこが本当に大きなターニングポイントになったと思います」と思い返す。

2017年のホクレン網走大会、いきなりの成功体験で人生が変わった(写真は本人提供)

あのときもしタイムが8分50秒ぐらいだったら、「こんなものか」と思ってその後は走っていなかったと思う、と阪口は言う。「その(8分37秒の)タイムで走れたからこそ可能性が見えて、『これでやっていくのも面白いかも』って思いました。自分の人生が大きく変わったポイントだったと思います」

だがそれでも、阪口の中では3000m障害よりも駅伝の方が大事、という気持ちがあった。2年生の秋には出雲駅伝を走り、優勝メンバーに。箱根駅伝は箱根駅伝、トラックはトラック。両立できたらいいなという思いがあった。

出雲駅伝で優勝。「スピードの東海」を体現した(写真は本人提供)

迎えた3年生の夏、トラックシーズン。前年は1500mでエントリーした日本選手権は、3000m障害で出場して4位入賞。しかし7月のホクレンディスタンスチャレンジ網走大会2000m障害に出場した際に、水郷を飛び越えたタイミングで骨折してしまう。そこから約3カ月、練習はおろか走ることすらできなかった。10月1日に走る許可が出たあとは、チームに合流せず黙々と一人で走りこみ、上尾ハーフで62分台を出して箱根駅伝のメンバーに入った。箱根では7区を走り、区間2位。首位だった東洋大にあと4秒と迫る快走で、8区での逆転をアシスト。東海大の初優勝に大いに貢献した。

ゴールでアンカーの郡司を迎える。高揚した気分だった(撮影・松嵜未来)

ロードも、長い距離も走れる。だが阪口の心は「トラックでやっていきたい」という方向に傾いていた。しかし両角速(はやし)監督には、「お前にはもう3障はやらせない」と言われていた。それでも「やらせてください」と言い続け、箱根駅伝優勝後の2月に許可が出てからは、もう一度真剣に障害に向き合った。5000mや10000mでは結局、走力で負ければそれで終わり。3000m障害はハードリングや姿勢などを極めれば、世界でも戦える。日本人にも、自分にもチャンスがある。阪口はそう考えていた。