世界の「舞台に立つ」のではなく、世界で「戦う」ために 東海大・阪口竜平(下)
東海大の「黄金世代」の一人でもある阪口竜平(4年、洛南)は、昨年の関東インカレ、日本選手権3000m障害のチャンピオンだ。今年開催される東京オリンピックへの出場も夢ではない。後編では個人としての世界への思い、そして東海大のチームで取り組んだ駅伝について改めて思いを聞いた。
「自分にはこれしかない」はっきりと気づく
4年生になり、4月の兵庫リレーカーニバルで優勝。このとき、「負ける気がしなかった」と語った阪口の目には、強い意志が宿っていた。「このときに、明確に自分にはこれしかない。3000m障害で東京オリンピックを目指すんだ、って自分がやるべきことがはっきりしました」と振り返る。5月の関東インカレでは青木涼真(法政大4年、春日部)の3連覇を阻み優勝。しかしこのとき、左足の腓骨を剥離骨折してしまった。
6月末の日本選手権決勝前日、自身のTwitterに「世界陸上の標準を切って優勝します」と書き込んだ。ライバルの塩尻和也(順天堂大~富士通)はリオオリンピック代表。誰もが塩尻優勢と考える中、阪口は自分を信じて、骨折の痛みにも耐えながらも優勝をつかみとった。しかしタイムは世界陸上の標準記録、8分29秒まであと0.85秒届かず。阪口には笑顔はなく、届かなかった1秒未満への悔しさがあった。それだけ、世界が近くに見えている証拠だった。
その後、ユニバーシアードで6位入賞、クロアチアやスペインでのレースで世界陸上の標準記録切りを狙ったがかなわず。日本に戻った阪口には、大学最後のシーズンの駅伝が待っていた。
傍目には出雲駅伝まで順調に調整を続けてきたと思われていたが、実はレース1週間前に腰の疲労骨折が判明していた。海外のレースを転戦する最中に、それまでの強度の高い練習も相まって疲労骨折につながってしまったのではないか、という。もちろんチーム内に状態は共有した上で、最終的に阪口が走るという決断が下された。結果は区間6位。先頭集団から離された。阪口はレース後、チームに貢献できなかった思いから悔し涙を流した。
全日本大学駅伝もメンバーには入っていたが、アンカーを走った名取燎太(3年、佐久長聖)の付き添いにまわった。初めて、いままでしてもらっていたことを自分がして、「走れない悔しさ」を身にしみて感じた。箱根までには万全な状態に戻して、最後の駅伝を走りたい。そう思っていた。
走れなかった最後の駅伝、悔し涙の意味
12月10日のエントリーで、阪口は16人のメンバーに入った。18日に東海大であった壮行会・事前取材。実はこのとき彼は、もう走れる状態ではなかった。腰をかばって走ることで膝に痛みが出てしまったという。このときの阪口の気持ちは、「箱根より東京オリンピック」。オリンピックに出るために、無理はしたくないと正直な気持ちを打ち明けた。それでも当日まで、けががあるとは他校にも、友人や家族にも知られてはならない。走れないのに走る前提で取材を受け、語る。ぽそっと「肩身が狭いです」と漏らした。それでもさらに先の目標があるから、ここはしょうがない。そう割り切っていたはずだった。
迎えた箱根駅伝、東海大は青山学院大に3分以上の差をつけられて2位。阪口はレース後、ひとり離れた場所で涙を流した。「大学や地元の友達とか、中高の恩師、みんなにエントリーが出てからも『当日変更で走るだろう』『阪口は7区あたりだろう』って思われてたと思うんです。誰が見てもそうだと思うし。大学でも先生に『頑張れよ』『区間賞期待してる』って言われたり、地元の友達はわざわざこっちまで応援しに来てくれたりして……。でも言えなかった。こんなに期待されてるのに走れない、申し訳ない。ちゃんと走るべきだった、目指すべきだったって思ったんです」
それは箱根が終わってみて気づいたことだという。「駅伝は大学生のうちしかなかったから、もっとちゃんと目指すべきだったのかなと改めて思いました。チームの選手たちからも『走ってもらわないと困る』という雰囲気が出てたし、正直自分がベストな状態で走れていれば、あれぐらいの差だったらもしかしたら(逆転も)ありえたのかなと……。チームに対しても申し訳なくて、自分に対してというより周りに対しての気持ちが大きかったです」
ちょっと不完全燃焼で終わってしまいましたか? と思わず聞くと「ちょっとというか、かなり不完全燃焼で終わっちゃったなと思います」と答えた。
世界を目指して、新しい旅立ち
箱根駅伝が終わり、2週間ほどして練習を再開し、久しぶりにスパイクを履いた。「スパイクとヴェイパーでは、走り方が変わってしまうんです。スパイクだとのびのび走ってるなって思いました。長い距離になると本来の自分の走りができない。けがして走れないというより、『これは本来の自分の走りじゃない』と思ってる自分にもどかしさを感じるというか……。箱根終わってからそういうモヤモヤがずっとあって、それに気づけたのがつい最近なんです。やっと気づくことができました。それを思うとなおさら、自分はトラックの人なんだなって」。それは新鮮でもあり、納得できる気づきでもあった。
3000m障害で東京オリンピックに出場するには、8分22秒の標準記録を突破するか、世界ランキング上位に入るのどちらかが必要だ。出場枠は45人。阪口は44位(1月21日時点)だ。「(標準記録、ランキングの)2つは目指すべき場所ですけど、出るからにはやっぱり標準記録を切っていないと自分の中で価値を見いだせないなと思います。8分22秒を切るレースをいくつか考えているので、そこでランキングに入るよりは、標準記録を切っていきたいです」。阪口が目指すのは、オリンピック出場ではなく、オリンピックの舞台で戦うことだ。
国立競技場の舞台に立っているイメージはわきますか? 「わきますね」。はっきりと答える。エントリーする予定の5月のセイコーゴールデングランプリは、国立競技場開催。「実際に東京オリンピックと同じスタートラインに立って、決勝でどういう走りをしていきたいか、そこまで考えてやっていければいいと思います」。阪口にはいつも、自分が勝つ、そのレベルに到達できるというイメージが見えている。だからこそ強い言葉を発するし、それに惹きつけられる。
今後はアメリカに練習拠点を移し、重要な大会のときだけ帰国する生活となる。4月、6月にも海外で標準記録を切るレースを設定しているが、「一番はゴールデングランプリで、日本で切れたらいいですよね。そこで目指していきたいです」と言う。
東海大での4年間は、一言で言うとどんな時間でしたか。そう問いかけると、少し考えてから「いままでで一番輝けた、と思います。強くしてくれたのが東海大です」と答えてくれた。これからもっと、さらに大きな舞台で輝くために。4年間を糧に、阪口は世界へと駆けていく。