陸上・駅伝

連載:監督として生きる

皇學館大・寺田夏生監督(中)今なお語り継がれる「寺田交差点」と、その後の競技生活

昨年10月、寺田夏生監督率いる皇學館大は箱根駅伝予選会に出場(撮影・井上翔太)

今回の連載「監督として生きる」は、皇學館大学駅伝競走部の寺田夏生監督です。2023年7月に就任し、チームは今年11月の全日本大学駅伝にも出場します。3回連載の中編は、寺田監督が一躍有名になった國學院大學1年時の箱根駅伝。駅伝ファンの間で「寺田交差点」と呼ばれるようになったレースと、その後の競技生活についてです。

【前編】皇學館大・寺田夏生監督(上)仲良しの先輩とアツい前田康弘監督に導かれ、國學院大へ

「先輩方と笑って終わりたい」気持ちを力に

寺田監督にとって1年目の箱根駅伝は、2011年の第87回大会。チームは前年の予選会を2位で通過し、4年ぶり5回目の出場だった。しかし、それまでの過去最高は14位。シード権を獲得したことはなく、寺田監督は当日変更で、最終10区にエントリーされた。

往路をトップの東洋大学と5分10秒差の6位で終えた國學院大だったが、6区で区間19位のブレーキに。復路の小田原中継所は、11位で襷(たすき)が渡った。当時の寺田監督は寮を出るとき、この状況に気落ちしていたが、出発前に1区を走った田中光太郎さんから「気楽に走ってこい」と声をかけられた。11位のまま鶴見中継所をスタートする際には、9区の奥龍将さんから「(前を)抜いてこい!」と発破をかけられ気合が入った。「1年間、一生懸命チームを引っ張ってくれた4年生の先輩方と最後に笑って終わりたい」という気持ちで走り出した。

昨年11月、皇學館大のグラウンドで(撮影・江戸川夏樹)

ただ、本調子からは程遠かったと振り返る。鶴見中継所を21秒先にスタートした10位・青山学院大学の背中を追いかけるが、なかなかその姿が大きくならない。「最初からずっときつくて、心が折れそうで、10km手前ぐらいには『諦めようか』と思いました」。そのとき、後ろからやってきた山梨学院大学と日本体育大学に追いつかれた。「ここでついてみよう」と集団で走ってみると、一気に体が軽くなった。「僕自身でも、結構不思議な感覚でした」

間違えたと気付いたときには「もう終わった」

ここからシード権争いは、混沌(こんとん)としてきた。13.4km地点の新八ツ山橋で9位集団の青山学院大と帝京大学、11位集団の國學院大・山梨学院大・日体大の差は20秒。その後、前の2校を後続集団が吸収し、8位を走っていた城西大学の姿が近づき、帝京大と山梨学院大が遅れだした。ラスト勝負は青山学院大・國學院大・日体大・城西大の4校。このうち1校だけがシードを失うという構図となった。

寺田監督自身は順位について「途中までは計算できていたんですけど、途中から分からなくなりました。(監督の)前田(康弘)さんからの指示も、歓声がすごすぎて、何を言っているのか分かりませんでした。どうやら『ロングスパートで行け』とおっしゃっていたそうなんですが、僕は一番自信のある最後の直線で勝負しようと決めていました」

その最後の直線、スパートをかけて4人の前に出た。しかし、本来ならまっすぐ走りきるところを交差点で右に曲がってしまった。間違えたと気づき、戻ったときには一瞬「もう終わった」と諦めかけた。ただ、本人の予想以上に直線は長く、前にいた城西大学をかわしてフィニッシュ。順位は分からなかったが、直後に田中さんや当時キャプテンだった仁科徳将さんが笑顔で迎えてくれ「たぶん10番だったんだろう」と気付いた。こうしてチームは初めて箱根駅伝でシード権を獲得した。

道を間違えた後、慌てて戻って10位でフィニッシュ。初のシード権獲得に貢献した(代表撮影)

キャプテンに就任したラストイヤー

寺田監督は4年連続で箱根駅伝を走っている。2年目は山登りの5区、3、4年目は各校のエースが集まる「花の2区」を任された。当時は前田さんの指導はもちろんのこと、目標とする先輩たちの存在も大きかったと語る。

「1年生のときはキャプテンだった仁科さんを目標にしていましたし、2年生のときは当時4年生でエースの荻野皓平さんに『勝とう』と思ってやっていました。3年生のときは中学・高校でも一緒だった中山翔平先輩がいて、『中山先輩と笑って終わりたい』と思って、頑張ってこられました」

逆に言えば、ラストイヤーの4年目が「大変だった」。チーム内で最も速いタイムを持っていたものの「目標とする存在がいなくなって、どうすればいいか分からなくなった」。前田監督からはキャプテンに指名されたが、「やりたくないです」と言ってしまった。ただ、同学年で箱根路を走ったことがあるのは自分だけ。同期からも「最後の1年は競技に集中したいし、(キャプテンは)寺田しかいない」と推され、引き受けた。

この頃は、追いかけていた先輩たちが実業団の世界で活躍し、寺田監督自身も実業団入りを意識していた。卒業後はJR東日本へ。マラソンにも取り組み、2020年の福岡国際マラソンでは2時間08分03秒の自己ベストをマークして、3位になった。しかし、その後は貧血が治らなくなったり、故障を繰り返したり。年々、疲労が抜けにくくなっていることを感じ、「地獄のような日々」だった。

2020年の福岡国際マラソンで自己ベストを更新し、3位になった(撮影・西岡臣)

2022年の大阪マラソン前にも、肉離れを発症。「悪いなりにも復調し始めていた状況で、またケガ。治るのに時間がかかるというところで、自分自身に負けてしまいました」。翌年の大阪を2時間27分07秒で走りきり、現役引退を表明した。

【後編はこちら】皇學館大・寺田夏生監督(下)試行錯誤のマネジメント手法 就任直後、気にかけたこと

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