アメフト

特集:駆け抜けた4years.2023

関西学院大WR糸川幹人 「パリピレシーバー」が勝ち続けた裏で学んだ4years.

最後の甲子園ボウルが終わった直後、糸川に心からの笑顔が広がった(すべて撮影・北川直樹)

もう関学の試合に行っても、フィールドにアイツはいないのか。そう考えると、ちょっと寂しい気持ちになる。昨シーズンまで関西学院大学のWRだった糸川幹人(箕面自由学園)は、1年生の春の初戦にスターターで出場してから4年生の甲子園ボウルまで、ほとんどの試合で第一線に立ち続けた。そして4年とも大学日本一になって卒業。ラストシーズンを前に同期の仲間が彼につけたキャッチフレーズが「吹田が産んだパリピレシーバー」。およそファイターズらしくない、おもろい男だった。

ファイターズに染まっていた自分に気付いた

糸川はこの1月に海を渡った。アメリカ・フロリダ州オーランドで開かれるカレッジフットボールのオールスター戦「フラボウル」に出るためだ。飛行機の時間が長いのでアルコールを飲んで、寝てしまおうと思った。だが空の上は地上より酔いやすいのを知らず、気持ち悪くなるほど飲んでしまって、まったく寝られなかったそうだ。

練習では結構投げてくれたQBも試合になると違った。糸川にはパスが飛んでこなかった。出場していたシリーズでタッチダウンが決まり、逆サイドにいた糸川はいつも通り喜びの輪に加わることもなくサイドラインに戻った。すると日本人のスタッフの人に言われた。「ほんとに関学だなあ。喜び方忘れてない?」。これはショックだった。

糸川はずっとアメフトが大好きだった。関学に入っても、1年生のころは好きだった。だが学年が上がるにつれて、ふとしたときに「誰のためにやってるんやろ」と考えることが増えた。あまり楽しくなくなり、社会人になったら違うことをしようと思っていた。

昨シーズンの終盤はQBでもプレーした。彼がQBに入るとワクワクする

それが最後にフラボウルへ行って変わった。「フットボールの楽しさを思い出しました。めっちゃ盛り上がるし、失敗してもみんなで『ワーッ』となるし。フラボウルで社会人でもフットボールをやろうと振り切れました」。そんな心変わりの矢先だったからこそ、決して一喜一憂しないファイターズのスタイルに染まりきっていた自分がショックだった。

関学と立命にあこがれ、関大一中から箕面自由学園へ

糸川は大阪府吹田市で生まれ育った。小学3年生の1月3日、祖父に連れられて東京ドームへライスボウルの観戦に行った。関西大学と鹿島の対戦。それが初めてのアメフト観戦で、心をひかれた。そこからアニメの「アイシールド21」を見て面白いと感じ、小学校にあったフラッグフットボールのチームに入った。中学は受験して関西大学第一中学校に進んだ。最初に見た試合が関大の試合だったからかと思ったが、まったく違った。

小5のころ、同じ小学校から関大一中へ進んだ人から「俺の学校はアイスの自動販売機あるで」と聞かされた。学校でアイスが買える!? 家に帰ると、糸川少年は母に「○○君の中学校、学校でアイス買えるねんて。僕も行きたい」と伝え、受験勉強を始めた。ライスボウルの関大は何の関係もなかった。合格し、関大一中にはアメフト部がないので、池田ワイルドボアーズに入った。

関大一中から箕面自由学園高校に進んだのは大学進学を考えてのことだった。「成績不良で関大一高に上がれなかったと思われがちなんですけど、違うんです。当時は関学と立命にあこがれてて、中学の先生に相談したんです。2学年上の兄貴(創平さん、法政大学~富士通)が箕面自由にいたし、箕面自由で活躍すればどっちの大学にも進める可能性が出てくるって話になって、そうしました。何回も言いますけど成績不良ではないです」

トレーニングには力を入れてきた。しっかり当たれるのも糸川の強み

箕面自由学園高ではクリスマスボウルには届かなかったが、QB、WR、RBとどのポジションでも活躍し、3度も世代別の日本代表に選ばれて国際大会に出た。さまざまな大学から声がかかる中で、関学を選んだ。「アメフト以外はほんまにめっちゃ遊んでて、ちゃらんぽらんでした。自分でも、このままいったらろくでもない人間になると思った。だから、社会に出る前に関学みたいなしっかりした組織に入って、きっちりした人間になろうと思ったんです」

「阿部拓朗みたいな人間になりたい」

そして前述のように一切の下積みなく、糸川は大学1年の春から試合に出た。春の初戦の明治大学戦は東京に遠征して負けた。試合後に東京の友だちと写真を撮りまくっていたら、ひどく怒られた。次の日、4年生の幹部たちは頭を丸めてきた。糸川は「うわ」と思った。

同じWRで副将の阿部拓朗さん(現・アサヒ飲料)が「狂犬ルーキー」のお目付け役だった。遠征先では阿部さんから「30分に1回、俺の部屋に来い」と言われた。「僕が宿舎を抜け出して遊びに行かんように、です。無理です、って言ったら、あの人が30分ごとに僕の部屋に来ました」。福岡に遠征したときは郊外のホテルに泊まった。糸川がフロントで近隣のタクシー会社の電話番号表を写真に撮っていたのが阿部さんにはバレていて、このときは10分に1回連絡があったという。

4年間で秋のリーグは44キャッチ652yd、3TD。甲子園ボウルは17キャッチ227yd、1TD

一方でフィールドに出れば、阿部さんは糸川にのびのびとプレーさせてくれた。ミスは阿部さんをはじめとした4年生が背負ってくれた。阿部さんは下級生の責任も負いながら、自らも勝負強いキャッチを繰り返した。このときからずっと糸川は「阿部拓朗みたいな人間になりたい」と思ってやってきた。

第3フィールドで流した涙

2年生の甲子園ボウルは日大フェニックスとの対戦。糸川は第4クオーター(Q)にタッチダウン(TD)パスをキャッチ。倒れ込んだときに偶然ヘルメットが脱げた。自慢の端正な顔立ちがテレビカメラに大きく映し出されることになるのは、容易に想像できる。「あれはラッキーでした」。糸川はヘルメットを拾いにいくことなく、まずはボールを右腕で掲げながら叫んだ。ほんとに仲のいい人ほど、「あれ、わざと脱げるようにしててんやろ?」と言ってきたそうだ。このシーズンの主将だったRB鶴留輝斗さん(現・西宮)にもかわいがってもらった。

甲子園ボウルで唯一のタッチダウン。この直後にヘルメットが脱げるという願ってもない瞬間が

「3年になって、ちょっとおかしくなり始めたんです」と糸川。4年生から「試合に出てるんやから、お前もボウズ(丸刈り)にしろ」と言われた。「そんなことを言われ続けて、楽しないな、と」。そしてコロナ禍で細心の注意を払って実施する夏合宿の前日、糸川が部外の仲間たちとバーベキューをしていたのが問題視され、合宿に行けなくなった。頭を丸めた。

秋のシーズンに入り、10月31日の関大戦を前にした練習でけがをした。関大戦は出場せず、11月14日の立命館大戦から復帰することになっていた。しかし試合の3日前、試合形式の練習中に糸川は倒れた。しばらく出られないけがを負ったことは、自分ですぐに分かった。「僕のフットボール人生で大事な試合に出られない経験が初めてで……。あのときだけは悔しすぎて泣きました」。立命との再戦となった甲子園ボウルの西日本代表決定戦にも出られなかった。

「ほんまに怖かった」という4年生秋の関大戦に勝って涙

4年のみんなが楽しそうだった甲子園ボウル

学生ラストイヤーを迎え、糸川は阿部さんと同じ副将になった。関学は長らく「4年生のチーム」と言われ、とくに厳しい1年を過ごす。ときに、お互いを攻撃し合ってしまうようなケースも起こり、チームを去る仲間も出てくる。「いまは勝ってるんで、それがファイターズでは正解なんですけど、僕はあんまり好きじゃなかったです」。この1年、糸川は何度も高校時代を思い起こした。「箕面自由は情に厚いヤツが集まってました。コイツのことは自分の身を削ってでも守る、ってのがあった。もちろんファイターズにもそういう気持ちを持った人はいたけど、そうじゃない人もいっぱいいて。僕は高校時代にそういう集団を経験できててよかった」

昨年12月18日、ラストゲームは早稲田大との甲子園ボウルだった。糸川自身は珍しくミスが目立ち、最高の活躍とはいかなかったが、「甲子園はめっちゃ楽しかった」と言いきる。「4年のみんなを見てて、楽しかったんです。終盤、みんながフワフワしてた。ファイターズでは絶対アカンことやのに。みんながめっちゃ楽しそうにアメフトしてて、それがうれしかったです」

チームの方針を巡って何度もぶつかってきた主将の占部雄軌(関西学院)がシーズンで初めてOL(オフェンスライン)で登場。同期5人のWRで唯一レギュラー組に入れず、下級生の面倒をすべて見てくれた今西宗太郎(関西学院)も甲子園のフィールドに立った。「もともと僕は僕で楽しくやろうと思ってたんですけど、チームとしてはいつも通り『どんだけ勝ってても笑顔は見せんな』みたいな感じやったんで。でも、4年はほんまに最後やから楽しそうにやってた。占部が出て、今西が出て。『そうそう、この楽しさがみんなアメフト始めた理由やんな』って気持ちになりました」

いろんなことがあった4年間。糸川は新しい世界に踏み出す

海外で勝負する人のサポートがしたい

糸川がファイターズで学んだ最大のこと。それが「準備の大切さ」だ。「11月の立命戦に向けて、2月、3月からコーチと一緒に準備を積み重ねていく。就活はこれ一本で乗り切りました」。広告代理店のグループディスカッションではさっぱり分からないマーケティングの理論がテーマになり、うなずくことしかできずに失敗したこともあったが、自らアピールできるチャンスには準備の大切さを語った。そして大手IT企業で働くことになった。

「フットボールを続けられるのは全員じゃない。僕は続けられる環境があるし、人生を変えてくれたフットボールに何らかの形で恩返しがしたいんです。僕自身、中学や高校のタイミングでアメリカに行くことも考えました。でも情報がなさすぎて行けなかった。だから、将来はフットボールに限らず、早い段階から海外へ出て行こうとする人のサポートがしたい。そのための知識も何もないんで、一回は会社に入って、いろいろ学ぼうと思います」

アメフトを続けるチームも決め、すでに練習に参加している。「吹田が産んだパリピレシーバー」の本領発揮はこれからだ。

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