関西学院大WR林篤志 「三銃士」に食らいついた「雑草」、甲子園ボウルで咲くか
アメリカンフットボールの大学日本一を決める甲子園ボウルが12月18日に阪神甲子園球場で開催される。7年連続出場で最多タイの5連覇を狙う関西学院大学ファイターズと、3年ぶり7度目の出場で悲願の初勝利を目指す早稲田大学ビッグベアーズの顔合わせ。関学のWR林篤志(4年、阪南大高)はかつて高校野球で甲子園出場を夢見ていた。その聖地での学生ラストゲーム。名門でエリートたちに食らいついたたたき上げの男は「試合直前までやれることをやって、集大成の甲子園で全部出しきる」と誓う。
キッキングゲームで奮闘
今年の関西学生リーグ1部で林の残した成績は、パスキャッチ1回20yd、1TD。キッキングゲームでパントリターン9回74yd、キックオフリターン1回30yd、タックル3.5回。この数字からも分かるように、レシーバーの控えで、キッキングで奮闘してきた。とくにキックオフ時のカバー(KC)については、同期のDB古河凛之介(啓明学院)とともにリーダーを務め、KCに入るメンバーを引っ張ってきた。林はキッカー以外の10人が横に並ぶ中央から走っていってリターナーへのタックルを狙うが、まだ「これが俺だ」と言えるプレーはできていない。「しっかり準備して、甲子園で最後まで狙っていきます」と目を輝かせる。
大阪府豊中市で生まれ育った。2学年上の兄が先に野球をしていて、地元の小学校の軟式チーム、中学時代の豊中シニア、阪南大高校と、兄の後ろをついていく形で白球を追った。もともとは捕手だったが右肩を痛めて外野に回った。2年の夏は5番を打って大阪大会5回戦まで進んだ。主将として臨んだ最後の夏は、南大阪大会3回戦で負けて高校野球は終わった。東京六大学で野球を続けることを考えていたが、声はかからない。野球部を引退したときは「東京がダメなら指定校推薦で関大か関学行って、遊ぼうかな」と考えていた。
それが高3の秋から冬になるころ、アメフトの映像を見て、「おもしろそうやな」と思い、動画を見始めた。指定校推薦で関学文学部への進学が決まった後の2018年12月2日、父と2人で万博記念競技場(大阪)へ甲子園ボウルの西日本代表決定戦を観戦に行った。関学と立命館の対戦だった。
心を打ち抜かれた逆転サヨナラ勝ち
劇的な幕切れだった。関学は17-19と2点を追う試合残り1分56秒、自陣36ydからの攻撃。この日三つもインターセプトを食らっていたQB奥野耕世(当時2年)がWR松井理己(同4年)とWR阿部拓朗(同3年)へパスを通し、最後はキッカーの安藤亘祐(同3年)が逆転サヨナラ勝ちのフィールドゴールを決めた。
この逆転のシリーズに、林の心は打ち抜かれた。「偶然ではなく計算されたみたいに運んでいった。こういうチームでやったら成長できる」と実感。13年やった野球を離れ、新しい考え方でスポーツに取り組みたい思いもあったから、余計に魅力的に感じた。
ただ、アメフトを始めるにあたって経済的なことが気になった。兄も私立大に進んで野球を続けていた。自分も私立に進んで、しかもお金のかかりそうなアメフトを始める。両親にかなりの経済的負担を強いてしまうだろうなと考え、すぐには言い出せなかった。悩んだ末に打ち明けると、「いいよ」と言ってくれた。アメフトに打ち込むために3年生から下宿させてくれたことも含め、「両親にはめっちゃ感謝してます」と話す。
入部の意志をどう伝えていいのか分からず、とりあえず高校の野球部の2学年先輩で、関西大学でアメフトに転向していた渡邉大介さんに連絡してみた。すると関大のマネージャーから関学の主務の連絡先を聞いてくれて、林は入部希望を伝えることができた。
入学前のトレーニングに参加して、覚えた同期の名前をネットで調べてみた。糸川幹人(箕面自由学園)、山本大地(大阪学芸)、小林陸(大産大附)……。みんな高校時代にアメフトで活躍した人ばかり。「こんなすごい人らとやるんか」と不安になった。トレーナーの先輩に相談して、希望のポジションはWRにした。そこには、いま「関学WR三銃士」と呼ばれる糸川、梅津一馬(佼成学園)、河原林佑太(関西学院)がいた。「後悔しました。4回生までずっと、この3人がおるんかと」
自分なりに努力したつもりだったが、3人の背中が遠い。ようやく2年生の終わりに、控え組同士の関大戦で試合での初キャッチができた。「このままじゃあかん」と、3年生を前にした1月から独自にトレーニングを始めた。練習後に帰宅したあと、自宅近くの公園でひとり、パスのルートを走った。
スタッフ転向の打診に「半年間、時間をください」
まさにそのころ、大村和輝監督からスタッフへの転向を打診された。自主練を始めたばっかりだったので、思わず絶句した。何とか言葉を絞り出し、「半年間、時間をください。3年の春には結果を出します」と返事をした。アメフトという競技には選手の活躍を支える人たちがたくさん必要なのは、もう分かっていた。それでも自分が選手でいられなくなるかもしれないということに、大きなショックを受けた。
「もともとスタッフをやってる人たちには失礼なんですけど、そのときは正直、どん底の気持ちでした」。泣きながら母に電話をした。「俺、選手としてできんかもしれん」。両親は「半年時間があるなら、頑張れ」と背中を押してくれた。
そこからはもう必死だ。「球際で競り負けないレシーバー」「QBが投げやすいレシーバー」を目指して、糸川にルートどり、マンツーマンの勝負の仕方、間合いの取り方と、あらゆることを聞いた。河原林にはブロックを教えてもらった。「先輩にも教えてもらったし、あの時期はみんなにお世話になりました」と林。チーム内の紅白戦が始まると、必死でボールに食らいついた。めざましい結果は残せなかったが、Vメンバー(1軍)のWRとしてやっていけることになった。そしてここからの2年間、常に「選手として残された意味」を自分に問いかけながらやってきた。
3年生の春、オープン戦や定期戦が始まった。出番は多くはない。ある試合で、ゴール前のシチュエーションでパスを捕り、残り1ydでサイドラインを割ってしまった。「めちゃくちゃ悔しかった。もっと突き詰めてやらなあかんと思いました。やったろうという気持ちが出た」。その2試合後、同じルートのパスを受けてタッチダウン(TD)を決めた。公式戦ではないが、試合での初めてのTDだ。うれしかった。
3年の秋は序盤の試合にはWRでも出られたが、関大戦、立命館大戦ではKCだけ。キッキングゲームで気持ちの入ったプレーをして、出番を増やしていきたかった。当時の4年生だったDB西脇玲にKCのすべてを教わった。
こうやって見てくると、初心者で入部した林がコーチだけでなく、さまざまな先輩や同期の選手からフットボールを教えてもらっていることが分かる。かつて鳥内秀晃・前監督が「1990年代の後半に選手が増えてきて、コーチが足りんようになった。4年がコーチ役もできるようにならんとチームが回らんようになった」と言っていたのを思い出した。教えるためには自分ができないとダメだし、伝えられる言葉を持っていないといけない。これも関学の強さの一つなのだ。
最終シーズンでの初キャッチ、初TD
学生ラストイヤーを迎えるにあたって、林は新たに決意する。「同期の3人のレシーバーと渡り合えるぐらいになりたい。追いつき追い越せで、まずは食らいついていく」。4年の春からはパントリターナーの練習も始めた。ただ本気で目指そうとすればするほど、「三銃士」の背中は遠ざかっていくような気さえした。「3人は当たり前のように僕のできないことをやる。できない自分が悔しくて、グラウンド泣きそうになるのは何回もありました」。3人に続くのは3年生の衣笠吉彦(関西学院)と鈴木崇与(箕面自由学園)で、林は置いていかれた。
最後の秋の戦いが始まっても、リーグ戦の通算パスキャッチ数は0のまま。10月30日の近畿大学戦の最後の最後にチャンスが来た。試合残り6秒、ゴール前20yd、左ハッシュからのラストプレーだ。プレーが伝達された瞬間、林は「俺に飛んでくる」と思った。何回も練習で合わせてきたパスだった。左に2人出たレシーバーの内側が林。相手DBをタテに押して、スッと外へ。エンドゾーン左隅へ走り込む林へ、QB星野秀太(1年、足立学園)からナイスボール。左肩越しの球を柔らかくキャッチしてTDだ。
捕ったのがちょうど関学のチアリーダーたちの前で、まるで彼女たちが林のリーグ戦初キャッチとTDを祝福しているように見えた。近大戦が終われば上位対決が始まる。林がWRとしてフィールドに立つことはほとんどなくなる。腐らず努力してきた彼に対して、チームから「最後や、タッチダウンしてこい!」とチャンスをくれたのだろう。それにしっかり応えた林は、仲間から「篤志ナイス」と声をかけられ表情を崩した。
「人の心に残るプレーがしたい」
さあ、甲子園ボウルだ。林はアメフトを始めて以来、「これが俺だ」と誇れるプレーができていない。ずっと頭に置いているプレーがある。前出の阪南大高校野球部の2学年先輩で、関大でWRとしてプレーした渡邉大介さんのパスキャッチだ。渡邉さんが3年の秋の立命戦。試合残り1分で2人のDBにマークされながら、逆転のTDパスを捕った。これが決勝点となり17-14で勝った。渡邉さんのリーグ戦初TDだった。関学の1年生だった林には、立命相手に値千金のTDパスを捕った渡邉さんの姿がまぶしく映った。「いつか自分も渡邉さんのキャッチのような、人の心に残るプレーがしたい」。そう思ってきた。
ラストチャンスが甲子園ボウルだ。WRとしての出番は、大量リードした場合の終盤に巡ってくる程度だろう。だからキッキングゲームで「これが俺だ」を狙っていく。「最後まであきらめず、やり抜く。自分の中で集大成なので、やってきたことをすべて出す試合にしたい。その中で、親だったり先輩だったり同期だったり、僕を支えてくれたたくさんの人への感謝も表現できたらなと思います」
大村監督に林の4years.について尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「ほんまにまじめ。放っといてもサボらん。そういう面も知ってるから、スタッフの打診もした。最初はまじめでも、だいたい中だるみするもんやけど、林は違った。最後までブレずにやり抜いた。ようやったと思う」
甲子園練習の日、林は「やっぱりここに来るとアガるっすね」と笑った。いざラストゲーム。最初のキックオフから最後の笛が鳴り終わるまで、林篤志は「これが俺だ」を追い求めて愚直に走り、体を張る。