アメフト

関西学院大学「元副将」山本昌弥 脳振盪から378日ぶり復帰も、立てなかった甲子園

甲子園ボウルの試合後、関学のDB山本昌弥は穏やかな表情でスコアボードを見つめた(撮影・北川直樹)

アメリカンフットボールの大学日本一を決める全日本大学選手権決勝・第77回甲子園ボウルは12月18日、関西学院大学が34-17で早稲田大学を下し、史上最多タイの5連覇を達成した。点差の開いた最終盤にはオフェンス、ディフェンスともに、これまで出番の少なかった最上級生をフィールドに送り込む関学恒例の「4回生シリーズ」が実現。リーグ戦に出られなかった選手たちも阪神甲子園球場のフィールドに立ったが、24番のDB(ディフェンスバック)山本昌弥(4年、関西学院)は試合終了までサイドラインにいた。

西南学院大戦を前に再発

12月4日の選手権準決勝、西南学院大学戦に向けた練習で、脳振盪(のうしんとう)が再発してしまった。フルタックルの練習だった。山本は少し頭が下がったままタックルに入った。入ってしまった。タックル時に低くいこうとするあまり頭が下がって腕が出ないのは、山本の長らくの課題だった。そして側頭部に相手のヘルメットが当たり、大きなダメージを受けた。1年がかりで完全に癒えたはずの脳振盪が再発。ファイターズの選手としての山本昌弥はそこで終わった。悔しすぎて、涙が出た。

阪急電鉄仁川駅(兵庫県宝塚市)の近くで生まれ育った山本にとって、関西学院は身近な存在だった。初等部に入学し、小学2年生のときに親が連れて行ってくれた「上ケ原ブルーナイツ」でフットボールを始めた。ブルーナイツはファイターズがつくった小学生のタッチフットボールクラブだ。「関学に入ったからには、そらアメフトやろ」という流れで、山本のフットボール人生は動き始めた。

小中高と、ずっと最終学年でいい結果が出なかった。関学高等部3年の秋は、全国選手権の初戦である関西地区2回戦で箕面自由学園に負けて終わった。自分たちが4年生になったときに日本一になりたい。そう願って大学に進んだ。

甲子園ボウルの試合前練習には入らず、声でチームメイトを鼓舞した(撮影・北川直樹)

2年生の立命館大戦でインターセプト

身長168cmと小さな山本は、DBの中でも最後の砦(とりで)にあたるSF(セーフティ)でプレーしてきた。関学のSFはアジャストの指示はもちろん、LBの動きをすべて理解した上で、オープンフィールドでタックルしなければならない。求められることが多くて頭が混乱しそうなものだが、大村和輝監督も「頭の面は抜群」と評する山本は、賢いプレーで2年生の秋にスターターの座をつかんだ。相手の狙いに先回りして止める24番の姿が、目立つようになっていた。

その2020年はコロナ禍でリーグ戦をせず、1部8校によるトーナメントで優勝校を決めた。全日本大学選手権もなく、関西1部の優勝校と関東1部TOP8の優勝校が甲子園ボウルで対戦。関学はトーナメントの決勝で立命館大学と当たることになった。久々に一発勝負で勝者が甲子園ボウルへ進む。山本はこの試合で、一つのプレーが人生を変えるほどの影響力を持つと知った。

10-14で迎えた第3クオーター終盤、山本は相手QB野沢研(当時3年、現・富士通)の動きからパスコースを判断し、鋭いリアクションでタテに上がってインターセプト。寡黙なタイプの山本が珍しく喜びを爆発させた。これが13-14と追い上げるフィールドゴール(FG)成功につながり、最後は逆転サヨナラFGが決まって、関学が甲子園ボウルに進んだ。

2020年秋の立命館大戦でインターセプトを決めた直後。4年間で最も印象深い瞬間という(撮影・北川直樹)

「もともとあの年はまだ立命戦には出られないんじゃないかと思ってました。それが試合に出られてインターセプトまでできた。めちゃくちゃ自信になりました。いろんな人から祝福されて、私生活にも自信が出てきた。そこから甲子園ボウル、ライスボウルと出て、新しいアメフト人生が始まったような気がしました」。いまでも山本は目を輝かせてそう話す。

頭がボーッとしても、言わなかった

山本は3年生になった。当時の関学のDBには竹原虎ノ助、北川太陽、永嶋大聖、宮城日向、和泉智也ら能力の高い4年生たちがいて、日々の練習が刺激になった。秋の本番を迎えた。まだコロナの影響があり、関西1部の8チームを二つに分け、それぞれ4チームでリーグ戦をして、同順位のチーム同士による順位決定戦という流れになった。

同志社大学、京都大学と勝ち、関学は10月31日に関西大学との一戦を迎えることになった。春の関関戦は雷の影響で第3クオーター途中で中止となった。関学が6-14で負けていた。だから関学サイドには例年以上の危機感があった。関大戦へ向けての練習をしながら、山本は自分の体に違和感を持っていた。練習中にバランスを崩して転倒し、地面で頭を強く打った後からだ。頭がボーッとする感じで、疲れやすく、気持ちが悪い。でも、これが脳振盪につながるとは考えなかった。

当時は山本と4年生の永嶋がSFのスターターで出ていて、続くのは当時2年生の山村翔馬(足立学園)だった。先日の甲子園ボウルで早稲田がTDを狙ったパスをインターセプトした山村だが、当時はまだ関学の最後尾を任せられる選手ではなかった。「いきなり山村に任せるのは酷だ」と判断した山本は、違和感を表明することなく関大戦への準備を重ねていった。試合の2日前、同期のトレーナーには伝えておいた。

試合はとくに異変なくプレーし、山本は2タックルを記録。20-10で勝った。だが試合後、状況が急転した。頭が割れるように痛くなった。気持ちが悪く、目まいも始まった。トレーナーに伝え、チームドクターにも伝わった。脳振盪の診断を受け、1カ月安静。チームを離れた。落ち着いたときに大学へ現状報告に行くと、関大戦前に違和感についてしっかり伝えなかった点は注意を受けた。安静の間は家にこもった。外出するのは散歩のときぐらいだった。

「15年やってきて、今年はとくにしんどかった。取り組みが間違いじゃなかったと証明できてうれしい」と山本(撮影・篠原大輔)

12月5日に西日本代表決定戦で立命館と対戦することになり、安静の解けた山本はアナライジングスタッフ(AS)のサポートに回った。試合中はサイドラインからコーチの指示をフィールド内に伝える役目をした。勝って、お世話になったDBの4年生が喜んでいる姿を見て、フィールド外でも役に立てたことに満足していた。法政大学との甲子園ボウルでもASの手伝いとしてサイドラインに立った。

先輩たちが甲子園ボウル4連覇を達成して引退し、山本たちがファイターズの最上級生になった。新チームになるとき、山本は副キャプテンに立候補し、就任した。22年6月には脳振盪が完治し、練習に合流できる見通しだった。

「待ってるぞ」と言ってくれた同期

2月から3月にかけて東京の病院に入院した。3月になってすぐ、「ブラッドパッチ療法(硬膜外自家血注入療法)」を受けた。このときは指先の感覚がなくなり、気が遠くなるような時間を過ごした。自宅に戻ると、毎晩のように主将と3人の副将、主務でチームのことについて話し合った。春になり、練習中はグラウンドに出て走り、声を出した。チームが思うようにまとまらず、「いったいどうなっていくんや」という不安から睡眠不足になり、症状はどんどん悪化していった。

5月15日、神戸・王子スタジアムで桜美林大学とのオープン戦があった。その試合後、チームドクターとトレーナーに現在の症状を伝え、4年生の仲間たちに「いまのままでは厳しいので、一度チームを離れます」と告げた。ほとんど引きこもりのような日々が続いた。近くの公園で走ってみると、苦しい。一向によくならなかった。

副キャプテンから降りた山本を、みんなが待っていてくれた(撮影・北川直樹)

いま思えば、「4年生として、副将として、やらないといけない」という思いが強すぎて、グラウンドへ行くのが怖かった。精神的な不安定が、脳振盪の症状に悪い影響を及ぼしていた。「マイナスなことを考え続けて、悪化してしまったと思います」と山本。気がつけばチームを離れて1カ月が経っていた。大学へ行って監督、コーチ、同期全員に「申し訳ありませんが、副キャプテンを続けていくのは難しい。降ります」と伝えた。同期たちは「待ってるぞ」「俺はお前のプレーが見たい」と言ってくれた。

この頃、選手としての復帰目標は9月後半へと後ろ倒しになっていた。7月のオフ期間。誰もいないグラウンドで、トレーナーとマンツーマンで軽く体を動かし始めた。自分のペースでやれたので、気持ちも楽になった。夏合宿にも参加し、ダッシュやDBの動き、ステップを、思い出しながらやっていった。8月末には防具を着け、軽いヒットやタックルを始めた。

脳振盪を起こしたのと同じ関大戦で復帰

いよいよ最後の秋のシーズンが始まった。誰も日本一以外のシーズンを経験してないチームであることが、デメリットになると山本は感じていた。外から見ていると、個々の熱量に差があるように思えた。「これぐらいでええやろ」という空気があった。それを変えようと思い、ミーティングで発言していた。

練習には合流できたが、新たな復帰目標である9月下旬になってもゴーサインが出ない。10月30日の近畿大学戦が終われば、あとは強豪校との戦いばかり。なんとしても近畿大戦で戦列復帰しておきたかった山本は、DB担当の梅本裕之コーチに「どうやったら試合に出られますか」と相談に行った。ディフェンスとキッキングゲームでチャンスをもらい、「ここで出られないと最後まで出ずに終わる」という思いから、必死で練習した。気合が入りすぎていたのかもしれない。キッキングの練習中にボールに飛び込んだ際、右肩を痛めてしまった。近畿大戦まで1週間。「もう、選手として試合のフィールドには立たれへん」。絶望した山本は練習グラウンドで泣いた。

近畿大戦には出られなかったが、首脳陣は今シーズン最初の大一番である11月13日の関西大学戦でチャンスをくれた。キックオフカバーとパントカバーで関関戦に出られることになった。試合前、万博記念競技場の芝の上に立ち、山本は思った。「いままでの苦しかった経験が頭の中で流れていきました。あの苦しみを乗り越えてビッグゲームに出られるんや、と」。勝手に涙が出てきた。

関大戦で378日ぶりの試合出場。体は動かなかったが、うれしかった(撮影・北川直樹)

1年前に脳振盪を起こしたのと同じ関大戦。実に378日ぶりの試合出場だった。体は思うように動かなかったが、心の底からうれしかった。この試合、本来の自分のポジションで出た2年生のDB中野遼司(関西学院)がインターセプトリターンTDを決めた。2年の立命戦でインターセプトした自分を重ね、我がことのように喜んだ。

2週間後の立命館大戦はしっかり動けた。リーグ優勝。前述のように小学校から高校まで最終学年は芳しい結果が出ていなかったから、ホッとした。いろんな思いの詰まった涙があふれ出た。

そして前述の通り、12月4日の西南学院大戦を前にした練習で脳振盪が再発。山本はチームを裏から支えて、甲子園ボウル5連覇の力になった。同じポジションの後輩でありながら親友のように接してきた山村の大活躍も、山本の心を明るくしてくれた。

さまざまな思いを胸に、立命館大との試合前、フィールドへと駆けていった(撮影・篠原大輔)

後輩には同じ思いをしてほしくない

この1年、何度泣いたことだろう。

いま山本は強く思う。後輩たちには同じ思いをしてほしくない、と。山本は脳振盪の兆候に気づかなかった上、上級生としての使命感も相まって、3年生の関大戦に出たことでアメフト人生を狂わせてしまった。「脳振盪になってから同じダメージを繰り返すセカンドインパクトが一番よくない。そのときの自分の置かれた立場からプレーを続けたくなる人もいると思うけど、長引いて自分を苦しめるだけです。4年生でプレーできないのは、本当につらい。これは伝えていきたいと思います。僕が言えば伝わると思うので」

山本昌弥の選手としてのフットボール人生は15年間で終わりだ。来春に就職したら、関学の高等部でコーチをしようと思っている。後輩たちと日本一を目指す、新たなフットボール人生が幕を開ける。

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