陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2025

中大・東海林宏一 箱根駅伝「0区」区間賞で仲間を後押し、次の舞台こそチームに貢献

4年目の全日本で3大駅伝デビューを果たした中央大学の東海林宏一(撮影・松崎敏朗)

第101回箱根駅伝で中央大学は往路2位の総合5位で終え、2年ぶりとなるシード権を獲得した。レースを終えた1月3日の報告会後、東海林宏一(しょうじ・こういち、4年、山形南)は「みんなが笑顔でうれしい」と語った。昨年11月の全日本大学駅伝で3大駅伝初出走を果たしたものの、箱根は16人のエントリーメンバーに入れず。最後は悔しさを味わった東海林に、4年間を振り返ってもらった。

「輝かしい4年間が待っていると思っていた」

東海林は高校時代、5000mで14分01秒の自己ベストをマークし、期待のルーキーとして中大陸上部長距離ブロックの門をたたいた。「高校の時は(大学で)輝かしい4年間が待っていると思っていた」と期待に胸が膨らんだ。

「スタートダッシュはよかった」と言うように、1年目から6月の全日本大学駅伝関東地区選考会を走った。10月の箱根駅伝予選会にも出走し、本戦出場に貢献。伊勢路と箱根路、いずれも走ることはかなわなかったが、16人のエントリーメンバーには選ばれた。

期待に胸を膨らませて中大に進み、喜びも悔しさも味わった(本人提供)

2年目の春先はケガの影響で、全体とは別の練習をしていた。夏前には、藤原正和監督から「気持ちが入っていないのではないか」と指摘され、1対1で話をする機会が設けられたという。「傍(はた)からそう見えるなら、そうなんだ」と思い、気持ちを入れ替えて厳しい夏合宿を乗り越えた。10月の早稲田大学競技会で10000m29分15秒41の自己ベスト(当時)をマーク。全日本大学駅伝は当日に吉居大和(現・トヨタ自動車)と変更になったものの、当初は6区にエントリーされた。箱根駅伝も前年に続いて16人のメンバー入り。「2年目も、自分としては合格点をあげられるくらいの充実感はあった」

ところが東海林にとって、最も困難な1年間になったのが3年目だった。

「陸上に対してやる気がないとか、練習をサボるとかはなかったけど、冷めた人間になってしまった。『別にメンバーに入らなくてもいいかな』とか、みんな頑張っているけれど『けがしているしな』と思ってしまった」。チームは「箱根駅伝総合優勝」を目標に掲げ、大きな注目を浴びていたが、東海林の心は離れつつあった。練習が積めているのに思うように走れず、ケガにも苦しみ、今では「最悪だった」と表現する。

「情けない」と突き動かされた岩手合宿

最終学年となった4年の上半期も、納得のいく結果は出せていなかった。そんな中で転機となったのが、全体合宿とは別に設定された夏の岩手合宿だった。「箱根予選会や全日本では絶対に使わないルートで『あれ、自分ラスト1年なのに、もうこの夏の時点で箱根以外なしって言われるのはやばい。4年生なのに情けない』」。この思いが東海林を突き動かした。

東海林自身が変わるきっかけになったという岩手合宿(本人提供)

岩手合宿では、花田俊輔コーチによる的確なメニュー設定やアドバイスがあった。同じ合宿に参加していた同期の山口大輔(4年、藤沢翔陵)と「一緒にはい上がろう」と励まし合い、後輩の永島陽介(3年、東農大二)や山﨑草太(2年、西京)から「結果残しましょう」と言葉をもらい続けたことが、支えになった。この期間を「自分のためだけではなくて、他の力も働いた。みんなのために、このメンバーと一緒にみたいな気持ちがすごく強かった」と懐かしむ。

山形南高校時代、陸上部の長距離の同級生はたった3人。しかし大学には、たくさんの仲間がいる。最初は大人数で行う中大の練習や初めての寮暮らしが不安だったというが、心配はいらなかった。休日は同期と温泉に行ったり、後輩と古着屋巡りをしたり。多くの時間を共有した。「後輩は競技面より、私生活やメンタル面で支えてもらった。後輩がいて自分が成り立っている」と言えるほど、今では大きな存在だ。

競技面でも仲間の存在が東海林を強くした。入学した当初は「自分が良ければ全てよし」という思考が強かった。「当時はそのくらいオラオラしていた方がいいのかもしれないと思っていたけれど、今はそんな風には思わない。むしろみんなと頑張った方が、自分の力がより引き出されるんだなと思った」

ラストイヤーの夏合宿を終え、10月の東海大学競技会。東海林はついに10000mで28分48秒48を記録し、自己ベストを更新した。大学生の中で組トップとなり「4年生という力が働いた」。そして11月の全日本大学駅伝で5区を任された。花田コーチからも「全日本を走るまでよく持ってきた」と言われ、4年目で確かな足跡を残した。

最初で最後の全日本は5区を走り区間9位だった(左が東海林、撮影・中西真雪)

全日本の後も、最初で最後の箱根駅伝出走をめざして練習を積んでいた。しかし、12月1日に荒川河川敷で開催された選考レース「THE DISTANCE GAMES」で1時間04分59秒と結果を残せず。エントリーメンバー16人に入ることはできなかった。12月は「自分の役割をちゃんと見つけて、チームのために頑張ろうって思えた1カ月だったのでとても充実していた」と現実を受け入れ、尽力した。

襷をつなぐポーズでゴールした「0区」

12月30日の中大記録会は今回、登録メンバーに勢いを与えるための「箱根駅伝0区」という意味合いもあった。ここで東海林は、10月に出した自己記録をさらに更新する28分46秒30。トップでゴールし、見事に「0区区間賞」を獲得した。ゴールする際には、襷(たすき)をつなぐポーズを披露。「あれをしたくて、ラスト2000m頑張りました」と笑顔で話した。

箱根駅伝「0区」から1区へ、"襷"をつないだ(本人提供)

箱根駅伝当日、往路は5区で園木大斗(4年、開新)の給水係を務め、復路は6区を走る浦田優斗(4年、國學院久我山)に他大学とのタイム差を伝える役割に徹した。チームは総合5位。レースを終えると、「4年生の出走は少なかったけど、後輩が『僕たちのために』って口に出して頑張って走ってくれたので頼もしかった」。また箱根駅伝0区区間賞に「この結果でみんな頑張れたって言ってくれたので、本当に良かった。出来過ぎなくらい」と自身の走りが仲間に力を与えたことを喜んだ。

卒業後は地元の山形に戻り、NDソフトアスリートクラブで競技を続ける。「大学ではチームに貢献できなかったと、自分は思っている。悔いがあるので、実業団ではその企業に貢献できるような選手になりたい」と語る。

高校時代に思い描いていた競技生活とは異なるかもしれない。「そこのギャップに苦しめられたっていうのは、やっぱりありますし、満足はしてない4年間です」。しかし、東海林はたくさんのチームメートに囲まれ、多くの人たちを走りでも、人柄でも魅了した。「走るのは好きです」と断言した東海林が、新天地でも笑顔で駆け抜ける姿を多くの人が待っている。

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