立命館大・中地こころ 過去の悔しさ晴らし「二冠」に貢献、今後も笑顔と力強い走りを
2024年12月30日に行われた富士山女子駅伝で、立命館大学が7年ぶり6度目の優勝を果たした。昨年10月の全日本大学女子駅伝に続く「二冠」を達成。全日本ではエース区間の5区を走り、富士山ではアンカーとして歓喜のフィニッシュテープを切ったのが、中地こころ(4年、立命館宇治)だ。ムードメーカーでもある彼女の存在なしには今年の立命館を語れないほど、競技面でも精神面でもチームを支えた。ただ、彼女の陸上人生は、はじめから順風満帆だったわけではない。
「強い環境でやりたい」と立命館宇治入部を直訴
京都府長岡京市出身の中地は、中学の部活動で陸上を始めた。学校のマラソン大会で上位に入るなど、もともと走るのは得意な方だった。幼少期に習っていたことから水泳部に入るか迷ったが「どうせやるなら強いところでやりたいと思って。出身中学校は陸上部が強かったので入部を決めました」。だが意外にも、当時は「全然強くなかったです」。京都府大会に出られるかどうかのレベルだった。
中学では、練習した分だけタイムが伸びるという陸上の楽しさを感じた。「高校でも続けたいと思いました。やるなら強いところでやりたい。京都で強いって言ったら立命館宇治しか思い浮かびませんでした」。自ら立命館宇治高校の監督に電話し、入部希望を直訴した。「入部させてくださいと。強い環境でやりたい思い、立宇治でやりたい思いを伝えました」
駅伝の強豪校として知られる立命館宇治高校では、走る量と速さに驚かされた。「中学時代は走って5kmとかでしたが、当たり前に8km、10kmを走る。全国からトップレベルの人しか集まっていないので、私がチームで一番遅いし、毎日練習についていくので必死でした」。今では心強いチームメートの村松灯(4年、立命館宇治)についても「中学生の時から知っていて雲の上の存在でした」と中地。ここで3年間、競技を続けられるのか不安だったと振り返る。
高校2年まではケガが続き、思うように走れなかったが、地道な練習が実を結び、3年で念願の全国高校女子駅伝に出走。3区を任された。全中やインターハイへの出場経験がない中地にとって、初めての「全国の舞台」。「チームは優勝を目指した中で5位でした。個人としても前との差を縮められず、悔しい結果で終わって。最初で最後の高校駅伝は苦い思い出になりました」と振り返る。一方で、常に全国優勝を目指すからこそ、チーム力の大切さを学んだ。「競技力はもちろん、ケガした際にどう取り組むべきか、考える力も身についた。監督は厳しかったですが、愛情をもって指導してくださったので感謝しかないです。立宇治での3年間があって、今の私がいます」
ケガから復活できた先輩の存在
大学でも競技を続けた。「正直、決めたのは高3の10月くらい。それまではケガも多かったし『続ける』という考えがありませんでした」。立命館大学は当時、全日本、富士山ともに歴代最多優勝回数を誇っていたが、中地のルーキーイヤーは表彰台にも乗れない苦しい状況にあった。「チームは優勝を目指していたし、私も優勝したい気持ちがずっとありましたが、口だけで優勝という感じでした。とりあえず頑張ろうという感じで」と中地。1年目から全日本は5区、富士山は4区を任された。「全日本はいきなりエース区間で、練習を積めているはずなのに、おじけ付いて結果区間11位でした。富士山も区間3番ではあったけど、チームに貢献する走りができなかった。1年目から駅伝を走らせてもらいましたが、良い結果は残せなかったです」
続く2年目はケガに苦しみ、全く走れなかった。中地にとっては最も苦しい1年間だった。「1年目の富士山が終わってからケガをして、それがなかなか回復しなかったんです。全然試合にも出られへんし、練習に身が入らないし、陸上に対して気持ちが入らなかった。自分でも何をやってるんやろうってくらい、ひどい状況で、チームにたくさん迷惑をかけました」
ようやく調子が戻ってきたのは、3年目の夏合宿だった。1学年先輩にあたる小林朝(現・ノーリツ)とケガのタイミングが同じだったこともあり、切磋琢磨(せっさたくま)しながら練習に励んだ。「ケガをしていた時期は、お互いに周りのことが全く見えていませんでした。全女も富士山も走れへんかったからこそ、思いを共有できました」
夏合宿明けからぐんぐんと調子を上げた。全日本では4区を走り、自身初の区間賞を獲得。「響きは良いですが、正直『このタイムで取れるんや』って感じで。チームが優勝を狙える中での3位だったので、喜べる結果ではありませんでした」。区間賞を自信に富士山へつなげたかったが、12月のはじめにケガが再発。その状態のまま富士山でアンカーを走った。「自分なりにやれることはやったけど、3位と10秒差で襷(たすき)をもらったのに抜かせず、表彰台を逃して悔しい結果になりました。今振り返ると、3年目までは駅伝でチームに貢献できた思いがないです」
練習強度が上がり「強くなっている」を実感
ラストシーズンは、身を削る思いでチームのために取り組んだ。4回生でミーティングを重ね、思いを強くしていった。「同期とは厳しいこともたくさん言い合って、数えきれへんくらいミーティングをしました。後輩に『4回生がこれだけやってるから頑張らなあかんな』って思ってもらえるように、日頃の練習からプラスアルファで距離を伸ばしたり、ジョグを採り入れたり。行動面で示そうと心がけました」
チームは着実に強くなっていった。「今までなら行けなかったペースで走れることもあって、練習強度が上がって強くなっている実感があった。寮でみんなで過ごしている雰囲気とか会話からも優勝したい思いが表れていて、そういったところが優勝につながっていったと思います」
そして迎えた最後の全日本と富士山で悲願の「二冠」を達成した。中地は「優勝に対する思いが4年間で一番強かったし、思いを切らすことなく全員で取り組み続けられたことが良かったと感じています」と語る。個人としては全日本が1年時、富士山は3年時と同じ区間を託され、当時の悔しさを晴らす走りを見せた。「全女は後ろから強い留学生選手が来てたので、とにかく前だけを見て走っていました。沿道の方に差が縮まってるって言われ続けたんで、怖かったです(笑)。富士山は傾斜がきつかったんですが、一番で帰ることしか考えていなかった。競技場に入ったらチームメートが笑顔で待ってくれていて、本当に幸せでした」
挙げたらキリがないくらい「立命館に来て良かった」
4年間を振り返ると「挙げだしたらキリがないくらい『立命館に来て良かった』と思うことばかり。頑張りたいと思えるチームメートがいたからこそ、自分のためだけじゃなくて、チームのために頑張れた。周りに恵まれた4年間でした」という思いがあふれ出る。
中地は卒業後も地元・関西の実業団で競技を続ける。「将来的にはマラソンなど、長い距離で結果を残したいです」。これからも持ち前の笑顔と力強い走りをたくさんの人に届けてほしい。