慶大・堀井哲也監督と清原正吾 ドラフト指名漏れの後、車内でかわした2人だけの会話
2024年に注目された大学生アスリートの一人が、慶應義塾大学の清原正吾(4年、慶應)だ。プロ野球ドラフト会議で無念の指名漏れになってからも、その進路をめぐって熱い視線が注がれた。野球に一区切りをつけた清原を入部当初から指導してきたのが、堀井哲也監督。清原とともに駆け抜けた4年間をじっくりと振り返ってもらった。
進路を「決めたので、返事をさせてください」
昨年10月24日に開催されたドラフト会議。慶應義塾大の会見場には、プロ志望届を提出していた清原を目当てに、報道機関35社、60人が集まった。1位候補さながらの注目度だったが、清原の名前が呼ばれることはなく、指名漏れとなった。
堀井監督は「これで清原への注目が少し落ち着くのでは」と思っていたという。ところが今度は、野球を継続するのかも含めた進路が関心を集め、むしろ注目度が高まっていった。
「宗山君(塁、明治大学4年、広陵)や西川君(史礁、青山学院大学4年、龍谷大平安)には申し訳ないなと」。堀井監督にはそんな気持ちもあったようだ。宗山は5球団競合の末に東北楽天ゴールデンイーグルスから1位指名を受け、西川は2球団からの1位指名が重複し、千葉ロッテマリーンズが交渉権を得た。大学日本代表監督の立場からしても、高い評価を得た2人より注目を集めたことは、複雑だったのだろう。
こうした中、ドラフト後の早慶戦で清原のバットから快音が聞かれた。前カードの法政大学戦では、2試合とも無安打。しかし早慶1回戦では、秋シーズン3本目のホームランを含む4安打をマーク。2回戦も1安打を放ち、勝ち点奪取の立役者になった。ポテンシャルの高さを見せつけたことで、進路への関心はさらに広がっていった。
清原から「(進路を)決めたので、返事をさせてください」という連絡が堀井監督に入ったのは、昨年11月22日。早慶戦から12日が経過していた。それなら電話ではなく、対面の方がいいと、会って話をすることになった。
22日の午後は神宮球場で翌年の大学選手権に関する会議があった。これに出席する堀井監督は「終わったら会おう」と清原に伝えた。ただ、神宮球場では明治神宮大会が開催されており、球場内にはメディアも大勢いる。「一緒にいたら記者さんたちに囲まれそうなので、私の車の中で話そうと。指定した待ち合わせ場所で清原をピックアップしたんです」
継続か、一区切りか「可能性は両方あると思った」
堀井監督の車は、慶應義塾大のグラウンドがある神奈川県・日吉方面に向けて走り出した。「話が終わった時点で、車から降ろすつもりでした。それが多摩川あたりになるのか、もしかすると日吉になってしまうのか、それとも渋谷に着く頃には終わるのか……。『終わったら、自分で帰りなさい』と清原には言いました」
話はほんの数分で終わった。清原からオファーが届いていた独立リーグ球団などに対して「お断りしてください」と伝えられた堀井監督は、「そうか、分かった」と短く返答した。清原は表参道駅の近くで、堀井監督が運転する車から降りた。
「もともと野球を継続するか、それとも一区切りか、可能性は両方あると思ってましたので……。悩んだ末に本人が決めたことですから、理由や経緯も一切聞きませんでした。『分かった』の一言だけでしたね」
ただし、断りの連絡を翌日にはしなかった。堀井監督は自分の中で1日だけ温めた。
「翌々日の日曜日の朝に断ることは、清原にも言ってありました。彼には話しませんでしたが、1日だけ猶予を持たせたのは、心変わりする可能性もあるのでは……と考えていたからです」
清原の決心は変わらず、堀井監督は24日の朝に各球団に断りを入れた。そしてこの情報を、清原が『今後は野球の道ではなく、新たに目標を持ち、社会に出る準備をすることにしました』などとつづったメッセージとともに、報道機関へ寄せた。
様々なメディアが報じた「清原引退」のニュースはすぐに大きな話題となった。それは、清原がいくつものストーリーを持つ選手だったからだろう。偉大なスラッガーだった清原和博さんを父に持ち、一時はバラバラになった家族のために野球を再開。中高と6年間のブランクがあった中、3年春に先発出場の座をつかみ、4年秋には3本のホームランを放った。
堀井監督は「つくづく稀(まれ)な選手でしたね。経歴だけ見ても、清原のように、中高とも野球から離れていながら4番を打った選手は東京六大学の長い歴史の中でもいなかったのでは」と口にする。社会人野球でも三菱自動車岡崎とJR東日本で計23年間監督を務めた名将にとっても、珍しい存在だった。
最初は投手として試し、次に捕手
堀井監督が初めてプレーを見たときから、清原は輝きを放っていたという。〝6年のブランクがあるなかで野球を再開する覚悟〟と〝清原の名で野球をする覚悟〟の二つがあることを認め、入部を許可した。
「ど素人であるのは間違いなかったんです。でも、ただのど素人ではなかった。能力を感じましたね。キャッチボールが全く違ったので。投げられるということに、私は明るい将来を描けたんです。送球はみんな苦労しますからね。正直、入部する際の面談時点では、『守れないのだろうな。打つことだけが好きで、たぶん4年間それで終わるのではないか……』と思っていたんです。ところが、投げるところを見た瞬間、もしかしたらバッティングさえ慣れてくれば、代打くらいでベンチに入れるのでは、と予感がしました」
スローイングの良さが目に留まり、堀井監督はまず、清原を投手として育てようとした。ブルペンにも入り、マウンドから投球練習もさせた。「その時点で130キロ近く出てましたかね。でも、少し投げただけで肩が張ってしまって……」。そこで次に捕手を試した。
「捕手をやれば、野球を覚えられますしね。何日かやったのですが、体が大きすぎて、合わなかったんです」。堀井監督は試合に出場するための条件として、守備力を求める。清原は送球が安定していたから、チャンスを与えられたのだろう。
さらに堀井監督は清原を「プロに行くべき選手」と見ていた。「本人にも、再開すると決めた以上、目指すのはプロだと、早くから伝えてました」
そこには清原のバックグラウンドがあった。堀井監督はこう語る。
「清原和博さんを父に持つ彼は、幼少期時代を〝清原選手〟とともに過ごしてますからね。家族の一人として、プロ野球がどういうものなのか、よく知っているかと。私はそれが大きいと思うんです。それが基準になっているはずですし、彼の4年間の頑張りや他の部員にはない原動力を生んだように思います。漠然とプロを目指すのと、一流を知っていて目指すのとでは違いますからね」
まだ〝ど素人〟の時から高みを目指せると踏んだのは、清原のバックボーンが努力を引き出すと見ていたからだろう。
プロへ行くのに4年間では足りなかった
6年間ものブランクがありながらプロを目指すのは、例えるなら、受験生が現時点での偏差値では遠く及ばない超難関校を目指すことに似ている。清原は驚くほどのスピードで野球の偏差値をどんどん上げていった。4番に定着した4年目の春は、初のベストナインに選出された。
昨夏の練習では大学のOBで、東京六大学リーグの通算本塁打記録(23本)を持つ高橋由伸さん(元・読売ジャイアンツ監督)からも指導を受けた。
「ボールとの『間』の取り方ですね。その意識を授かったようで、それがエスコンフィールドHOKKAIDOでのホームランにつながりました。秋の3発を生むいいヒントにもなったのでしょう」
しかし、12球団からは声がかからなかった。堀井監督は「4年間では間に合わなかった、足らなかったということでしょうね」と残念そうな表情を浮かべる。そして、次のように続けた。
「たらればになりますが、1シーズン早く3本ホームランを打って、秋に5本飛ばしていたら、プロの評価も変わっていたかもしれません。プロはやはり厳しいですね。もとより清原はそれをよく知っていた。知っていたからこそ、NPBから指名がなかった自分が、独立リーグでゼロから挑戦できるか、果たしてそこから頑張れるか、というのがあったんじゃないですかね。これはあくまで私の想像ですけど」
明るい性格で「人としての奥行きもありました」
ところで堀井監督は、入部当初から注目され続けてきた清原を、一人の青年としてどう見ていたのだろうか。
「明るい性格で、コミュニケーション能力も高かったですね。ちゃんとした常識も持ってますし、人としての奥行きもありました。注目選手を預かる大変さ? それはなかったですね。報道でのデリケートな部分に気を使ったくらいで。風のように4年間を駆け抜けていった清原と一緒にやれて、本当に楽しかったですよ」
清原正吾に伴走した堀井監督にとっても、駆け抜けた4年間だったに違いない。