慶大・清原正吾を語る上での三つの視点、覚悟に始まり、進化を遂げたマルチアスリート
慶應義塾大学入学以来、清原正吾(4年、慶應)の一挙手一投足には常に視線が注がれてきた。プロ志望届を提出したことで、ますます周辺は騒がしくなっている。その清原とはどんな選手なのか? 改めて三つのポイントからあぶり出してみた。
「覚悟」で始まった大学野球生活
今秋の東京六大学リーグ、明治大学との1回戦。清原は敗色濃厚の九回2死からリーグ戦初本塁打をバックスクリーン左に打ち込んだ。日頃から心掛けているというセンター返しを実践した一打は、貴重な引き分けをもぎ取る値千金のソロアーチになった。「それまでの3打席が情けない結果だったので……(打席に入る時は)4番として覚悟を決め、腹をくくってました」
「覚悟」という言葉。それは立教大学との開幕戦後も口にしていた。前日にプロ志望届を提出していた清原はこう言った。
「(プロ志望については)覚悟を決めて、自分の腹に落とし込んで今日(開幕日)を迎えました。このシーズンは自分にとって特別な思いがあります」
思えば、清原の大学生活は、覚悟から始まった。慶大野球部の門をたたいた時、堀井哲也監督から「二つの覚悟があるか」と問われた。
一つは中学、高校と野球から離れていた中で、大学野球をする覚悟だ。清原は慶應義塾普通部ではバレーボール部、慶應高ではアメリカンフットボール部に所属していた。堀井監督によると「入部当初は硬球を怖がっていた」という。大学はそこからのスタートだった。
もう一つは「清原」の名前で野球をする覚悟だ。父親はNPB通算525本塁打を誇る清原和博氏。世間は清原正吾としてではなく、どうしても「清原ジュニア」として見る。その覚悟はあるのか、と。
清原は小学生の頃、学童チームでホームラン打者として活躍していた。一方で、常に「清原の長男」という視線がつきまとった。野球をやめたのは、そこから離れたくなったからという経緯があった。
もとより、二つの覚悟はできていた。野球を再開した根底には、父親の1件でバラバラになってしまった家族への思いがあった。「僕が大学でもう一度野球をすることで、社会復帰に向けて懸命に頑張っている父が元気になってくれたら、と思ったんです。父のためにも、絶対に神宮の舞台に立ってやる、と」
人は誰かのため、何かのためにと決意をした時に、大きな一歩を踏み出す。清原の場合は、それが「家族への思い」だった。
心の奥に深く刻んだ覚悟は、逆境に立ち向かう原動力にもなっている。
清原は昨春、法政大学との開幕戦で初スタメンを飾り、3回戦ではリーグ初安打をマークした。だが、2カード目となる明大4回戦での代打を最後にベンチから外れ、秋もリーグ戦のメンバーに入れなかった。
もしかすると、このままBチームから上がってこれないのでは……。堀井監督は心配していたというが、清原ははい上がって来た。ここで腐ってしまうくらいなら、野球を再開していない。Bチーム降格後は、レギュラーだったプライドも捨て去り、誰よりもバットを振り込んだ。清原の覚悟は、堀井監督の想像を超えるほど強かった。
6年間のブランク埋めた「進化」のスピード
清原正吾を語る上で欠かせないのは、進化のスピードが速いということだ。たとえば、バッティング。慶大に入るまで学童野球しか経験していない清原は、変化球を打ったことがなかった。「はじめの頃、変化球は視界から消えてました」と明かす。
それでも、野球を再開してから約1年半後の2年秋。早稲田大学との早慶戦2回戦でリーグ戦初打席に立った。慶大野球部は例年、選手だけで160人程度いるため、4年間で一度もリーグ戦の舞台を踏めない選手も少なくない。だが、清原は2年秋にそれをクリアしてしまった。
大学まで見たことがなかった変化球にも必死に対応した。前述のリーグ戦初安打は、投手がタイミングを外そうとした変化球をとらえ、三遊間を破った。
一塁のレギュラーに定着し、主に4番を担った今春は、ともにチームトップタイとなる打率(2割6分9厘)とヒット数(14本)をマークし、一塁手部門で初のベストナインになった。1954年秋から表彰が始まった東京六大学リーグベストナインの歴史で、中学高校の野球経験がなくて選出されたのは、おそらく清原が初めてだろう。
ただ、春はフェンス直撃が何本かあったものの、期待されていたホームランは出なかった。
オープン戦ではたびたび飛ばしていた一発が公の場で生まれたのは、秋の開幕前だ。東京六大学選抜の一員として、北海道日本ハムファイターズの2軍と対戦した試合。ここでも4番を任された清原は、エスコンフィールドの左翼フェンスを軽々と越えるアーチをかけた。
そして、明大1回戦で生まれたリーグ戦初本塁打。打った球はそれまでなかなか打てなかった外に逃げる変化球だった。清原の春から秋への進化について、堀井監督はこう語る。
「ストレートに負けなくなったのと、インコースがさばけるようになった。それと失投を見逃さなくなりましたね。三つの技術的な成長が、柵越えにつながったのでしょう」
今秋の進化は止まらない。東京大学との3回戦では「東大のサブマリン」こと渡辺向輝(3年、海城)が投じた緩いカーブに対応し、左翼席に2号ホームランをたたき込んだ。「(強振せず)コンパクトにスイングしたことで、バットのヘッドが走ったのだと思います」と清原。春までは打てなかった球種を打ち返し、「変化球に対して(上体が突っ込まず)体が止まるようになりました」と堀井監督は目を細めた。
中学、高校で投手と対峙(たいじ)していない清原は、練習や練習試合を含めた打席数が同年代の選手に比べて圧倒的に少ない。投手と相対する経験の積み重ねが打者の成長につながるのだとしたら、大きな伸びしろがある。リーグ戦では、試合中にタイミングの取り方を変えるなど、工夫している姿がたびたび見られる。これから打席経験を積むごとに、どれだけ進化していくのか。底知れぬ可能性を感じさせる。
「マルチアスリート」という価値
清原は野球から離れていた期間をまったく悔いていない。「バレーもアメフトも楽しかったので」と、むしろ他競技で過ごした日々を大切にしている。
異なる競技の経験が野球に生かされているところもある。たとえばアメフトのスローイングだ。アメフトのボールは、より体幹を意識しながら、理にかなった投げ方をしないと真っすぐ投げられない。野球でもスローイングを矯正するために、アメフトのボールを使う選手がいるが、高校時代に毎日のように投げていたからか、清原は送球能力が高い。一ゴロを捕球した後、3-4-3のダブルプレーで二塁に送球するときも正確だ。
堀井監督によると、清原の正確な送球は、3年時でレギュラーに抜擢(ばってき)する際の決め手の一つになったという。「(守備のエラーで比率が高いとされる)送球ミスがない選手なので。送球を含めた守りが安定していなかったら、起用しなかったでしょう」
高校レベルでもサインが100以上あるというアメフトでは、フィジカルとともに「考える力」も鍛えられた。「このサインの時はこうアジャストしようと、いつも先のことを考えてました。それは体に染み込んでいて、野球に戻ってからも、常に考えながらプレーをしてますし、練習でもそうですね」
かつて、ボー・ジャクソンという選手がいた。1980年代後半から1990年代にかけて、同時期に野球とアメフトを兼務し、MLBで8年間、NFLで4年間プレーしたマルチアスリートである。話題を集めていたのは清原が生まれる前だが、「そういう人がいたというのは聞いたことがあります」。
もちろん、ボー・ジャクソンは比較対象にはならないが、清原は高校時代、慶應高校アメフト部で攻撃のオールラウンダーであるタイトエンドとして活躍した。3年時は神奈川選抜にも選ばれている。そして野球では、東京六大学リーグのベストナイン。清原は二つの競技で結果を残し、「一筋タイプ」が主流の日本ではなかなか例がない、マルチアスリートになった。
大きく言えば、清原は一人の野球選手ではなく、スポーツ界にインパクトを与えたアスリートである。他競技をしていたが、また野球をやりたい。高校では野球をしなかったが、大学でやりたい。清原の影響を受けて、これからそういう選手が出てくるかもしれない。
これからどこまで行くのか。常識を覆してきた清原の未来は誰にも予測できない。