陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2024

立命館大・小林朝 2年目に知った「駅伝の素晴らしさ」、自分と向き合い続けた4年間

関西女子駅伝3連覇のフィニッシュテープを切る小林(撮影・立命スポーツ編集局)

駅伝の強豪・立命館大学で、小林朝(4年、須磨学園)はルーキーイヤーからチームの主力として走ってきた。全日本と富士山の2大駅伝には4年間で6度出走し、区間2位が4度。関西女子駅伝では2度アンカーを務め、2年時には5年ぶりにフィニッシュテープを切り、4年時は逆転で立命館の3連覇に貢献した。結果だけを見れば華やかだが、意外にも小林にとっての4年間は苦難の連続だった。彼女にとって駅伝とは。そして陸上競技とは。王座奪還を目指し走り続けた4年間に迫った。

【特集】駆け抜けた4years.2024

けがに苦しみ、駅伝を走れなかった高校時代

小学校のマラソン大会では敵なし。幼少期から走ることが得意だった小林は、小学校6年生の時に陸上を始めた。「仲の良い友達に誘われて陸上教室に行ってみたら、すごく楽しかったんです。今では陸上が私の一部というか、私から陸上を取ったら何も残らないかもというくらい、陸上なしでは考えられなくなりました」

中学校の部活動で顧問の先生に長距離の適性を見いだされると、すぐに才能が開花した。1年時から全国大会に出場するなど、世代トップに名を連ねた。

幼少期の頃から走ることが得意だった(本人提供)

高校は地元兵庫の強豪、須磨学園高校に進んだ。「目指せるなら高いレベルでやりたいと思っていましたが、実はけがが続いて全く走れなかったんです。都大路どころか、駅伝を一つも走れなくて。なんで自分だけ走れへんのやろうって」と、当時の心境を振り返る。しかし「走れないなら、みんなより走り以外の練習を長くして必死で追いつこうと思いました。3年時はキャプテンに選んでもらったので、走れなくても態度でみんなの見本になれるように意識していました」

苦しい3年間だったが、小林に「陸上を辞める」という選択肢はなかったという。「やっぱり陸上が大好きだった。もっと、ずっと走りたいと思いました」

後輩ができたことで抱いた責任感

進学した立命館はこのときから、駅伝女王の座を名城大学に奪われていた。毎年「来年こそは」と王座奪還に燃えていたが、その差は年々開くばかりで、目標はいつしか「女王奪還」から「優勝を目指しつつ、最低でも3位以内をとろう」に変わっていったという。

小林は当初、駅伝に対して特別な思い入れはなかった。「個人種目の方が気が楽でした。高校で駅伝を走れなかったこともあって、あまり良いイメージがなかったです」。1年生ながら全日本大学女子駅伝のメンバーに選ばれた際も「立命館として走ることに誇りはありましたが、大学に入ってもけがが続いていたこともあって、チームのためにというより、『やっと走れるんだ』という気持ちでいっぱいいっぱいでした」と語る。

ただ2年生になり、後輩ができたことで責任感を持つようになった。「明らかに走る量が増えましたし、モチベーションが常に高い状態でした」

駅伝に対する思いも強くなった。「関西女子駅伝でアンカーとしてゴールテープを切ったんですが、私を迎えてくれたみんなの笑顔が忘れられないくらい幸せで。この瞬間のために私は頑張ってきたんやなって。駅伝ってなんて素晴らしいんやろうと感じたんです」と目を輝かせた。「このチームのために頑張ろう、このチームで優勝したいと強く思うようになりました」

駅伝でアンカーとして戻ってきた仲間の笑顔が忘れられない(撮影・立命スポーツ編集局)

3年目の悔しさをぶつけたラストシーズン

しかし、3年時は年間を通してけがに苦しんだ。「けがをして、体調を崩して、精神的にもしんどくて。初めてはっきりと『陸上をやめたい』と思いました。陸上に関する情報を何も頭に入れたくないくらい、陸上が嫌でした」。そんな小林を救ったのが仲間の存在だった。「みんな『待ってるよ』と声をかけ続けてくれました。本当にうれしかったですし、どん底から救ってくれました」

特に1学年下の中地こころ(3年、立命館宇治)の存在は大きかったという。「同じ時期にけがをして走れない時期が重なったんです。2人で補強などで一緒にいる時間が多くて、『来年は一緒に駅伝を走ろう』と励まし合っていました」

小林がけがに苦しんだ3年目、一緒に励まし合った中地(本人提供)

苦しくて先の見えない3年目だったが、その悔しさをラストシーズンにぶつけた。「最後は笑顔で終わりたいのはもちろん、やっぱり優勝したい。優勝しか見えていませんでした」。言葉だけではなく、行動にも移した。夏合宿から走る量を大幅に増やし、食事の管理と補強、ケアを徹底。基本的なことから意識的に取り組んだ。

駅伝で優勝したい。その思いはチーム全体に広がっていた。個人で自己ベストを更新する選手が増え、確実な手応えがあった。

「私たちの世代がダメな時も後輩たちが支えてくれた」

昨年10月の全日本大学女子駅伝は3位。アンカーを務めた小林は責任を感じていた。「私が襷(たすき)をもらった時は3位でした。すぐに2位の大学に追いついて並走していましたが、結果的に最後の直線で競り負けた。本当に悔しかったです」

最後の富士山女子駅伝こそ、必ずチームの優勝に貢献したい。しかし、駅伝が近づくにつれて調子を落としてしまった。「ラストの駅伝は走れないかもしれない」と覚悟して現地入りしたという。

小林は当日、最短区間の3区を区間2位で走りきった。チームは4位。優勝を目指した中で表彰台も逃してしまった。「本当に悔しかったです。レース直後はみんな涙が止まりませんでした。まだまだ自分たちには倒さないといけない相手がいると気付かされました」

思いは後輩に託す。「私たちの世代がダメダメな時も、後輩たちが支え続けてくれました。優勝できるチームだと思うし、何より走ることを楽しんで欲しいです」と言葉に力を込めた。

最後の富士山女子駅伝では不安もありながら3区区間2位(撮影・立命スポーツ編集局)

人間として成長させてくれた4年間

小林はけがに苦しみながらも、自分自身と向き合い続けた4年間だった。「駅伝の楽しさを教えてくれた。個人としてタイムを伸ばせたかと言われればそうではないですが、自分で行動する大切さを知り、競技者としてだけでなく人間として成長させてくれました」と充実の表情を見せた。

卒業後は地元関西の実業団で競技を続ける。「私が頑張れるのは応援してくれる仲間や両親、サポートしてくれる人がいるからだと実感しています。しんどい時こそ周りに味方がいるんだということを忘れずに、感謝の気持ちを持って走り続けたいです」

駅伝での輝きを胸に、これからも陸上競技に情熱を注ぎ続ける。

駅伝での経験を実業団での競技生活にもつなげる(本人提供)

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