サッカー

連載:監督として生きる

30人から200人規模に 流経大サッカー・中野雄二監督(中)

試合前に肩を組む流経大の選手、スタッフたち

流通経済大学サッカー部の選手たちが暮らす寮は、現在4棟あります。80人規模の最初の寮は、2002年に2億円かけて建設されました。この寮に関して、中野雄二監督(56)には苦い思い出があります。連載「監督として生きる」第4弾の2話目です。

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“難産”だった最初の寮

サッカー部の強化には寮が欠かせないと考えた中野監督は、選手たちの保護者向けに説明会を開いた。ほぼ承諾を得たあと、大学が連帯保証人となり、サッカー部の名義で10年契約を結んだ。チームは30人規模で、まだ関東リーグにも上がれていなかった。毎月の支払いに不安はあったが、寮建設初年度の02年には50人程度の新入生が入ってくる予定だったため、なんとか金銭面のめどは立っていた。

それが、寮が完成したころになって、上級生の保護者らから声が上がった。「寮は必要だとは思いますが、強要するのはいかがなものか。これから入る学生は寮だとしても、自分たちの子どもには、入るか入らないか選択させてほしい」。再び保護者を集めて説明会をすると、「練習が厳しすぎる」「監督の態度が悪い」などと、指導方針を問題視する声も上がった。

全員が同じ寮ですごし、気持ち一つで挑めないなら意味がない。中野監督は全員の入寮を再度保護者に呼びかけたが、折り合えなかった。「監督がいままでのことを土下座して謝ってくれたらいいですよ」という話さえ出たという。「なんで監督が土下座しないといけないんですか?」。マネージャーは、そう言って泣き出した。これで収まるならと、中野監督は土下座で謝った。

「そりゃ悔しかったですよ。でも、2億円もかけてつくった寮の完成を目の前に、入る入らないでもめたら家賃が払えない。土下座した方が早いじゃないですか。『いままでの指導が間違ってたなら謝りますから、一緒に頑張りましょう』と呼びかけました」。それでも、自発的に退部した選手もいたという。

2002年にできた最初の寮。いまは主に1、2年生が生活している

中野監督が「こいつだけは絶対プロにしてあげたい」との思いで指導してきた阿部吉朗は、この年、4年生になっていた。さすがのプレーでチームを引っ張り、流経大は関東リーグ2部に昇格。その勢いのまま、関東大学選手権で準優勝。総理大臣杯全日本大学トーナメントでもベスト8に入った。阿部は在学中にFC東京と正式契約を結び、流経大初のJリーガーとして活躍。15年に引退すると、自費で人工芝のフィールドをつくり、子どもたちにサッカー教えている。

阿部が家族を連れて、中野監督の家に遊びに来ることもあるという。「自分は大学の指導者みたいなタイプじゃない。だから子どもたちを教えて、一人でも二人でも、中野さんのところに選手を送りたい」と、中野監督に話しているそうだ。それほど阿部と中野監督の絆は固い。

付属校の連携が実を結んだ初優勝

流経大は06年に関東1部で優勝し、初のタイトルを獲得した。チームを引っ張ったのは、付属校の流経大柏高校から上がってきた4人の4年生だった。流経大柏が強いから流経大も強い。そう思う人も多いかもしれないが、当時、流経大柏に通うサッカー選手の大半は柏レイソルユースでプレーし、高校の部活ではサッカーをしていなかった。流経大柏が強くなったのは、01年に本田裕一郎氏がサッカー部の監督に就任してからだ。06年、流経大初のタイトルは、流経大柏との連携が実を結んだ結果とも言える。

流経大の寮には、たくさんのトロフィーが並んでいる

本田監督は直近の習志野高校を含め、千葉の公立校の教員としてサッカー部の指導をしていたが、度重なる異動に悩んでいた。本田氏の話を聞いた中野監督は、流経大柏の監督に本田氏を推薦。本田氏は習志野高から選手15人を引き連れ、流経大柏の監督に就任した。もちろん、全員が流経大に進学したわけではない。中には「体育の教員免許を取りたいから」という理由で他校を選ぶ選手もいた。サッカー部以外のスポーツ部でも同じ理由でリクルーティングがうまくいかないケースが起きていたため、流経大は06年にスポーツ健康科学部を設立し、教員免許のとれる環境を整えた。

06年の4年生にはもう一人、難波宏明という選手がいた。岡山の笠岡工業高校からJリーグのヴィッセル神戸に進み、2年目に栃木SCへ移籍。活躍するチャンスがなく契約を切られ、流経大にやってきた。入学当時の難波は金髪だったため、中野監督は「とんでもないやつがきた」と思ったそうだ。それでもサッカーに対するひたむきさを感じ、「大学はプロと違うんだから、自分が一から出直したいと思うなら、変わろうとしないとダメなんじゃないか?」と諭した。難波は黒髪に戻し、チームの躍進に大きく貢献。06年の関東1部初優勝のときにリーグのMVPを受賞した。卒業後は横浜FCへと、またプロの道を歩んだ。

いま流経大サッカー部には毎年50人程度の新入生が入り、チームは200人規模に膨らんだ。この春には70人もが入部した。04年に1部に昇格して以降、一度も降格していない。06年の初タイトルが自信となり、07年には総理大臣杯で初優勝。08、09年とリーグを連覇した。10年以降、流経大は4度の日本一に輝いたが、リーグ優勝は09年が最後。それほど関東リーグの戦いは厳しい。

監督として生きる

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