サッカー

連載:監督として生きる

「人のために」が肝心 流経大サッカー・中野雄二監督(上)

流経大サッカー部を根本から変えた中野監督(左端)

流通経済大学サッカー部は、いまでこそ多くのプロ選手を送り出す名門として知られているが、20年前まではやんちゃな学生たちが気ままにサッカーを楽しむようなチームだった。それを変えたのが、現在の中野雄二監督(56)だ。試合会場には「闘将 中野雄二」という大きな垂れ幕がある。思わず身構えて取材に向かったが、闘将は「僕はなんちゃって指導者なんですよ」と、柔らかい笑みで迎えてくれた。

タバコに改造車、20年前の惨状

中野監督は学生時代、法政大学で監督代行兼主将としてチームをまとめた。卒業後は水戸短期大学附属高校(現・水戸啓明高校)で教員になり、サッカー部の監督に。その後、プリマハムのチームで指導。流経大がサッカー部を「スポーツ重点部」にするにあたり、1998年に招かれた。流経大はサッカーのほかラグビーや柔道など七つのスポーツ部を重点部と定めて予算を割き、監督を置いている。当時の選手からも「強くなるために監督がほしい」との要望があったという。

中野監督は流経大に来たとき、ビックリして言葉を失った。部員は30人ぐらい。部員名簿はなく、誰が部員なのかも定かでなかった。選手たちは、ほぼ全員がタバコを吸った。中には改造した自動車で爆音を鳴らしながら通学し、週末は練習にも来ないで仲間とドライブに行くような選手もいた。グランドは縦90m、横50m程度で陸上部と兼用。「ボールが飛び出してきて危ない」と、しょっちゅう陸上部からクレームがきた。地面は砂地でデコボコしており、まともな練習ができなかった。「なんでこんな大学に来ちゃったんだろう」。中野監督はまず、いつやめようかと考えたそうだ。

選手たちの意識があまりにも低かったため、全員やめさせることも考えたが、サッカーが好きだという気持ちだけは伝わってきた。まずは必ず法律は守らせ、その上でどんなにキツくても練習についてくるよう、学生たちに求めた。すると翌99年に茨城県大学リーグで優勝し、初めて関東大学リーグ2部に昇格した。中野監督は「せっかくのチャンスなんだから、いろんな面で改めてステップアップしよう」と呼びかけたが、「このやり方で上がれたんだから、このままでいいですよ」と、選手たちは反発。何も変わらなかった結果、2000年のリーグ戦で1勝もできず、再び県リーグに降格した。

阿部吉朗の入部で腹が決まった

この年は中野監督にとって大きな契機だった。「あいつがいなかったら、いまの流経大も僕もいません」。中野監督がそう話すのは、流経大から初めてJリーガーになった阿部吉朗だ。中野監督はプリマハム時代に茨城の常総学院高校でも指導しており、当時の教え子だった阿部がこの年、流経大に入ってきた。

中野監督と阿部吉朗の交流は、いまも続いている

阿部にはサッカーに対してひたむきな姿勢があり、選手として光るものがあった。当時の流経大は荒れていたが、中野監督は阿部を誘った。「中野さんのところでやったらプロになれますか? 」という彼の問いに、中野監督は「約束はできない。でもお前がプロになれるように、最大限の努力をするよ」と答えた。「やんちゃな連中ばかりのところに、吉朗が飛び込んできました。僕自身もいつやめようかと思ってたんですけど、吉朗を誘って預かることで『こいつだけは絶対プロにしてあげたい』と思ったんです」。阿部の入部で、中野監督の腹が決まった。

そんな気持ちで挑んだ最初の年にリーグ戦全敗。抜本的な改革の必要性を痛感した。タバコと自動車の改造を禁止。学校の授業に出なかったり、部のルールを守れなかったりするなら試合に出さない。「日ごろの考え方とか取り組みとか思いやりは、そのままサッカーの試合にも出るものです。足の速さや技術力の高さは一つの道具。どんなにいい道具を持ってても、「人のために」という気持ちがない人間は、本当の意味でのチームプレーができません」。それまで自由にやってきた選手たちから不満が出るのは分かっていた。それでも「人としての成長」を第一に掲げた。

チーム強化には栄養と休養が必要だった。当時はみなアパート暮らしで、生活費はパチンコに消え、食事は白米に塩やしょうゆをかけて食べるような生活をしていた。いくら練習しても、これじゃ、とても戦えない。中野監督は寮の建設に動き出した。

続き「30人から200人規模に」はこちら

監督として生きる

in Additionあわせて読みたい