ラグビー

連載:監督として生きる

明治を復活させた男 田中澄憲の考え(上)「やると決めたらやる」

監督就任1年目で明治を22年ぶりの大学選手権優勝に導いた田中監督 (撮影:斉藤健仁)

日本代表でも活躍した身長164cmの小さな体が、秩父宮ラグビー場の宙を舞った。
1月12日、ラグビーの大学選手権決勝。昨シーズンは準優勝だった明治大(関東対抗戦Aグループ3位=4位扱い)が、天理大(関西Aリーグ1位)を22-17で下し、22シーズンぶり13度目の栄冠に輝いた。
明治を久々の優勝に導いたのは、前回優勝した1996年度のSH(スクラムハーフ)で、キャプテンも務めた田中澄憲監督(きよのり、43)。昨シーズンはヘッドコーチを務め、今シーズンから監督に就任、巧みな手腕で母校を復活させた。田中監督へのインタビューから、2016年度は大学選手権で初戦となる3回戦で敗退したチームを準優勝、優勝へと持ってきた舞台裏に全3回で迫る。1回目はヘッドコーチ就任から監督1シーズン目の前半までの、ラグビーの面での変革と改革について。

新たなチャレンジを、と母校へ戻った

報徳学園高校(兵庫)、明治大学でプレーし、7人制日本代表、日本代表歴もある田中監督は、10年度までトップリーグの強豪サントリーサンゴリアスで13シーズンに渡ってプレーし、何度も日本一を経験した。ボールさばきに長けた、攻撃的なSHだった。そして引退後の11年度から6シーズンはチームスタッフとしてリクルートや広報、チームマネージャーなどを担ってきた。

13年度から明治を指揮していた丹羽政彦監督(50)は「会社(清水建設)に戻らなければいけない時期がくる」と、後任を探していた。「いずれは監督も視野に入れつつ、明治を手伝ってくれないか」と白羽の矢を立てた相手が、サントリーでエディー・ジョーンズ監督(前日本代表ヘッドコーチ)らを支えていた田中氏だった。

明治へ戻った1シーズン目の17年度は、グラウンド上でのすべてを指揮するヘッドコーチに。そして丹羽監督が昨シーズン限りで退くと、監督に就任した。既定路線だった。

丹羽監督は寮に住み込み、学生の生活習慣から変えて、15年度は大学選手権ベスト4進出にも大きく貢献していた。田中氏はリクルートで母校のグラウンドを訪れ、「丹羽さんが監督に就任してから、チームがいい方向に進んでる」と感じていた。それでもサントリーではコーチングを経験していなかったため、母校の指導者となることについて「不安は不安だった」と振り返る。

一方でこうも感じていた。「チームスタッフを6年間やったので、新たなチャレンジをしたいという思いがありました。いい経験になると思ったし、母校が常に優勝を争うチームになればうれしい。巡り合わせですかね」。サントリーからの出向という形で、丹羽監督からのバトンを受けることに決めた。

「自分から『なりたい』と思ったわけではないし、丹羽さんに声を掛けられたのが大きかった。僕は基本的に与えられる仕事を一生懸命やる。結果を出すためにコミットして、最大限にやるのが自分のよさだと思ってます」(田中氏)

サントリーサンゴリアス時代の田中監督 (撮影・森井英二郎)

どうやったら日本一になれるのかを提示

「やると決めたことはやる」という哲学の持ち主である田中氏は、外から母校のラグビー部を見て、「勝とうとしているチームではない。そういうマインドセット(心構え)がない」と、強く感じていた。そしてヘッドコーチとして迎えた17年3月の最初のミーティングでは、2シーズン前の負けている試合中にダラダラ歩いていた選手たちの映像を見せ、「本気で日本一になる」というマインドセットを持ち、戦う集団になることを強く訴えた。

ただ「いまの選手たちはメンタル面だけを話してもやる気にならない」と感じていた田中ヘッドコーチは、来年1月の大学選手権で優勝して日本一になるという目標を設定し、共有。大学選手権決勝の日から逆算し、「どうやったら日本一になれるのか」を提示してみせた。

1年間を四つに分けたスケジュールを立てた。「セットプレー」「リアクションスピード」「ディフェンス」という3本の柱を決めた。それを実践するための週6日のウェイトトレーニングとフィットネストレーニングも課した。セットプレーを中心としたFWを担当するコーチには、明治の後輩でリコーブラックラムズでもプレーしたHO(フッカー)の滝澤佳之をフルタイムで招いた。

練習は丹羽監督と同様に、授業の前の朝6時半から全体練習を行う。田中ヘッドコーチは「確かに朝はきついかもしれないが、午後は自分の時間を取ることができる。勉強したり、友達と遊んだり、自主的にトレーニングしたり主体性をもって計画を立てることができます」とその有効性を説く。そのため田中ヘッドコーチは、今でも朝4時半に起床し、5時には寮につき、夜は22時までいる生活を送り続けている。

その成果はすぐに結果となって現れる。17年度は関東対抗戦で帝京、慶應には敗れたが、2位で大学選手権に進み、19年ぶりの決勝に進出した。決勝では8連覇中の帝京大と対戦。帝京の攻撃を止めることが難しいと感じていたため、ボールを保持し続ける戦術をとった。後半5分には13点差をつけたが、結局20-21で負けた。

昨シーズンを振り返り、田中監督は言う。「実質的には3番手、4番手のチームだったのかもしれない。キャプテンのLO(ロック)古川(満、現トヨタ自動車)がチームを引っ張り、副キャプテンのCTB(センター)梶村(祐介、現サントリー)がいいサポートをしてくれて、4年生の力で決勝まで来られました。ただ、決勝に進出したことでちょっと安心してしまったのかな。どんどん追い詰められて、『本当に日本一になれるのか』という状態でやってましたね。自信のなさが出てしまった」

2シーズン目、田中氏は予定通り監督に就任した。最初のシーズンで決勝に進めたことで手応えと自信をつかみ、田中監督は「大きく変えるよりも、何を積み上げるか」を考えた。もちろん目標は変わらず「日本一」。今年1月12日の大学選手権決勝から逆算してピークをつくっていくスケジュールを提示した。

副将を置かず、リーダーを9人に

スローガンは昨シーズンのチームを超える、準優勝という結果を超えるとういう意味の「EXCEED(エクシード)」とした。キャプテンについては、スタッフたちと話し合った上で「クレバーで80分間、グラウンドに立てる」と、田中監督の現役時代のポジションであるSHの福田健太(4年、茗渓学園)を指名した。

アタックをさらに整備するため、BK担当のコーチに田中監督の明治、サントリー時代の同期でコーチング経験も豊富な元日本代表SO(スタンドオフ)の伊藤宏明氏を招聘(しょうへい)。田中監督は、現場でコーチングするよりも全体をマネジメント、統括する立場となった。スタッフの役割は明確にした。

2シーズン目は3本柱ではなく「デンジャラス(危険な)アタック」「ハンティング(ボールを奪い返す)ディフェンス」「ドミネート(圧倒する)セットプレー」「スマッシュ(接点で相手をしっかり排除する)ブレイクダウン」「フラッシュトランジション(素早い攻守の切り替え)」という五つの柱を定めた。

また1年間を四つでなく三つの期間に分けた。新チームが立ち上がって最初の3カ月はフィジカルや基本スキルといった個人の強化、次の3カ月をFWとBKのユニットの強化、最後の3カ月を戦術、戦略、サインプレー、レフリーの対応といった細かいプレーの精度を高める期間とした。
ほかにも週6日だったウェイトトレーニングを週5日に、個人強化の期間に2カ月ほどレスリングのコーチも招いた。今季から外国人枠が2人から3人に増えたため、7月にはトップリーグ勢との試合や練習を重ねた。

さらに、キャプテン、副キャプテンという制度ではなく、サントリーの「ロッカーグループ」にならい、福田キャプテン以下、計9人をリーダーとするリーダーグループ制を導入。リーダーには、ほぼポジションごとに4年生が就任し、掃除などもリーダーグループでやる。この制度は学年ごとの横断的なグループではなく、縦断的な組織としてコミュニケーションの活性化を図ること、また4年生にリーダーシップを取れる人間を増やし、4年生でチームを前に進めていくことに期待したものだった。

また、夏合宿から91人の選手が「クラウドコーチング」というスマートフォンのアプリを使い、「ゴミを拾う」「部屋を掃除する」「スリッパを並べる」など、日々三つほどの目標を設定し、それができたかできないかを振り返ることにした。基本的には田中監督や各グループのリーダーも結果を見られる。「どんな状況でも当たり前のことをできる力、平常心を保つため」と、田中監督は導入の意図を語る。これは、強制はしなかった。

昨シーズンの決勝は1点差で負けたこともあり、この取り組みでメンタル面が鍛えられることを期待した。その効果は、当初は生活面に現れ始めたという。そして3~4カ月後には試合の中でピンチになっても動揺しなくなったり、集中力が上がったり。グラウンドで一定の効果は出ていたという。

田中監督(右)は現役時代の自分と同じSHの福田をキャプテンに指名した (撮影:斉藤健仁)
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