ラグビー

連載:監督として生きる

明治を復活させた男 田中澄憲の考え(下)「やってみなはれ」

大学選手権で優勝し、記者会見で話す田中監督 (撮影・斉藤健仁)

1月12日、ラグビーの大学選手権決勝。明治大(関東対抗戦Aグループ3位=4位扱い)が、天理大(関西Aリーグ1位)を22-17で下し、22シーズンぶり13度目の栄冠に輝いた。明治を久々の優勝に導いたのは、前回優勝した1996年度のSH(スクラムハーフ)で、翌年度にキャプテンも務めた田中澄憲監督(きよのり、43)。ヘッドコーチから昇格し、監督就任1シーズン目で母校を大学日本一に導いた舞台裏に迫るストーリーの最終回は、田中監督が20歳以上年下の大学生たちにどう接し、思いを伝えてきたのかについて。

前回「チームが強くなる文化を」はこちら

片付けないチームが日本一になれるか

田中監督は選手たちに「日本一になる」というマインドセット(心構え)を植え付け、大学選手権の決勝から逆算したスケジュールを立て、どんな練習をすれば日本一になれるかと説明。選手に納得させた上で実践したということは(上)と(中)でも書いた。

田中監督は自身の方法論について「根本はエディーから始まってます」と言う。現在、イングランド代表を率いるエディー・ジョーンズ元日本代表ヘッドコーチの影響を大いに受けている。昨年2月、田中監督らはイングランド代表チームにも勉強に出かけている。ジョーンズ氏は1997年にサントリーのコーチをして以来、サントリーと関わりがあり、2011、12年度は監督としてタイトルを獲得した。田中監督は選手、スタッフとしてエディーとともに戦った。

エディーがサントリーを抜けたあとも、田中監督はスタッフとして大久保直弥監督、沢木敬介監督をサポートし続けた。この二人のカラーも反映されてはいるが、やはりベースはジョーンズHCの指導論だったという。「サントリーでさまざまな指導者を見てきたことが勉強になった。エディーから参考にしたのは、準備をしっかりして、年間計画を立てることです。決勝から逆算して、その通りに進めながらやりました。計画があれば不測の事態があっても対応できますし、レビューもできます」(田中監督)

この2年間、朝5時半には寮に来て、夜10時に帰宅というエディー顔負けのハードな生活を送っていた田中監督。年に2度、選手と1対1で面談するが、どうやって選手たちとコミュニケーションを取り、やる気を引き出していたのだろうか。田中監督は「そこに関してモデルはいません。イマドキの大学生だからと、とくに意識することはなかったですね」と語った。ただ、大学生に接するのは難しいと実感してもいる。「社会人のチームと違ってトップレベル選手もいれば、そうではない選手もいます。それに、怒るとすぐにヘソを曲げてしまいますから。距離感が大事ですね」と、苦笑いで話した。

2年前に明治のヘッドコーチに就いたとき、最初は「日本一を目指すチーム」ではなかった。明治には高校のトップ選手が多くやって来るため、個人主義の強い選手が多かった。田中監督は「そういった現状を変えたい」と、練習態度が悪い選手に「帰れ!!」と激しく叱ったこともあった。

また、朝起きたばかりで寝癖をつけたまま出てきた選手には「もし監督が寝ぐせをつけてたらどう思う?」と聞いた。ウェイトルームで後片付けをしなかった選手には「片付けをするチームとしてないチームのどちらが日本一になれる?」と尋ねた。選手たちは朝5時半に起きて6時半からの練習をするための準備を始めて、後片付けも徐々にするようになっていった。こうしてチームの空気、雰囲気は少しずつ変わっていった。

田中監督は2シーズンかけてチームの雰囲気を変えてきた (撮影・谷本結利)

結局は人間教育

サントリーのチームには「スタッフは選手のため、チームのため、勝つためにどうするかを考える」という文化があったと、田中監督は感じている。営業マンとしても「商品を売るのではなく。お客さんが儲けるために、どうサントリーの商品が役に立つのか考えました。お店にお客さんが来てくれないと、結局自分たちの商品が売れないから」と、常に相手の立場で物事を考えていた。

大学生と接するうえで、19年間にわたってサントリーというチームに選手とスタッフで関わり、選手時代の13年間はサントリーの営業マンだった経験が生きた部分も多かったという。田中監督は昔を思い出しながら、「いい経験も失敗した経験もありましたから」と笑う。

また田中監督は明治やサントリー時代にキャプテンも経験し、社会人としてラグビー部以外の上司や同僚からも学び、リクルート担当としても多くの学生と接してきた。こうした経験が明治ラグビー部の指導者となってもプラスに働いたのは間違いない。

大学生と接する秘訣を聞くと、少し考えてから田中監督は「忍耐、忍耐力ですね」と返した。「大学生は大人扱いも子ども扱いもしないといけない。そこのさじ加減やコミュニケーションの取り方も大事になってきます。クソッと思う選手はたくさんいます。ほったらかしにするのは簡単ですけど、そのままにするか、もう一度トライして声をかけるかは自分次第だと思います」(田中監督)

学生にとっての人生の先輩として田中監督が大事にしているのは、しっかり自分の本心を伝えることだ。「いいプレーをじゃないのに『ナイス、ナイス』と言ってしまうと、その選手の成長が止まってしまいます」と、その意図を語ってくれた。そして田中監督は言う。「明治に来たからには、いい選手になってほしい。いい選手って、みんないい人間じゃないですか。いい選手になるにはいい人間にならないといけない、と信じてます」。この思いが指導の根底にある。

「もし4年間、試合に出られなくても、周りから頼られ、信頼される人間になれば社会で通用します。それもなくて、ラグビーも中途半端だったら終わりですから。ワールドカップに出たいという選手もいますが、目標は人それぞれ違います。何も目標がない、努力しないで生きていくことはやめてほしいし、そういった学生を社会に送り出したくはない。結局は人間教育だと思ってます」と田中監督。学生たちの行動は少しずつ変わってきたが、「まだまだ見えないところで詰めが甘い」とも感じている。
「トレーナーが両手いっぱいに荷物を持ってて、自分は何も持ってなかったら、一つ持ってあげる。そういった小さな気遣いができる集団は強い。そういう気づきができない選手は自分を俯瞰して見られないし、ラグビーでもウィークポイントを改善できない。監督に言われなくても4年生が指導役をできるチームになってほしい。完璧は求められないですけど、少しずつよくしていきたいです」。口調に熱が帯びる。

田中監督は大学生に接する秘訣を「忍耐力」と表現 (撮影・斉藤健仁)

学生スポーツは4年生のもの

優勝後も、田中監督は感情を露わにすることなく、「部員126名の努力とハードワークが最高に最高の形であらわれて非常にうれしい。去年、決勝で悔しい敗戦をして、今シーズンが始まった。(勝因は)学生たちの努力、頑張り、それ以外ない」と、しみじみ語った。

田中監督が大学3年のとき、つまり、前回の優勝したシーズンの1996年5月28日、60年以上にわたり明治を指揮していた北島忠治監督が亡くなった。その影響で、ラグビー部OBにあたる大人たちのごたごたに巻き込まれ、田中監督がキャプテンを務めた4年のときはチームから大人をほぼ排除し、学生だけで臨んだ。そういった経験もあり、「大学スポーツは学生のもの」という思いが人一倍強いのかもしれない。

昨年11月、明治の体育会の新4年生に向けて田中監督はこう話したという。「学生スポーツは4年生のものだと思います。4年生が自分のクラブをどうしたいのかという思いが一番大事です。どういう思いを持ってどういう行動するかが大事。その準備をみんなで話し合ってしっかりして、このクラブにいてよかったと思って卒業していってほしい」

22シーズンぶりの優勝を成しとげた田中監督は、決勝が終わった瞬間、次のシーズンのことが頭をよぎったという。「自分が早明戦にあこがれたように、今回の決勝を見て、明治に来たいと思うような高校生がどんどん来るようなチームにしたい。もう次の代が始まっています。福田キャプテンの代を超えるチームをどう学生がつくっていくのか。僕らはどうやってチームをサポートしていくのかで頭がいっぱいです」と、先を見据えた。

サントリーから出向という形だが、指導者として学生と向き合う姿はいつも真剣そのものである。家族との時間もあまり取れず、ときには「つらい」「大変」と思うときもあるが、そのときはサントリー創業者の鳥井信治郎が残した企業哲学に立ち返る。「やってみなはれ」と自分に呼びかけ、「やるしかない」と奮い立っているのだという。

目指すのは、誰が監督をしても優勝が狙えるチームになるような文化をつくること。「紫紺のため、学生のため」という思いを強く持ち、田中監督は今日も学生とともに歩んでいく。

大学スポーツ界で生きる監督に迫る「監督として生きる」他の記事はこちら

監督として生きる

in Additionあわせて読みたい